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白帝城の深き眠り

作者: 胡姫

       白帝城の深き眠り


今日も雨が降っている。

雨を見るとあの人を思い出す。初めて出会った戦場の雨、英雄論を戦わせた許都の雷雨、あの人と初めて結ばれた日も雨だった。

雨はあの人の匂いがする。

あの人が死んでからどれほど経つのか私は数えたことがない。数えたら、あの人の死を受け入れざるを得ないからだ。あの人の死を意識せざるを得ないからだ。

最近は昔のことばかり思い出す。気力が弱っているのだろうか。こんなことではいけないのに。私には果たすべき責任があるのに。

夷陵の大敗から私は起き上がることができなくなった。自分でも分かっている。この病は気から来ている。成都はどうなっているのだろうか。敗戦の処理は。亡くなった武将の遺族は。考えると胸がかっと熱くなり臓腑が千切れる思いがする。どれ程後悔しても足りない。

私は目を閉じた。目を閉じれば雑事は意識の彼方へ追いやられ、懐かしい顔と会うことができる。今は亡き大切な者たち。関羽、張飛、龐統、法正……

そしてあの人。ここでは名を呼ぶことも憚られる、

――孟徳どの。

自分に正直で、信じた人にはとてもあけっぴろげになる人だった。一見冷たそうに見える横顔からは考えられないほど熱い人だった。才能にあふれて矛盾に満ちてとても魅力的な…出会った頃は、失うことなど考えていなかった。ずっと共に生きていきたいと思っていた。

白帝城に来てからあの人の夢をよく見る。私自身の死も近いのかもしれない。夢で会うたびに、こちらへ来いと、あの人が呼んでいるような……

「殿、薬湯を」

気がつくと、諸葛亮が枕元に端座していた。手に薬湯の入った椀を持っている。いつからそこにいたのだろう。私は眠っていたのだろうか。

諸葛亮の差し出した椀に私は口を付けた。苦味が口中に広がる。飲みにくい薬だ。以前の処方に諸葛亮が改良を加えたと聞いた。彼は薬学にも造詣が深い。

「…今、夢を見ていた」

「どのような」

「懐かしい者たちに会う夢だ」

「それは幸せな夢ですね」

諸葛亮は微笑み、長い指で私の唇についた薬湯の残りを拭った。母が赤子にするような仕草で。私は赤子ではないというのに。そう言いたくても、今は咎める気力が起こらない。心なしか諸葛亮はどこか楽し気だ。

「済まぬ。眠っている場合でないことは分かっているのだが」

一日も早く成都に戻り深傷を負ったこの国を立て直さなければならない。だが体が動かない。もどかしい。

「私が代わりに勤めておりますのでご安心を。殿は養生に専念して下さい」

「お前には苦労ばかりかける」

諸葛亮は首を振った。

「殿のための苦労は苦労ではありません」

「しかし…」

「お気持ちを楽に。この薬には、よい夢の見られる処方もしてありますゆえ」

徐々に諸葛亮の声が遠くなる。

眠りに落ちる前に、私はあの人の笑顔を手繰り寄せようとした。夢の中であの人が笑いかけている。彼の笑った顔が好きだった。もっと見ようとして私は愕然とした。思い出せない。

その顔を、声を、忘れたくなかった。無意識に伸ばした手を誰かが握りしめた。

あの人が迎えに来た、のだろうか、……


「また夢であの人に会っておいでなのですね」

劉備が再び眠りに落ちたのを確認し、諸葛亮はほろ苦く呟いた。

伸ばされた手を、諸葛亮はかたく握りしめた。病で細くなった手は諸葛亮の体温よりやや冷たい。

「もうお忘れください。忘れた方がよい場合もございます」

曹操の死以来、劉備が時々ぼんやりしていることを諸葛亮は知っていた。雨の日は時にそうだった。死者に連れていかれるかもしれない。心弱っている時は尚更。

――決して連れて行かせはしない。

「私がずっとそばにおりますから」

雨の降るやわらかな音がする。雨の音に包まれて劉備は眠る。立ち上がり、諸葛亮は窓を閉めた。

椀にはまだ薬湯の匂いが残っている。忘却の香を含んだ薬湯は徐々に劉備の記憶を曖昧にしていくだろう。敗戦の慚愧も、昔の男の記憶もすべて。

「あなたの為なのですよ。我が君」


                    (了)

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