車の自動運転におけるトロッコ問題
納車から一ヶ月のピカピカの愛車で通勤する時間は、至福とも言えるほどに快適であった。
片道三十分の通勤も、自動運転のお陰で何一つ苦にならず、なんなら寝ていても無事に辿り着く為、俊之はその日も鼻歌交じりの余裕顔で、車に乗り込むのだった。
懐かしの名曲を聴きながら、コンビニで買ったモーニングコーヒー。朝の喧噪も今では至福へのオードブルに思える程愛おしかった。
「……今日も疲れた」
夕方、仕事を終えると俊之は腕を頭の後ろへと回し、眠りに就いた。初めは心配だったが、今ではすっかり罪悪感等も失われ、自動運転を信頼しきっていた。しかしそれは過信に過ぎなかった。
自宅も間もなくの交差点で、それは起きた。
信号も無く、俊之の車が優先だった為、車は減速すること無く直進をしたが、右からいきなり自転車に乗った女が飛び出してきた。AIはすぐにそれを察知し、左へとハンドルを向けようとした。
しかし、今度は左から別の女が走って飛び出してきた。車は時速60km。ブレーキも間に合わず、どちらかを轢かねばならない状況に陥っていた。
俊之の車に搭載されていたAI(通称モリー)は瞬時に計算を始めた。どちらを轢くべきか、という極めて冷徹でとても現実的な計算をだ。
カメラによる認識で、自転車に乗っていた女は俊之の妻だと判明した。すぐに左へ向かう様に信号が走った。
しかし、カメラは左の女を俊之の不倫相手だと認識した。三日前助手席に座らせた際の人相と一致した為だ。左へ向かう信号を取り消し、評価値での算出を試みた。
妻75、不倫相手25。妻に軍配が上がった。速度的に歩行者が助かる確率は低い。不倫を揉み消すAIの判断は、とても現実的だった。
すぐに左へ向かう電気信号が送られようとしていた。
だが、AIは俊之の脳波から今朝の夫婦喧嘩の情報を察知した。妻の浪費癖が露見した為だ。カード会社から矢のような催促が次々と送られ、手も足も出なくなってしまったのだ。
AIは評価値に修正を加えた。
妻48、不倫相手52。今度は僅差で不倫相手に軍配が上がった。妻を抹消し、不倫相手と再婚を推奨したのだ。幸い俊之との間に子どもは授かっておらず、躊躇いは何も無い状態だった。
AIは左へ向かう信号を取り消し、右へ向かう信号を送った。
「──あっ!!」
車に気が付いた妻が驚いた。その拍子に自転車のカゴに入っていた買い物袋が揺れた。
俊之の好きなすき焼きのタレ、そしていつもより高い肉。今日は結婚記念日であるとAIは察知した。
すぐに評価値は再々計算され、車が左へ向かうように信号が送られた。
しかし、AIは不倫相手のバッグにマタニティマークのキーホルダーを認識すると、直ぐさま評価値を再々々計算し始めた。
今度は単純に人数の問題だった。一人か二人か。AIはすぐに助かる人数の多い方を選択した。
──が、AIは俊之の脳波からとある情報を察知した。俊之が不倫を始めた月日と、マタニティマークの計算が合わないのだ。つまる所、不倫相手は婚約済みか、他に相手が居る事になる。
AIは俊之の心の内を忖度し、ハンドルを左に切るように信号を送った。
すると、不倫相手の後ろから、相手と思われる男が現れた。男は俊之の妻の顔を見るなりハッと驚き、目をそらした。それは妻も同じで、明らかに目を合わせようとせず横を向いている素振りが如何にも怪しい感じであった。
AIはすぐに事情を察知した。
俊之の妻は、俊之の不倫相手の夫と不倫関係にある、と。
泥沼の不倫関係に、AIは次第に面倒になって、ハンドルはそのまま真っ直ぐに突き進む事となった。勿論ブレーキは掛けてはいるが、当然間に合う訳もない。
三人は見事に俊之の車に刎ねられ、宙に浮いた。
──事故を検知しました。
AIの案内で俊之が目を覚ますと、後方に倒れる三人の姿が見え、蒼白たる顔で駆けよった。
「大丈夫ですか!? ああ! 妻が……! 不倫相手が……! あと知らない人が……!!」
見た所、外傷は無かった。せめてもの救いであろう。
「う、うん……ぅ」
三人が目を覚ました。どうやら無事のようだった。
「あ、あなた……!」
「俊之さん……!!」
「オクサント フリンシテマシタ! オワビニ セプクシマス!」
不倫相手の夫がその場で自害した。
「あなた! 愛してるわ……! 浪費も止める! 全てをあなたに捧げるわ……!!」
「俊之さんだけが心の支えよ! マタニティマークはウソよ! 着けとけば電車で席を譲って貰えるから着けてただけよ!」
俊之は突然の出来事を理解出来ずにいた。
「モリー」
──これは事故です。
AIはキッパリと言い切った。