4-④の解説c(その8〜その14)
※この解説の回は、本文中に出て来る用語や、人名・地名などの説明、及び史実についての簡単な考察(素人レベルですが)と、どこからが物語りとしての脚色なのか等をなるべく明らかにするため、書き足したものです。細かい設定などについてご興味のある方には、より楽しんでいただけるのではと思います。
とはいえ、本文だけでも問題無く読み進めていただけるように書いているつもりですので、この解説の回を飛ばしていただいても、なんら問題ないと思います。
<幕の四:④「いざ出陣」の解説c(その8~その14)>
<登場人物リスト(その8~その14)>
主役-ミルティアデス(小早川隆景)『三代目』 65才
八組の将軍-ヒッポニコス(吉川元長) 60才
富裕市民の子-カリアス(吉川広家) 29才
悲劇作家-アイスキュロス(世阿弥) 35才
軍大臣-カリマコス(福原貞俊) 50才
将軍たち
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<十人の将軍>
一組の将軍-アルクマイオン(毛利秀元) 52才
二組の将軍-ヒッパルコス(大友義長) 50才
三組の将軍-某 40才
四組の将軍-テミストクレス(高杉晋作) 35才
五組の将軍-クサンティッポス(桂小五郎) 34才
六組の将軍-ミルティアデス(小早川隆景) 65才
七組の将軍-某 50才
八組の将軍-ヒッポニコス(吉川元長) 60才
九組の将軍-ステシラオス(阿川四郎) 45才
十組の将軍-アリステイデス(児玉源太郎) 35才
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別働隊の指揮官-シキンノス 25才
アジア人の歩兵
ペルシャ人の騎兵
輸送部隊のアテナイ人
別働隊の兵士たち
シキンノスの部下
『盲目の巫女』
『右目』
『左目』
長女-エルピニケ(容光院)『お嬢さん』 22才
青年a-レオボテス(毛利秀就)『一組の軍師』 20才
青年b-ヘルモリュコス(魁傑) 20才
青年c-マグネス(路阿弥) 20才
有力市民の妹-アガリステ(津和野局)『女番長』『姐さん』 25才
子供-ペリクレス(木戸孝允)
犬-シロ
少女-イソディケ(桂姫)『親戚の子』 11才
城門の兵士たち
城門の上の見張り
町の人a(留守居の使用人)
町の人b(留守居の御婦人)
男
男の手下
次男-キモン(小早川秀包)『若様』『お兄ちゃん』 20才
幼なじみ-エウティッポス(白井景俊)『腰巾着』 20才
城壁の上の兵士
足軽の兵士たち
使用人
『歩兵長』
九組の将軍-ステシラオス(阿川四郎) 45才
<ミレトス市の戦後処理>
この劇の中で、ミルティアデスが同僚将軍(カリアス家のヒッポニコス)の陣地を訪ね、自分の意見(速やかに戦うべし)に賛成してくれるよう熱心に説得したというのは架空の話しですが、その会話の中で、ペルシャ軍に破壊されたあとのミレトス市の戦後処理について触れている件に関しては、ヘロドトス著『歴史』に記されているもので、事実だったと思われます。
「捕虜になったミレトス人は、その後スサへ護送されたが、ダレイオス王は彼らにそれ以上危害は加えず、いわゆる紅海に面するアンペという町に住まわせた。この町の傍をティグリス河が流れて海に注いでいる。ミレトスの国土は、町と平野とをペルシア人が確保し、山地はペダサに住むカリア人に所有地として与えた。・・・こうしてミレトスの町から、ミレトス市民は一掃されてしまった。」(『歴史』巻六-二〇、二二)
では仮に、この「マラトンの戦い」の時にアテナイ市もペルシャ軍に敗戦し町が占領されていたらどうなったでしょうか。ペルシャ本国と陸続きであるイオニア地方のミレトス市とは違って、アテナイ市は広いエーゲ海を挟んでいますので、ペルシャ軍がここを占領し続けるのは容易ではないでしょうから、おそらくはエウボイア島のエレトリア市の例と同じく、町や聖地の破壊と、市民の一部を捕虜として連行するだけで、アッティカ地方を放置してアジアへ帰国していたのではないでしょうか。逆に言えば、アテナイ市民が自発的に町を放棄し、国外や山奥にでも逃げて籠っていれば、キュクラデス諸島のナクソス島の例と同じく、ペルシャ軍としてはそれ以上深追いできず空しく帰っていった可能性も高いのではと思われます。もちろんその場合には、アテナイの町にある彼らの財産や誇りや神聖なものを全て失うことになりますので、アテナイ人としては出来る限り採りたく無い手でしょうが、この十年後のアテナイ市はそのような戦術を実際に採りますので、全くあり得ない手でも無い訳です。
「マラトンの戦い」の時のアテナイ市民がそうしなかったのは、ペルシャ軍の数が予想よりも少なかったので、最悪の手を採らなくても追い帰せると考えたからでしょうか? あるいは、「ペルシャ軍に勝てる」と強く主張したミルティアデスの存在が大きかったのでしょうか? 彼は町に籠城することを否定し、マラトンへの出陣を提案し、そこでペルシャ軍に合戦を挑むことを強く主張したそうです。出陣した十人の将軍たちの間では賛成反対でまっ二つに割れたようですが、最終的にはミルティアデスの主張が認められ、古代ギリシャ史上に名高い「マラトンの戦い」が実現したのでした。
そしてその決断には、ミレトス市をはじめとするペルシャ軍に逆らった諸市の敗戦処理の実態をアテナイ人たちが詳しく知っていたことも、少なからず影響したのではないでしょうか。すなわち、籠城しても、降伏しても、町を放棄して山に籠っても、どうせ町を徹底的に破壊されるのなら、たとえ勝ち目が薄いとしても町の外に出陣して一か八かの合戦を挑んで決着をつけるほうが、被害を最小限に抑えられる賢い選択だと考えたのかもしれません。実際のところ、ミルティアデスや彼の意見に同調したアテナイ市民たちが、「ペルシャ軍に本当に勝てる」とどれほど思えていたかは怪しいように思えます。追い詰められての運頼み、神頼みの部分も大きかったのではと推測します。
<食料事情について>
劇の中では、町から戦場への食料輸送の問題をあれこれ描写しましたが、古代ギリシャの兵站事情については、残念ながらあまりわかっていないようです。マラトン平野に出陣したアテナイ軍がいったい何日分の食料を持参していったか? 劇の中では一応十日分を持って行ったとしましたが、僅か一日で帰れる距離に本拠地の町があることからすると、戦場に持参したのはもっと少数の食料で、数日ごとに順次食料を町から送らせていた可能性もありそうです。敵地で戦うより、地元で戦うほうが圧倒的に有利な理由の一つが食料を確保しやすいことだと思いますが、実際はどうだったでしょうか。
あるいは、現地にある程度の備蓄が用意されていたりしたでしょうか。アテナイ市の最小の行政機関である「区」にそのような役目があったとは聞きませんが、アテナイ軍が布陣した場所はマラトン区の範囲内だったと思われますので、マラトン区の集落なり役所なりが出陣した兵士や指揮官の宿所として使われるようなことはあったかもしれません。(現在のマラトン村の集落はカラドラ川の中流、コトロニ山とスタヴロコラキ山との山あいにありますが、当時のマラトン区の中心地(役所など)がどこにあったかはよくわかっていないらしく、地図ではとりあえずコトロニ山の南裾辺りとしましたが、全然違う場所だったかもしれません。)
また、長い滞陣を続けるには、水の補給もとても重要になってきますが、エーゲ海の気候では夏は雨がほとんど降らず、晴れの日ばかりでカラカラに乾くのが一般的ですので、川ですら完全に干上がることも珍しく無く、井戸や湧き水の確保は死活問題だったでしょう。この劇の中では、アテナイ軍はアグリエリキ山の裾沿いに布陣したとしましたが、そこを流れるラペンドサ川も、乾期の夏には全く涸れてしまうらしいので、水は井戸や湧き水に頼ったことになりますが、もしかすると不足勝ちだったかもしれません。ヘロドトスによれば、アテナイ軍は「ヘラクレスの聖域内に陣を構えた」となっていますが、あるいはそこに有力な水源があったのでしょうか。
もしくは、ラペンドサ川が海に注ぐ辺りは広い湿地(ブレクシサの沼沢)になっていたとも言いますので、そこからきれいな水を大量に汲んで来られたとするならば、水の補給には特に問題なかったでしょうか。
一方、ペルシャ軍の側は、平野の中央を流れるカラドラ川や東側の大沼沢を利用すれば水の問題はあまりなさそうです。大沼沢の北にはトリコリュントス区があり、その集落なり役所なりを接収して使えたかもしれませんし、その近くには「マカリアの泉」もありますので、上陸させた馬をリラックスさせるにも良さそうな場所です。(馬は生来臆病で体も脆弱だと言いますので、狭い船に数ヶ月も押し込められていては強いストレスを感じ弱っていたとしてもおかしくないでしょう。それを和らげるため、島々や占領地に時々上陸させてストレスを発散させていたかと思われますが、マラトンの戦いの時に、ペルシャ軍の最も得意とするはずの騎兵の活躍が目立たない理由の一つは、もしかすると馬のストレスにあったかもしれません。)
また、ペルシャ軍が上陸して陣地を築いたと推測される平野の東南海岸も悪くない場所だったと思われます。パウサニアス著『ギリシア案内記』には、湖の向こう岸(おそらく東側)に、アルタプレネスの幕舎跡があったと記されています。
「マラトンには大半が沼といってよい湖がある。異民族軍は敗走のさい、道に不案内なために、この湖の中にはまりこんだのであって、最大の殺戮は同地点で生じたと伝わる。湖の向こう岸には、アルタフェルネスの馬匹に用いられた石造りの飼葉桶と、岩盤には幕舎の痕跡がのこされている。湖から川が流れていて、湖そのものに寄ったほうは家畜に適した水が得られるが、湖に注ぐ河口の一帯ではすでに塩辛く、海の魚がうようよいる。」(パウサニアス著『ギリシア案内記』第1巻-第32章より)
これからすると、ペルシャ軍の上陸陣地では魚や塩や水の調達には、大軍にも関わらずあまり苦労しなかったのではないかと推測できます。特に大量の飲み水の確保は大きかったでしょう。
ギリシャ本土の中でもアッティカ地方は全般的に乾燥しており特に夏は干上がっている場所が多いようですが、東海岸のマラトン平野は広大な湿地や沼が点在することからもわかるとおり、夏でも大量の水が確保できたのだと思われます。数万(あるいは数十万)単位のアテナイ・ペルシャ両軍がここに実際に対陣できていたのがその証左でしょうし、おそらくこの地の事情に詳しいヒッピアスがペルシャ軍をここに誘導した理由の一つでもあったのでしょう。
(ちなみに、現在のギリシャ共和国の首都・アテネの水道も、このマラトン平野にある湖(アッティカ地方最大の人造湖)から引いているそうです。)
なお、劇の中ではペルシャ軍の二人の総指揮官(総司令)の内、ダティスが平野で陸軍を率い、もう一人のアルタプレネスは後方の上陸陣地のほうで海軍を率い待機していたとしましたが、実際にどうであったかの詳細は不明で、アルタプレネスもダティスと共に主戦場に居た可能性もあるでしょう。ただ、この遠征軍の戦争指揮はダティスが主に採っていたらしいこと、そして湖の向こう岸(東側?)にアルタプレネスの幕舎跡があったらしいことからすると、上のような役割分担がなされていた可能性のほうが高いのではと推測しました。
また、アテナイの町からマラトン平野に食料などを輸送する道で、劇の中でどこを通ったかとか、どこで襲われたかとか、どこが襲いやすいかとか、どこが迎え撃ちやすいか、等としばしば出て来ますが、それらは基本的に書き手が地図を見てだいたいこの辺りだろう等と想像しただけのものですので、実際の現地の感じとは食い違っているかもしれません。
<外国語について>
この劇の中で、アテナイの町に潜入したアジア人や、捕まったシリア商人がしゃべっている言葉(外国語)を、現在の英語(カタカナ英語ですが)で表現してみましたが、実際にはもちろん各々の民族語、もしくはペルシャ帝国の共通語をしゃべっていたはずです。(ここで敢えて「英語」を使ったのは、ギリシャ人に通じない外国語を彼らがしゃべっているらしい風の表現として用いただけであり、特定の当時の言語を想定して当てはめているわけではありません。そのためその英語は、「ペルシャ語」を表わしている時もあれば、別の「シリア語」やその他の外国語を表わしている場合もあります。)
ところで、ペルシャ帝国の共通語が、特に公用文等に使われるのが何語であったかというと、意外な事に支配階級たるペルシャ民族の言葉=ペルシャ語ではなかったようです。なにしろ、彼らはどちらかというと田舎(ペルシャ高原の奥地)から出て来た後発民族であったため、その言葉や文字体系がまだまだ十分に成熟・洗練していなかったという事情が影響したのでしょうか。それを無理に押し付けるよりかは、既に普及しているアラム語やエラム語などの文字も表現も整った言語を活用したほうが便利で良いと考えたのかもしれません。それらは数千年来の歴史を持つアジア(特にメソポタミア)の文化遺産であり、楔形文字、次いで簡便なアルファベットとして、アッシリア帝国等の先行する諸国家の官僚組織や外交用語に使用された実績もありました(特にアラム語は、シリアから西メソポタミアにかけて居住するアラム人がオリエント全体に商業圏を拡げていたため、この地域の共通語のような地位を獲得していたそうです。エラム語はエラム地方からペルシャ高原の一部(ペルシス地方)に普及。)。
ペルシャ民族としては、それら面倒臭い文系の仕事は被支配民族達に任せ、自分たちはひたすら武力のほうに特化した存在であろうとしたのかもしれません(この関係は、モンゴル高原の遊牧民が中国を支配した時のそれに似ているのかもしれません)。
もちろん、ペルシャ語が全く使用されなかったという訳ではなく、例えば大王ダレイオスの戦勝を記念する有名な『ビストゥーン摩崖碑文』には、古代ペルシャ語とエラム語とバビロニア語の三つが並んで刻まれているそうです。また、宮廷の話し言葉は当然ペルシャ語だったでしょうし、首都の官僚や各地属州の役人たちは、そこに赴任してくるペルシャ人の高官に合せてペルシャ語を必死に覚えて会話していたことでしょう。
そして軍隊も、多様な民族から構成される遠征軍の場合であっても、その主要な指揮官たちはほぼ全てペルシャ人(たまにメディア人)が務めるため、当然ペルシャ語が共通の言葉になっていたことでしょう。少なくとも基本的な軍事用語はペルシャ語で統一されていたのではと思われます。
そのようなペルシャ軍に参陣したアジア人兵士達が、どれくらいのレベルでペルシャ語をしゃべれたかは不明ですが、上級指揮官と意思疎通するためにも最低限の会話が出来るくらいには覚えていたのではないかと推測します。たとえば今回のような、地中海をはるばる渡ってマラトン平野にやって来たペルシャ軍は、アジアを発って半年以上も船で過ごしているわけですから、覚える時間はたっぷりあったでしょうし。そのため、この劇の中でアテナイの町を襲ったとしたアジア人達も、自分たち同士の会話では地元の言葉を使っていたが、指揮官やペルシャ系の騎兵とやり取りするには当然ペルシャ語で会話していたと想定しています。
なお、この時の遠征軍を総指揮していた「ダティス」も異民族(メディア民族)の出身であり、彼も直属の部下とは故郷の言葉(メディア語)でしゃべっていたかもしれませんが、普段は基本的にペルシャ語でしゃべっていたと思われます。というのも、メディア語もペルシャ語も、インド・ヨーロッパ語族の中のイラン系アーリア人のグループに属するかなり近縁の言葉ですので、方言を切り替えるぐらいの感じで問題なくしゃべれたのではないでしょうか。
また、ギリシャ語もそれらほど近縁ではありませんが、一応同じインド・ヨーロッパ語族に属する言葉ですので、ギリシャ人もアジアに多いセム語族系(シリア、バビロニア、フェニキア、ユダヤなど)の言葉を覚えるよりかは、ペルシャ語のほうが習得しやすかったかもしれません。
ちなみに、今日一般的に使われているペルシャ大王(三代目)の名前「ダレイオス」はギリシャ語読みであり、彼自身の古代ペルシャ語では「ダラヤウォシュ」だったそうですので、ペルシャ帝国側では当然そう呼んでいたでしょうが、この劇では慣例に従い全てギリシャ語読みで統一していますので悪しからず。
(なお、ペルシャ大王の初代「キュロス」はペルシャ語で「クラシュ」、二代目「カンビュセス」は「カムブージャ」、四代目「クセルクセス」は「フシャヤルシャー」だそうです。)
<ペルシャ軍との交戦の決定について>
この劇では、アテナイ軍の将軍会議で「ペルシャ軍との交戦」が賛成多数によりついに可決されたのは出陣して七日目の夕方であったということにしましたが、ヘロドトス著『歴史』のニュアンスを読み取れば、実際にはもっと早く、同盟のプラタイア軍が援軍として駆けつけた直後の辺り(出陣三日目ぐらい?)で決定していたかもしれません。以下はプラタイア軍がかけつけてくれたエピソードを記した後の文章です。
「さてアテナイの司令官たちの間では見解が二つに分れ、一方はペルシア軍と戦うには自軍の兵力が少ないという理由で交戦することの不可を説き、ミルティアデスを含む他の一派は交戦すべきことを主張した。司令官たちの見解が二つに割れ、しかも好ましからぬ方の説が勝ちを制する気配となったのであったが、さてこの時十人の司令官のほかに投票権をもつもう一人は、抽籤によって軍事長官に選ばれた者で、それというのも往事のアテナイでは軍事長官は司令官と同じ投票権を持つと定めされていたからである。当時の軍事長官はアピドナの人カリマコスであったが、ここにおいてミルティアデスはカリマコスの許へゆき次のようにいった。・・・
ミルティアデスは右のように述べて、カリマコスを味方に引き入れ、かくて軍事長官の賛成意見が加わったため、交戦の決定がなされたのであった。その後交戦を主張した司令官たちは、自分たちの指揮権当番日が巡ってくるごとに、その権限をミルティアデスに譲った。ミルティアデスはその申し出を受けたけれども、自分自身の指揮当番に当るまでは、どうしても戦闘を開こうとしなかった。」(『歴史』巻六-一〇九、一一〇)
すなわち、<マラトンへ出陣(一日目)→ カリマコスの賛成により交戦の決議(三日目ぐらい?)→ 他の将軍たちは総指揮権を譲るが→ ミルティアデスの当番日(十日目)に決戦>という感じです。
また、劇の中では「将軍が自分の当番日の総指揮権を譲ること」を交戦の決議に先だって軍議で許可したとしましたが、ヘロドトスの記述では、元から普通に認められていた権利のようであり、交戦の決議がなされると交戦派の将軍たちはそれを憚り無くミルティアデスに譲ったようになっています。ただしミルティアデスはなぜかその権限を行使せず、自分の当番日が回って来るまで戦いを始めなかったそうですが、それはなぜでしょうか。交戦の決議が三日目ぐらいになされていたのなら、決戦まで七日も日を空けたことになり、その理由を知りたくなります。他人の指揮当番日に戦うことを、後日追求されることを恐れたからでしょうか? 指揮権を譲るという行為を許可はされていても好ましいとは思われていなかったのでしょうか? それともペルシャ軍の隙を伺い続けていたら、たまたまその日(十日目)になっただけでしょうか?
ちなみに、プルタルコス著『対比列伝』には、最初のほうからアリステイデスが率先して総指揮権をミルティアデスに譲っていたかのようなニュアンスで書かれています。そしてそのおかげでミルティアデスの力が強まり、軍議を主導して彼の活躍の場が開かれたという感じです。
「・・・これをむかえうつべくアテナイ人の任じた将軍は十人。そのうち一きわ重んぜられたのはミルティアデスだが、名声と権力からいって、これにつづくのがアリステイデスであった。そして、当時彼が、戦いにかんするかぎりミルティアデスの考えにしたがったことは、戦局を有利にかたむけるうえに少なからぬ役割をはたした。将軍たちは一日がわりに軍の指揮をとったが、アリステイデスは自分の番がまわってくると、これをミルティアデスにわたし、仲間の将軍連にこう教えた、「かしこい人にききしたがうのは恥ではない。それは世を救う堂々たるふるまいである」と。
こんなふうにして彼ら相互の負けじ魂をときほぐし、最上の一策には、よろこんでしたがうことをすすめたものだから、ミルティアデスの力はつよまり、権力は一手にあつまって強大なものになった。というのは、将軍たちが、それぞれ一日がわりの指揮権をすぐさま手ばなすことを承知して、ミルティアデスの指揮のもとに身を投じたためだ。」(プルタルコス著『対比列伝』「アリステイデス」(安藤弘訳)より)
この書き方からすると、まず総指揮権がミルティアデスに集中することによって、その後やがて交戦の決議もなされたように読み取れないこともありません。だとすれば、この劇で設定したような流れと同じであった可能性も無くは無いでしょう。
すなわち、この劇では、出陣したアテナイ軍は「ペルシャ軍と戦う」か「スパルタ軍が来るまで待つ」かで意見が二つに分かれ、最初は前者を主張するミルティアデス派の分が悪かったが、スパルタ軍の到着が遅れることもあって徐々に盛り返して行き、アリステイデスの提案により総指揮権をミルティアデスに譲ることを認めさせた後、意見を五分五分にまで持って行くことに成功し、ついに七日目で軍大臣を投票に参加させることでギリギリ賛成多数にこぎ着けた、という設定にしました。
(なお、軍大臣が軍議で投票する権利を、劇の中では将軍たちの決議で途中から許可したように書きましたが、実際には元から許可されていて、出陣当初から彼も投票していた可能性もあります。ただし、議決に負けそうなミルティアデスがカリマコスをなんとか説得して彼も投票させたためにギリギリ交戦の決議がなされたのだ、などというようなヘロドトスの書き方からすると、それまでの彼は投票しておらず、賛成反対が五分五分になってらちがあかなくなった時、そこで初めて彼も投票したと解釈するほうがより自然なように思えましたので、劇の中でもそのような流れにしています。)
<軍大臣のカリマコスと将軍のステシラオス>
劇の中で、ミルティアデスに協力した主戦派のステシラオスを第九組-アイアンティス族の将軍とし、軍大臣のカリマコスと同じ部族所属だとしましたが、実際のところ彼の出身区はわかっていないため、彼をアイアンティス族の将軍としたのは架空の設定になります。
軍大臣のカリマコスはアピドナ区の出身であることが判明しているため、彼がアイアンティス族の所属であることは確定しています。アピドナ区はアッティカ地方の「内陸部の区」の一つですが、マラトン平野のすぐ西北に位置しますので、カリマコスにとっては地元のすぐ近くに異国からの侵略軍が到着した感じだったでしょう(ちなみに、この二十数年前(紀元前514年頃)、暴君ヒッピアスの兄弟を殺して「自由の戦士」と讃えられることになった故ハルモディオスと故アリストゲイトンの両名もこの区出身だったといいますので、アピドナ区とヒッピアス一族との間にはある種の因縁があったのかもしれません。)。
しかも、マラトン平野にあるマラトン区、オイノエ区、トリコリュントス区とその少し北の海岸にあるラムヌス区はいずれも彼のアイアンティス族に所属する「海岸部の区」ですので、自分の部族の多くの同僚市民たちにとっては完全に地元になるわけですから、地元に押し入られたという意識は、他の部族のアテナイ人たちよりなお強かったに違いありません。そのせいかはわかりませんが、カリマコスは、敗走するペルシャ軍を海辺まで深く追いかけて目覚ましい活躍をしたとヘロドトスが記しており、そして頑張り過ぎたせいかそこで討ち死にして果てることになります。
「・・・敗走するペルシア兵を撃破しつつ追撃して遂に海辺に達し、敵船に投ずる火を求め、また敵船団を捕獲しようと試みた。
この時の激戦で、軍事長官のカリマコスが目覚ましい働きをした後戦死し、司令官の一人、トラシュラオスの子ステシラオスも死んだ。またこの時エウポリオンの子キュネゲイロスは敵船の船尾の飾りに手をかけたところを、戦斧で片腕を切り落されて果て、そのほかアテナイの名ある人々が多数戦死した。」(『歴史』巻六-一一三・一一四)
これによると、将軍のステシラオスもカリマコスの近くで討ち死にしたようであり、この劇で彼をカリマコスと同じ部族だとしたのはこの記述から連想しての設定です。すなわち、最右翼を任されたカリマコスと彼の所属するアイアンティス族部隊が最も敵軍を深追いしたために、その将軍であるステシラオスともども浜辺で討ち死にしてしまったのだ、と。
ただし、そのすぐ下に記される軍船で片腕を失って戦死したというキュネゲイロスは悲劇作家・アイスキュロスの兄であり、エレウシス区出身のヒッポトンテス族の一員であるため、つまり彼のような別の部族の者もカリマコスの近くで混じって戦っていたことになりますので、ステシラオスも別の部族の将軍であったとしても問題はなさそうですが。
ちなみに、悲劇作家のアイスキュロスもこの兄とともにマラトンに出陣しており、彼は晩年までそれを大いに誇りにしていたようです。それを証拠に、彼の墓には自分が著名な詩人であったことではなく、マラトンで勇ましく戦ったことをこそ刻ませているそうです(高津春繁著『古代ギリシア文学史』P.106より)。
「これはアテーナイ人、エウポリオーンが子アイスキュロスの
墓、豊かなるみのり多きゲラの地に朽ちぬ。
この人のいさおしの証しは誉れ高きマラトーンの聖なる地、
またこれをためした長い髪のメーディア人。」(『アイスキュロスの墓碑銘』)
ところで、アテナイ市の制度では各部族から「五百人評議会」の議員(一年任期の官僚のようなもの)を毎年五十人づつ選出することになっていましたが、その人数は各部族に属する各区の人口に比例するように割り当てられていたようです。例えばアイアンティス族に属するアピドナ区からは十六人、パレロン区は九人、マラトン区は十人、オイノエ区は四人、トリコリュントス区は三人、ラムヌス区は八人、といった具合です(世界の歴史 5『ギリシアとローマ』p.119の図を参照)。
この数字からわかることは、軍大臣のカリマコスが所属していたアピドナ区はアッティカ地方の諸区の中でもかなり多め(第二位?)の十六人も毎年評議員に出していることで、これはアイアンティス族全体が毎年出す五十人の内の三分の一近い人数になります。
そして、これらの数字が各区の人口を概ね反映した比例数であるとするなら、ここから各区の兵士の人数もだいたい割り出せそうです。すなわち、マラトンに出陣した重装歩兵は総勢九千人で十部族からは各々約九百人づつを出した計算になりますので、アピドナ区がその三分の一近くを出したとすれば二百八十八名前後の重装歩兵が出陣していたことになります。同じくパレロン区からは百六十二名前後、地元のマラトン区からは百八十名前後、オイノエ区からは七十二名前後、トリコリュントス区からは五十四名前後、ラムヌス区からは百四十四名前後がこの戦いに参加した感じになるでしょう。
このうち、マラトン区、トリコリュントス区、オイノエ区はまさに戦場になったところであるため、彼らが大勢(約九百名の内の三百六名前後)所属するアイアンティス族部隊はアテナイ軍の中でも最も気合いが入っていた部隊だったかもしれません。(この劇の中では、この部族出身の軍大臣カリマコスがこのアイアンティス族部隊を最右翼で指揮して勇猛果敢に戦ったという設定にしましたが、実際に最右翼に配属されたのがどの部族であったかは不明です。)
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<続く>
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