40◇掌中の石
この時、展可はどこかで眠っていて、眠っている自分の握り締めた拳を開かせようとする力を感じ、ハッと目を覚ました。
とっさに振り払うようにして手を引っ込める。
何故そうした動きをしたのか、展可自身が後になってぼんやりと思い出したが、大事な天河石の粒を握り締めていたからだ。
湯にじっくりと浸かっていたら、何やら頭がぼうっとしてしまった。こんなにたくさんの湯に体を浸らせたことがなかった展可は、長く入りすぎるとのぼせるのだということを知らなかったのだ。
早く上がらないとと思い、勢いをつけて湯船から出た――それがさらによくなかった。目の前が歪んで、その後のことを覚えていない。
しかし、ここは最早湯殿ではなかった。倒れた展可を下女か誰かが見つけてくれて、部屋に運んでくれたらしい。
それで、妙に手を固く握り締めているから、それを解こうとしてくれたのかもしれない。それを展可は半分無意識に振り払ったのだ。
牀の上に寝かされていた。展可はそこで固まってしまった。
展可の手を開かせようとしていたのは、黎基だった。
「で、殿下……っ」
黎基は、展可の過敏な反応に驚いたふうだった。どこか戸惑って見える。
とっさに、牀の上で展可は手を突いて土下座した。
「あ、あの、申し訳ありません。その、何からお詫びしてよいやら……」
湯あたりから一変して血が頭から下がっていく。
この牀は少なくとも展可のために用意されていたものではないような気がする。黎基を前にして伸びていたかと思うと、恥ずかしいし情けない。
しかも、こんな薄物一枚で――。
と、考えてギクリとした。
さらしも洗って乾したままだ。そもそも、どのようにしてここまで運ばれたのだろう。黎基がここへ来た時、展可の着物はちゃんと着せてもらえていたのだろうか。
女だと知られてしまったかもしれない。そうしたら、自分が『展可』ではないことにも気づかれてしまう恐れがある。
ひとつの綻びから、真実へ辿り着いてしまうとしたら。
恐ろしくて小刻みに震えた展可だったが、黎基の声はいつもと変わりなかった。
「湯あたりをしたと聞いたが、もう平気か?」
「は、はい。御迷惑をおかけ致しました」
「いや、食事はそこに置いてある。食べられそうなら食べるといい」
黎基は目が見えないのだ。さらしで胸を押さえていようと、いまいと、触れなければそんなことはわからない。薄物一枚でいても同じことだ。
ほっとした。まだ気づかれていないらしい。
ただし、目が見えない分、勘が鋭い。
声音で動揺を覚られないようにしなければ。
「ありがとうございます……。殿下はもう召し上がられたのですか?」
「ああ、先ほど昭甫たちとな。湯も使わせてもらった」
「そうでしたか……」
どうやら展可は随分長く寝ていたらしい。こんなにもちゃんとしたで牀眠ったのは久しぶりだから、目が覚めなかったのだ。それがやはり恥ずかしい。
「後はお休みになられるだけなのですね。まさか、私が場所を取ってしまっていたのでは……」
自分で言ってゾッとした。しかし、そんな展可の様子を、黎基は見えないなりに察したのか、クスクスと笑う。
「広い牀だから、展可の一人くらいいても眠れるさ」
さすがに添い寝などした日には、展可の神経が持たない。黎基は展可が男だと信じているので軽く言うが、とんでもないことだ。
黎基は牀の縁に腰かける。
「展可、ずっと拳を握り締めていたようだが、どうした?」
「え? 少し寝ぼけていたのかもしれません」
この時、展可は薄物の合わせ目に天河石を滑り込ませた。黎基の目の前で行ったが、見えていないはずだ。展可は両手で黎基の手を取り、牀の中央へ導くと、自分は牀から降りた。
「では、おやすみなさいませ。灯りは消しましょうか?」
「……いや、展可は今から食事を取るのだろう? 消してしまっては困るはずだ。このままでいい。どのみち、ついていても消えていても私にはたいした差はない」
「すみません。では――」
「ああ、おやすみ」
そう言って、黎基は目の周りに巻いている布を外すと、体を横たえた。美しい顔が、なんの遮りもなく展可の目前にある。
この尊顔を見れる人間は多くない。だからこそ余計に見惚れてしまうのだ。
どうしようもないほど胸が高鳴り、息苦しささえ覚える。展可は再び薄物の下に入れた天河石を手に戻すと、席に着いて食事を取った。
一兵士には贅沢な食事だった。きっと、黎基が自分に出されたものを取り分けて残しておいてくれたのだ。香ばしい薬味が香る和え物を噛み締めつつ、展可はそれを察した。
すっかり残さず食べ終えると、食器を厨に下げに行き、展可の乾してあった着物の在り処を訊ねた。下女が火を熾して乾かしてくれたそうで、綺麗に畳んで渡された。守り袋もある。
展可はほっとして天河石を守り袋に収めると、廊下を歩きながら首に下げ直した。
この後、展可が眠るべき部屋は、やはり黎基のいるあそこだけなのだろう。しかし、あの部屋の牀はひとつだから、床の片隅で横になればいいかと考えた。それでも、天幕よりずっといい。
黎基を起こさないようにそっと部屋に戻る。極力音を立てないようにしたにも関わらず、黎基は気づいた。
「展可、こっちにおいで」
「えっ」
「ここを使うといい」
そう言って、牀の上の自分の隣を軽く叩く。
「そ、それは、その……」
気を遣って言ってくれているとして、それでもとんでもないことである。展可は気が気ではなかった。
それなのに、黎基は展可が遠慮しているとしか受け取らなかったのかもしれない。
いつになく厳しいような強い口調で言われた。
「おいで」
「……はい」
とても断れない。展可は肩を落とし、服を牀の足元に置いて恐る恐る上に乗った。
「おやすみ。私が起きた時、ちゃんと横にいるんだよ」
勝手に牀を降りてはいけないと言う。体を休めると言っても、心が少しも休まらない。
展可は声が震えた。
「は、はい。おやすみなさい、ませ」
寝れないかもしれない。
さっきまで寝ていたから、少しくらい眠れなくても平気だろうか――。




