(6)楽しみたい夫
「……ところで、私の対戦相手、現れませんね」
ぼそりと、燐ちゃんが呟く。
う。折角気持ちよく締めようと思っていたのに。
「すみませんね。トイレに篭っていると思うので、見て来ます」
安藤さんは苦笑混じりにそう応えて、椅子から立ち上がろうとする。
その時。
一陣の風が、吹き抜けた。
安藤さんの身体が崩れ落ちる。
叫ぶ暇も無かった。
「無様だね、安藤さん。一敗の責任は、取ってもらうよ」
突風の後には、一人の青年が立っていた。
軽薄な笑みを浮かべて、彼は気を失った安藤さんを見下す。
その手には、一振りのナイフが握られていた。
まさか。
責任って。
振り下ろされる刃。
「──やめろ!」
そう叫んで、ナイフの握られた手を掴んだのは、しゅーくんだった。
「誰、おたく? 俺は今から、この負け犬を丸坊主にするつもりなんだけど。邪魔する訳?」
「その人は、俺の妻と最高の将棋を指した人だ。侮辱は許さない」
「はっ。あんたの袖、蒸さ苦しい汗の匂いがしてるぜ」
睨み合うしゅーくんと青年。
なんだ、てっきり刺し殺すつもりかと思って焦ったわ。
ナイフで丸坊主にするの、大変そうだけど。
「いいぜ、指そう。俺が勝ったら、あんたを丸坊主にしてやる。もしも負けたら、俺の袖の匂いを嗅がせてやろう」
それはダメ……!
よくわからないけど、背徳的な匂いがする!
「かおりん。安藤さんを頼む。まだ息がある。今ならまだ間に合う」
「うん、任せて」
安藤さんを助け起こすと、すぴーすぴーと、規則正しい寝息が聞こえて来た。
良かった、寝てるだけみたいだ。
「対局前に名前を訊こう。俺は園瀬修司。お前は?」
「俺か? 低将チーム先鋒、『ルナみぃすこすこ袖みぃ』様だ!」
「──は? 俺は名前を訊いているんだが?」
「だから言っただろうが。俺は『ルナみぃすこすこ袖みぃ』様だ!」
「ルナみ……」
困ったように呟くしゅーくん。
一体、何の暗号だろう?
とりあえず長いから、『袖の人』と呼称することにした。
さっきまで私と安藤さんが対局していた盤に向き合う、男二人。
「私、トイレを見て来ますねー」
今のやり取りを見て、恐らく興味を失ったのだろう。
燐ちゃんは、足早に走り去った。
「血祭りに上げてやるぜ! 俺のターン! 振り駒、ドロー!」
「黙って振れ」
振り駒の結果、先手は袖の人になった。
「こいつは来たぁ……刮目しやがれ! これが、神の一手だ……!」
駒を手に取り、大きく振り上げ、裂帛の気合を込めて盤上に叩き付ける袖の人。
ばちん!
駒音の衝撃波で、吹き飛ばされそうになる。
何と言う力強さ。初手に懸ける自信の程が窺える。
これが、神の一手か!
息を呑む私としゅーくん。
「フッ……勝った!」
ちょこん。
飛車が一マス、左に移動した。
え?
何、その手?
角道を開けるのでもなく、飛車先の歩を伸ばすのでもなく。
かといって振り飛車みたいに、大きく左側に飛車を展開する訳でもなく。
単に一マス分、飛車をずらしただけ。
「──なるほど。『袖飛車』か」
しゅーくんが静かに呟いた。
袖飛車。初めて聞く単語だ。
「おお。寝ている間に、先鋒戦が始まっていたのですね」
甲高い駒音に反応したのか。
私の腕の中で、安藤さんが目を覚ます。
「安藤さん! 大丈夫ですか? 痛い所ありませんか?」
「はい、快眠でした。おかげさまで気分爽快です」
安藤さんは微笑んでいた。
良かったあ。
「注目の一戦ですね」
「安藤さんはご存知なんですか? 袖飛車のこと」
「練習対局で指されたことがあります。一種の『嵌め手』みたいなもので、普通は初手から飛車を動かすことはありません。作戦がバレてしまいますからね」
彼の袖飛車は特殊なんです。
安藤さんはそう続けた。
「初手の時点で定跡外。興味深いでしょう?」
それは確かに面白い、かもしれない。
問題は、しゅーくんがどう出るかだ。
いつもなら、がっつり矢倉に組んで対抗するんだけど。
袖飛車に対してはどうなのだろう?
果たして、彼は。
いつものように角道を開け──なかった。
その代わりに、飛車を展開する。
袖飛車の、向かい側に。
「三間飛車……!」
それは、異様な光景だった。
互いに一歩も突かず、ただ飛車のみを向かい合わせている。
「何をふざけてやがんだてめぇ!」
そう叫んだのは、袖の人だった。
我慢ならない怒りの形相で、彼は続ける。
「歩を突けよ! 先に飛車を振っても意味がねーだろがよ!」
「それはお前も同じだろ」
「俺はいいんだよ!」
無茶苦茶だ。
それにしても、ガチガチの居飛車党だったしゅーくんが振り飛車を指すなんて。
一体、どういう風の吹き回しなんだろう?
「大体、てめぇの袖からは矢倉の匂いがプンプンしてんだよ! 根っこの部分まで矢倉に染まりきったてめぇが、何で三間に振るんだ? おかしいだろうがよ!」
するとしゅーくんは、にやりと笑ってみせた。
「決まってる。その方が、楽しそう、だからだよ」
──あ。
「旦那さん、どうやら覚醒したみたいですね」
安藤さんが囁く。
私は複雑な心境で「はい」と頷いた。
対局を楽しんでみたら?
さっき私は確かに、しゅーくんにそう言ったけど。
無理してない?
矢倉に拘らなくても良いとは思う。
けど、しゅーくんに三間飛車は似合わない気がした。
「楽しそう、だと? ふざけてんじゃねぇよ。将棋が、楽しいだと?」
袖の人は飛車先の歩を突いて来る。
恐らくしゅーくんが角道を開けていれば、それを咎める手になっていたのだろう。
だから、開けなかったんだ。
しゅーくんは左の銀を飛車の横に上げた。
袖の人は更に歩を伸ばして来る。
しゅーくんは、歩を突かずに玉を斜めに上げた。
「どうやら、囲いを優先するみたいですね。実に堅実な将棋だ」
安藤さんが感心して言った。
そう、確かに堅実だ。一切の歩を突かない。守るだけならそれでも良いのだろう。
だけど。このままじゃ、飛車も角も使えない。
大駒の働かない将棋に、勝ち目は無い。
四人目のゲストはルナみぃすこすこ袖みぃ様(https://twitter.com/sodemii_)でした。
激レア戦法、袖飛車で段位まで上り詰めた凄い御方です!
ルナみぃすこすこ袖みぃ様、ご参加ありがとうございました。




