第十五話 ジュリエット、駆ける
ジュリエットは二頭立ての黒い馬車に乗って、王都から北西へと向かっている。
リアンをマリアの元へ連れて行くという、ロゼッタからの依頼を遂行するためだ。
王都での所用を済ませるのに数日をかけてしまったが、大丈夫だろう。
黒い馬車は風のような速度で疾く走る。
「ロゼ大叔母様から討伐隊の予定は聞いているし、なんとか間に合いそうだわ」
ロゼッタがどうして討伐隊の行軍予定を知っているのか? そんな疑問は考えない。水晶球で探ったのだろう。
それよりも少年だ。彼の居るところに楽団の拠点がある。
少年を保護しながら、楽団を殲滅すればいい。一石二鳥だ。討伐隊の戦力など勘定に入っていない。
──不意に、馬車道で出会ったリアンを思い浮かべる。
自分を見つめていた表情。
フルートのように心地よい音色の声。
命の強さを感じさせる赤い金髪。
さらさらと長いまつ毛。
どこまでも沈んでいきそうな深くて蒼い瞳。
そして別れる時の、後ろ髪を引かれる想い。
(あの時感じた、胸の疼きは何?)
わからない。
ジュリエットは頭を振って、雑念を強引に追い出した。
「今度こそ大物が居ると良いのだけど」
リアンの中に流れる魔力の気配は覚えている。王都から大渓谷までの距離であれば、どれだけ離れようと少年の元へ辿り着く自信があった。
だが程なくして、誤算が生じる。
正確に位置と距離を把握していたはずの、少年の気配を見失ってしまったのだ。
ジュリエットが一瞬見せた焦りを察知して、老執事が問うた。
「いかがされましたか、お嬢様」
「あの子の気配が消えてしまったわ」
アデスには、主人の手が微かに震えているように見えた。
「それは、──困りましたな。無事だとよろしいのですが」
ちなみにジュリエットもアデスも黒猫も、みな馬車の中にいる。この馬車に御者はいない。御者台すらない。
にもかかわらず黒い馬車は女主人の指示通り、目的地まで風のごとく走る。
「霧滔の森まではもうすぐ。まずは気配が消えた場所まで急ぎましょう」
ジュリエットが魔力を高め、黒い馬車に送り込む。闇を塗り固めて作った二頭の黒馬が、その赤い目を不気味に輝かせて速度を上げた。
窓から見える草原に、岩が目立ち始める。巨大な黒馬はそれらを意に介さず踏み砕き、幅五百メトリはあろう河川の上をも通過した。
†
「着いたわ。ここが霧滔の森ね」
馬車から降りる二人と一匹。
ジュリエットが黒い馬車に向かって水平に手を振る。すると馬車は水が弾けるように、ばしゃりと闇を散らして消え去った。
目の前には梢が槍衾のように連なった、不気味な森が広がっている。普通ならこんな危険な雰囲気を醸す森に、しかも夜に入るなどあり得ないだろう。
だが、彼女は躊躇わない。
「さあ、行きましょう」
「御意に」
森へ入っていく主人に老執事が短く答え、その後に続く。黒猫はジュリエットの肩に飛び乗った。
ジュリエットは道なき森を、黒い馬車と遜色のない勢いで駆ける。その手に黒い大斧を握って。
道を塞ぐ巨木を次々に切り倒しながら、少年の気配が消えた場所まで最短距離で抜けてゆく。
強引な疾走を見せる主人に難なく着いて行きながら、老執事はその後ろ姿に少しの違和感を覚えた。
(やはり、焦っておられるのですかな? 確かにあの少年には、爺めも感じ入る物がありましたが……)
一行の前に、二頭の魔獣が迫ってくる。三つの目を光らせながら木々の間を抜け、飛び掛かってきた。
ジュリエットは眼前の魔獣に一切の意識を割かず、巨木と一緒に両断する。
二頭の魔獣は斬られた痛みを声にできぬまま、血を撒き散らして絶命した。
ジュリエットは立ち止まった。今しがた叩き切った巨木が倒れるのを眺めながら、老執事に告げる。
「ここですわアデスさん。ここに、リアンが居た」
しかし痕跡が消えている。いや、隠されている。恐らく、最初からリアンの魔力は目をつけられていたのだろう。
その声の、なんと弱々しいことか。思わず彼女は、後悔の念を吐露してしまう。
「なんて馬鹿なのかしら。あんな小さな子が戦いの場へ連れて行かれるというのに、私は──。楽団の拠点がわかるからと、羅針盤代わりにしてしまった」
ジュリエットが楽団を追う理由は、単に復讐だ。
五年前、両親を、目の前で惨殺された。ロゼッタが助けに来なければ自分も殺されていただろう。
彼女はロゼッタに、復讐の力を懇願した。
だからこそ楽団と聞けば、冷徹な判断を下してしまう。
その時、斬り殺した魔獣の血臭につられて、横合いから新たなドゥーフェが現れた。
「ごるるる」
魔獣は低い体勢から十分に体のバネを引き絞り、ジュリエットに飛び掛かる。
熟練の冒険者を瞬時に噛み殺す魔獣の牙、必殺の一撃。
それを無表情に一瞥した後、ジュリエットは逆手に持った黒い杭を魔獣の脳天に突き刺した。
またも魔獣は、絶叫を上げる間もなく絶命してしまった。
「こんな獣にも、容易く殺されてしまうような子どもなのに。愚かな私は、あの子が放り込まれる恐怖に思い至らなかった。──五年前、誰よりも救いの手を欲していた私が……」
何故こんなにも、あの少年のことが気になるのか、ジュリエットにはわからない。
「私の傲慢さが招いた失態ですわ」
アデスはかける言葉が見つからない。ここ数年のジュリエットは、一部の人間を除いて、他人に執着を見せることがなかったからだ。
それは主人の好むべき変化である。しかし少年が居ない。手がかりも、時間もない。
「お嬢様──」
どう慰めるべきか、アデスが悩んだ瞬間。
──腹の底に響く轟音と共に、魔力が迸った。
森全体が震え、木々を棲家としていた鳥たちが一斉に飛び立つ。あらゆる物が濁流に飲み込まれるような、低く荒々しい音が響き渡る。
「この魔力は! リアン!」
「お嬢様、後悔はまだ早うございますぞ!」
「ええ!」
なりふり構っていられない。これは魔力暴走だ。リアンが死んでしまうかもしれない。
ジュリエットは周囲の魔素を集め、震源地にむけて右手を翳す。
僅かなタメの後、手のひらから黒い砲弾、朧を撃った。輪郭が定まらない黒球は周りの空間を削り取り、目的地までの道を作る。
直線状に破壊された先には、リアンがいるはずだ。
「死なせないわ!」
ジュリエットは駆ける、少年を救うために。
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