(4)まだだ
視線を一点に集中させたまま、拳を振り上げる。狙うはあゆむの後頭部。艷やかな黒髪目がけて、全身全霊の力を込めて打ち抜くのだ。
「ま、まさか、殺す気……!? 負けるくらいなら死ねってこト!?」
うるさい、外野は黙ってろ。
集中が途切れれば、本当にそうなってしまうかもしれない。現実でなくても嫌だ。
鬼の力を全開放すれば、華奢なあゆむの首など簡単に飛んでしまう。頭蓋は潰れ、脳漿をぶち撒ける。そんなスプラッターな展開は、さすがに御免こうむる。
すーはー、すーはー。息を整える。精神と肉体のリズムを同調させる。暴れ狂う鬼を制御下に置く、全力においてなお。できる、否、やってみせる。
一切手は抜かない。どんなに危険が伴っても、本気でやらなきゃ弟の心には伝わらない。
覚悟は良いか、私? 拳が後頭部に触れる寸前に止めるんだ。早くても遅くても駄目。瞬間を見極めろ。
いちにのさんでいくぞ。一で踏み込み、二で拳を振り下ろし、三で止める。
せーの。いち──。
「すとっぷゥー!」
「っ!?」
私とあゆむの間に、小柄な少女の体が飛び込んで来る。両手を広げて、私を制止しようとして。
完全に予想外。まさか身を挺してあゆむを庇うとは。
勢いに乗った拳は止まらない。私の意志に反し、むしろ加速して突き進む。彼女の顔面目がけて。
ぎゅっと目をつぶるも少女は、逃げなかった。
くそ、どういうつもりだ? これは幻、現実ではないのに──止まれ、止まれよ! 言うことを聞け!
風を切りうなりを上げ、炎をまとった剛拳が少女へと迫る。制動が間に合わない、のなら!
とっさに脱力する。体勢を崩す。がくんと膝を落とす。拳の軌道をずらす。
少女の頬をかすめ、私の右手はあらぬ方向へとすっ飛んでいく。
それに引きずられるように、脱力した私自身の体もまた宙に浮き。次の瞬間には、盛大に畳に突っ伏していた。くそう、体中が擦れて痛い。我ながら、何て馬鹿力なんだ。
涙をこらえて顔を上げると、紅い瞳と視線が合った。彼女は驚きに満ちた表情でこちらを見つめている。
ああ、どうやら無事らしい。良かった。
「どうして、避けたノ?」
「……あんたこそ、何であゆむをかばった?」
投げかけられた質問に、質問で返す。何で避けたかなんて、私にもわからない。合理的な判断じゃなかったと思うけど。何となく、弟を護ろうとしてくれた相手の顔面を殴りたくなかっただけだ。
「そりゃア、未来のケンゾクだからネ」
またそれか。ケンゾクというのが何なのか私にはさっぱりわからないけど、彼女にとってはよっぽど大切な物らしい。
「言っとくけど、元々寸止めにするつもりだったからね?」
苦笑交じりに答えて、よろよろと立ち上がる。渾身の力を振り絞った状態からの急激な脱力は、私の体にも相当な負荷がかかる。
「すんドめっテ。もし当たっちゃったらどうするのサ?」
「その時はその時。責任取って、私の頭もカチ割るよ」
さらりと答えると、少女は紅い目を丸くした。一瞬、言葉の意味がわからなかったようだが。
次の瞬間には、プッと吹き出していた。
「アハハ! 何そレ、鬼ジョーク?」
「や。本気なんだけど」
「……変わったコだねェ、キミ」
至極真面目に答えると、彼女は笑みを引っ込め、しげしげとこちらを見つめて来る。私の真意を見定めようとするかのように。
仕方がない。ため息をつき、私は説明した。弟に緊張感が足りないから、背後から拳圧で危機を伝えようとしたこと。本気でやらないと駄目だと判断したことを。
そうしてちゃんと説明したら、何故かますますいぶかしげな顔をされた。何故だ。
「何か変なこと言った? 私」
「あー、うン。まァ、キミの考えてることは大体わかったヨ」
短絡的で暴力的だけど、どうやら根は悪い奴じゃなさそうだと、彼女は笑って答え。
「気に入っタ。合格だヨ、鬼籠野燐」
続けて、そんなことを告げてきた。
「は? あんた、何言って──」
ぱちん。私の言葉をさえぎるように、駒音が高く響いた。
あゆむが指した。先程までと変わらぬ涼しい顔で、運命の一手を。
くそ、駄目だったか。届かなかったのか、私の本気は。邪魔をされてしまったから……。
「この勝負。キミ達の勝ちダ」
──え?
ハッと顔を上げる。
目に入ったのは、苦悶の表情を浮かべる修司さんの姿だった。
盤上では、打ち込まれた歩が取られることなく放置されている。次に金は取れるし玉にも迫れるけど、少しだけ、遠い。
あゆむの攻めの方が、近くて速い。わずか一手分の差だけど、それで十分だ。この一手はもう、取り返せない。
届いていたんだ。
「後はもう一直線。園瀬修司の勝ち筋はなくなっタ」
勝った。あゆむが。胸中で胸を撫で下ろす。良かった。これで心置きなく戦え──。
ぱちん。駒音が思考を中断する。負けると理解していても、修司さんは対局を続行した。その分苦しみが長く続くと、わかっていても。
顔を歪め、血の気の引いた表情を浮かべて。最後まであがこうとしている。棋譜を汚してまで。
以前の私なら、みっともないと吐き捨てたことだろう。潔くない、負け犬はさっさと投了しろ、と。
だけど。敗北を知った今なら、修司さんの気持ちは痛いほどにわかる。負けを認めるくらいなら、どんな苦汁を味わおうとも構わない。あがいてもがいて、子供みたいに駄々をこねてやる。
「まだだ」
勝負の結果は揺るがない。でもまだ終わってはいない。だから見届けたいと思った。この一局の結末を。
私の言葉が意外だったのか、少女は驚きの表情を浮かべたが。反論することなく、視線を盤上へと戻した。
ぱちん。敗北への直線道路を修司さんは歩んで行く。一手一手が重く、苦しい。
ぱちん。あゆむは黙ってそれに従う。元より、勝者が敗者にかける言葉は無い。相手が負けを認めるまで、容赦なく叩き潰すだけだ。
ぱちん。何度目かの応手の後に、ついに放たれる決定打。訪れる『その時』を前に、私はため息を漏らす。
ああ、ここまでだ。これ以上は、無い。
修司さんの手が、虚空をさまよう。
何か無いかと、必死に考えを巡らせているんだ。読みの範疇に無い逆転の一手、一縷の望みを求めて。たとえ幻の希望でも、彼は迷わずつかみ取ることだろう。空振りに終わったとしても、何かあれば一手を指せるから。
だけど。現実には、何も無かった。
右手が駒箱へと降ろされる。負けました、と小さな声が聞こえた。
そこで終わり。道場は消え、あゆむと修司さん、それに香織さんと大森さんも居なくなる。
私の他にはもう一人、ぼんやりと虚空を眺める紅い瞳の少女だけが残された。
「どうだっタ? 面白かっタ?」
「ん」
試合前に観られて良かった。おかげで、闘志が湧いてきた。
指したい。良い対局がしたい、私も。
だけどこの場に将棋盤は無く、対局相手も居ない。そもそも、ここは一体どこなんだ? 見渡す限り暗闇が広がっている。地面に立っている感触はあるけど、質感が無い。先程までは、はっきりと畳を感じることができたのに。
「待っててネ。今移動中だかラ」
視線を宙に向けたまま、少女はそんなことを告げてきた。
移動? 一歩たりとも動いてないけど。
「アルクビエレ・ドライブ」
「……は?」
「あたし達を取り囲んでいる、この時空間ごと動いているのサ。キミには認識できないけど、ただ今光速を超えて目的地まで一路吹っ飛んでるトコ」




