6◇新たな暮らし
母子には小さな家が与えられた。
里人たちは母子になんの詮索もしてこない。きっと、訳ありの母子にそれをするなと止められているのだろう。
――しかし、与えられたのは家だけであった。
これでは食べていけない。あの官人の口利きで、母と兄とはちょっとした日銭を稼げる仕事を分けてもらえた。本当に毎日がその日暮らしでしかなかった。
「今日は賃金の代わりにお野菜を頂いたの」
母は食卓に茹でただけの蔬菜を出した。にこやかに微笑んでいるように見えて、目には涙が浮かんでいる。だから、祥華は何も言えなかった。
「いただきます」
青臭い菜っ葉を噛み締め、呑み込む。苦い味が口いっぱいに広がった。美味しいとは思わない。けれど、贅沢は言わない。
兄もまた無言で菜っ葉を食べていた。けれど、手つきがおかしい。どうしたのかと気になっていると、兄は箸を落とした。
「兄さん?」
すると、兄は手首を押えながら落とした箸を拾った。
「ああ、すまない。今日、こけた拍子に手を突いたら手首を痛めてしまって」
「そうなの? 痛むの?」
「いや。たいしたことはないから、すぐに治るよ」
国内にいてもこうなのだ。もし本気で国外に追放されていたらどうなっていたのか。雨風さえも防ぐことはできず、曠野で獣の餌になっていたことだろう。
よかったと黎基に感謝する半面、常に翌日の食べ物の心配をせねばならなかった。
母は、毎日泣いていた。それはこの里での暮らしがつらいと、そうしたことではなかった。
父の死が、少しずつ母の足を彼岸へと向けさせていたのだ。
毎日、夜空の星を眺めては父に語りかけていた。
「母さん……」
以前よりも痩せて頼りなくなった母が心配で、祥華はそんな母の後ろから抱きつく。
「祥華、あそこに父さんがいるのよ。見えるでしょう?」
空には星屑を集めた河が広がっている。瞬く星が優しく語りかけるように感じられるのは、そこに父がいるからなのか。
「父さん……」
優しくて大好きだった父だ。葬儀も出せずに別れるしかなかったけれど、陵墓もないのならあの星に祈ることで代わりとしてもいいだろうか。
◆
どこでもそうなのだが、田舎ほどよそから来た新参者には厳しいものなのだ。
最初は皆、得体の知れない母子を気味悪がっていた。爪弾きにした。
しかし、母も兄も穏やかで大人しい性質である。それがわかると、里人たちは次第に母子を受け入れてくれるようになった。
里での暮らしがひと月を越えた頃に、母への再婚話が舞い込んだ。母は美しかったから、訳ありだとしても面倒を見てもいいという寡夫がいたのだ。
「程さんは三年前に奥さんを亡くされてから独りなのよ。娘もお嫁に行ってしまったし、あなたさえよければどうかしら? いいお話だと思うわよ」
どこにでも一人はいる世話好きの老婆が母と話し込んでいるのを聞いてしまった。
祥華は嫌だとしか思わなかった。夕食が乏しくても、貧しくても、母が父を忘れてしまうほどには悲しくはない。断ってほしいと一心に願った。
「お返事は待って頂けますか?」
「ええ、もちろんよ。お子さんたちともよく話し合ってみて」
「ありがとうございます」
その話を受ければ暮らし向きが楽になる。子供たちのためにと母は考えて断らなかったのだと思った。
翌日、祥華はその『程さん』とやらを覗きに行った。年は母よりもずっと上で、父とは似ても似つかなかった。容姿がすべてではないにしろ、矮躯で禿げ上がったほとんど老人のような男に母を嫁がせたくはない。
だから、母がこの話を切り出したら、祥華は断ればいいと言ってあげるつもりでいた。
しかし、母は祥華にも兄にも何ひとつ相談してくれなかったのだ。
父にだけ、星に向けて語り、そうして決めてしまった。
母は翌朝、自刃した。心が壊れたのだと、兄は言った。祥華は、母の最期には会わせてもらえなかった。
世話焼きの老婆は怒った。
「せっかくあたしが子供たちのためを思って――」
外で喚いている声を、兄は祥華に聞かせたくなかったのだろう。耳を塞ぐようにして抱き締めた。
「祥華、母さんは心が壊れたんだ。でも、もう苦しまない。赦してやろう。な?」
兄はこの時、どんな思いでいたのだろう。
祥華は耳に添えられていた兄の手をどかし、兄を見上げた。
「母さんの心は壊れてなんかいなかったよ。母さんは父さんに会いに行ったの」
悲しくないわけがない。立て続けに両親を失ったのだ。
心に抜けない針を刺されたように痛み続けた。それでも、祥華は母の気持ちがわかるような気がした。
貞女は二夫にまみえぬものと、母はそうありたかったのだろう。母は、多分どこまでも父を信じていて、父が起こした過失さえもきっと何かの間違いだと思っていたのではないだろうか。それを口に出さなかっただけで、本当は父は何も悪くないと信じていた。
だから、なんの落ち度もないまま命を散らした父を置き去りに、どんな理由があっても別の男のもとへなど嫁げなかった。それに気づけたのは、祥華も僅かながらに恋を知っていたからだろうか。
「兄さん、二人きりになったけど、わたしたちは父さんと母さんの分も生きて行きましょう」
その日を最後に、祥華は泣くのをやめようと思った。
泣いても、何も変わらないのだから。
「祥華、お前だけは……」
兄もきっと、祥華と同様のことを思った。
そういう気がしたのだ。
この僻地にいても、国にとっての大事は聞こえてくる。
視力を失った皇太子、黎基は廃太子となった。
代わって皇太子となったのは、まだ一歳にも満たない弟である。
眉目秀麗で聡明かつ慈悲深い黎基は、将来を嘱望されていた。その皇太子が廃されたことを民たちは残念がりながらも、それは息をするほど自然に新たな皇太子を受け入れるのであった。
新たな皇太子の母堂は宝貴妃ではなかった。
それは秦徳妃という妃だという。黎基の失明により心身ともに弱った宝貴妃はやせ細り、徐々に失寵してしまったらしい。
秦徳妃は嫋やかな宝貴妃とは違い、艶やかで気性激しく、好悪を明確に示す女人で、粗相をしては処罰された女官や宦官も多い。それを止める者もなく、国の勢力は宝家の親族から秦家に移り変わってゆく。
静かに、国は新たな時代へと傾きかけていた――。