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天河に秘めたる ~奏琶国烈女伝~  作者: 五十鈴 りく
第3部

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11◆片流れの家

 黎基たちの軍は弟山を下山した。今度は何事も起こらなかった。

 獣も大軍を恐れてか近づいてこない。行きに遭遇した狼も、一匹たりとも見なかった。あの時に死んだ狼は、すでに他の鳥獣の腹の中だろう。


 弟山を下り、ここからなら蔡家の兄妹がいる(あん)(むら)まで行ける。兵を休ませるために行軍を一度止め、その隙に馬を走らせれば、すぐに帰ってこられる距離なのではないだろうか。


 黎基が考えていることを雷絃と昭甫は感じ取っていたらしく、どこか落ち着かない。


 展可はチヌアと話している。あの二人は時々ああして話しているが、疚しいところはないのだろう。いちいち目くじらを立てるのはあまりに狭量かと、気にしないようにした。


 展可は、黎基が誰に会わんとするのかを知らないので、展可のことは連れていかずに済ませるつもりだ。


 黎基がいない間に軍で何かあってはいけないから、雷絃とチヌアのことも連れていけない。昭甫と二人で行くしかないだろう。

 それを言われる前に、雷絃がこっそりとささやいた。


「出かけられるのでしたら崔圭(さいけい)をお連れください」


 雷絃の副官だ。しかし、彼も詳細を知らない。武人だから口は堅いと思われるが、困惑させてしまうのも予測できる。

 すると、昭甫が言った。


「私がお供致しますので、策瑛を連れましょう」


 昭甫はどうにも、この策瑛という男を買っているらしい。ただの民兵に過ぎないが、昭甫にそこまでの信を置かれるのならば、黎基がしかるべき立場になった暁には重用してもいいかもしれない。


「馬に乗れるのなら連れてゆこう」

「ええ、乗れます」


 多分、昭甫より上手く。


「それならいい」


 ――十年だ。あれから長い歳月が過ぎた。

 あの兄妹は黎基のことを恨んでいるだろうか。それとも、詫び続けているのだろうか。

 それを知る時が来たのだ。


 まず、なんと言葉をかけようか。頭を整理して、慎重に話したい。

 心のうちでは長らく苦しめてすまないという思いしかないのだが、それを正直には言えないのだから。


 明日、二人に会うと思ったら、戦以上に気が昂った。

 眠れないまま、同じ天幕の中にいる展可の小さな寝息を聞きながら朝を迎えた。



     ◆



 そして、春風がまだまだ冷たさを残す中、黎基は抜け出す前に展可に向けて言った。


「私は昭甫と少し話があるから天幕の中にいる。展可は民兵たちのところに行ってくるといい」


 これで内密の話があると展可が勝手に察する。こうした時に出しゃばる娘ではないのだ。


「畏まりました」


 綺麗な仕草で拝礼し、展可は黎基に背を向ける。黎基と昭甫は目配せした。黎基は物陰で昭甫に借りた袍に着替える。

 みすぼらしくもなく、貴人というほど立派でもなく、これくらいが丁度いい。あまり目立つ格好で移動しない方がいいということになったのだ。


 黎基が着替える間、昭甫はあらかじめ馬と一緒に待たせてあった策瑛といた。黎基が策瑛に言葉をかけたことはなかったが、いかにも実直そうだ。

 臆した様子もなく、朗らかに見える。


「策瑛と言ったな。急な用につき合わせてすまぬ」


 声をかけてみると、策瑛は畏まりつつも柔らかく答える。


「いえ、私でお役に立てますのなら、なんなりとお申しつけください」


 そこで昭甫の方が落ち着かない様子で言った。


「さあ、急ぎましょう」


 馬術が不得手な昭甫は、馬を速く走らせられない。策瑛と相乗りする方がいい。


「私が先を行く。昭甫は策瑛に乗せてもらえ」


 馬の扱いが下手だと言われたようなものなので昭甫はムッとしたが、それを言っている場合でないこともわかっている。


「殿下こそ道をお間違いになりませんように」


 昭甫の精一杯の皮肉を黎基は軽く躱す。方角を間違えなければまず迷うことはない。遮蔽物はそれほど多くはないのだ。


 黎基は馬に乗り、ゆっくりとその場を遠ざかる。黎基が動きやすいよう、雷絃が兵の目を引いている。稽古と称し、崔圭と打ち合っているのだ。将軍の身のこなしに、皆、目が離せず食い入るように見つめている。



 逸る気持ちを精一杯抑えつつ、黎基は馬を駆った。

 それこそ、秦一族が放った刺客がいたなら一発だ。馬鹿なことをしているのかもしれない。いや、していると思う。


 けれど、あの日からずっと心の奥で凝り固まっていた罪悪感から解放されたかった。

 そんなものは身勝手な言い分で、蔡桂成の命は戻らないとしても。


 あの兄妹のことは好きだった。善良だった。

 もう顔もおぼろげにしか思い出せないけれど、会えば面影を見出せるだろうか。

 嫌な顔をせずに迎えてくれるだろうか。


 特に晟伯だ。彼はきっと、優秀に育っているはずなのだ。

 もし、すっかり荒んでしまって自堕落になっているとしたら心苦しいが。その場合、そうなった責任は黎基にある。

 手綱を握る手に力が籠る。


 晏の(むら)の外郭が見えてきた。大門も昼間は開かれている。黎基は騎乗したまま大門を潜り、馬から下りて昭甫たちを待った。少し飛ばしすぎてしまったらしく、間が空いてしまったのだ。

 追いついた昭甫は怒っていた。


「お一人で先走りすぎです!」

「すまぬ」


 まったく心の籠っていない謝罪をした。

 黎基と昭甫は馬を連れ、策瑛が人に蔡家の場所を訊ねて回った。策瑛は最初からある程度わかっていたかのような手際の良さを見せた。


「はい、端っこの方ですよ。もともと余所者ですから、そんなにいい場所はあたりませんね」

「そうなのか……」


 黎基はこの(むら)なら安全かと、ここにあの家族を匿うことにした。そのために送金も続けた。

 けれど、黎基自身が晏の(むら)を訪れたことはなかったし、どんなところなのかにも詳しかったわけではない。ただ、京師(みやこ)からは遠く、身を隠すには丁度良いかと思えた、ただそれだけの理由なのだ。


 当時九歳でしかなかった子供のことだから、どんな場所が住みやすいのか、集落の人々との付き合いはどのようなものなのか、その辺りには無知であったと言えよう。

 今ならばもう少し違うやり方もあったかと、自らの幼さを恥ずかしくも思う。


 

 三人で少し歩いた。 

 片流れの屋根の家がそれであるという。遠くに家が見えた。その家が近づくにつれ、動悸が激しくなる。今になって顔を合わせるのが怖いなどとは言えたものではない。


 ただ、もういいのだと言えた時、彼らが喜んでくれると、それだけを信じていたい。


 家の前に人影があった。若い男だ。家から出るところであったらしく、正面に来ていた黎基たちを認めるなり顔をしかめた。

 そうして、男は三人を警戒しながら見遣り、ボソリと言った。


「なんだ、あんたたち? この家に何か用か?」


 この通りの先に他の家はないのだ。ここにいる以上、他の家に用があるとは考えにくい。

 黎基はそれを言ってきた男を食い入るように見た。


 中肉中背、やや三白眼で落ち着きのない目をしている。衣類からは貧しいとも豊かとも取れない。

 晟伯の友人だろうか、と黎基に思い当たるのはその程度のことだった。


 昭甫は感情の読みづらい顔を保ちながら男に訊ねる。


「蔡家の者に会いたい。蔡晟伯は在宅か?」


 すると、男はハッと鼻で笑った。


()()お前さんたちに用なんぞないがな」


 俺は、と。

 男は言った。そんなはずはない。

 お前ではない。


 それでも昭甫は黎基よりも幾分冷静だった。


()()が蔡晟伯だというのか?」


 その問いかけに、男はうなずいた。


「ああ。俺が晟伯だ」


 はっきりと顔を思い出せるとは言わない。

 けれど、違う。この男は違うのだと、黎基の全身が拒絶する。


「違う。お前は晟伯ではない!」


 顔がひどく青ざめていると、自分でもそれがよくわかった。

 これは一体なんの茶番なのだ、と。

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