表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『O-286. 萩-マラトンの戦い劇(主役は小早川ミルティ)』  作者: 誘凪追々(いざなぎおいおい)
幕の一:O-283. 一年目の脱出
11/115

1-②の解説(地図あり)


<幕の一:②「援軍要請のための演説」の解説>



<登場人物リスト>


主役-ミルティアデス(小早川隆景)『三代目』


総理大臣-テミストクレス(高杉晋作)


有力市民-ヒッポクラテス(毛利隆元)

市民の息子-メガクレス(毛利輝元)

若手の市民-クサンティッポス(桂小五郎)

他の市民たち


『弓兵長』

『盲目の巫女』

『右目』

『左目』

伝令






<地図a>

 この1-②「援軍要請のための演説」に出て来る地名を書き込んだ地図です。


挿絵(By みてみん)




<アッティカ地方>

 アテナイ市の本体というべきアッティカ地方は、ギリシャ本土の真ん中やや東にある地方の名前であり、その北東南の三方を海に囲まれた半島状の地形をしています。このようなエーゲ海に突き出すような地形であるせいか、古くからエーゲ海の島々やエーゲ海の向こう岸となるイオニア地方やトラキア地方との関係が深い地方でした。

 アテナイの町は、この地方の真ん中やや南に位置した場所にあり、この地方で最も大きな町であり、この地方の首都たる町でした。はるか昔には、このアッティカ地方は四つの国に分かれていたらしいのですが、伝説によると英雄テセウスの『アテナイへの集住』政策が成功したこともあって、アテナイ市がアッティカ地方全体を領土にする唯一のポリスに成ったのだといいます。

 このアッティカ地方の広さがどのくらいかというと、日本でたとえるならば佐賀県ぐらいの面積でしかないのですが、ポリスの平均的尺度からすれば、それは過分な大きさの地方でした。それを証拠に、このアッティカ地方をそのまま領土とするアテナイ市は、古代ギリシャ世界に無数に存在したポリスの中では、あの有名なスパルタ市などと並んで最も広い領土を抱えていた例外的なポリスの一つでした。


 なお、この物語り劇では、このアッティカ地方に日本の地名『長州』(山口県)を当てはめています。(厳密に言うと、『長州』というのは山口県の西半分である『長門国ながとのくに長州ちょうしゅう』のみを指す地名ですが、ここでは江戸時代の『長州藩』(長門国と周防国を領土にしていた)の意味として使っていますので悪しからず。)アッティカ地方と長州とは、三方を海に囲まれた地形や、その位置関係が、よく似ていると思うからです。ついでに言うと、そこでの歴史の展開や立ち位置なんかも、この両者はけっこう似ているように思えます。中世の守護大名・大内氏、近世の戦国大名・毛利氏、幕末の雄藩・長州(萩)藩などの、山口県の範囲を大きく飛び出して活躍する歴史は、アッティカ地方だけに留まらず、ギリシャ世界に広く飛び出して活躍したアテナイ市のそれに重なると思うのです。




<アテナイ市の制度>

 アテナイ市も、昔は王制であったらしいのですが、伝説によると最後の王が自信を喪失してしまい、貴族たちに王の権威と権力を自ら譲渡したのだといいます。これにより、王の権威と権力は、『アルコン』という役職についた者が担うこととなりました。その任期は始めは終身であったらしいのですが、途中で十年制になり、最終的に一年ごとに交代することとなりました。また、この『アルコン』は、王が担っていた権威と権力を三つの役職に分割しました。王の祭祀部門を担当する『バシレウス』、王の軍事部門を担当する『ポレマルコス』、そして王の行政部門を担当する『エポニュモス』の三役であり、途中からこれに加えて六人の『テスモテタイ(立法者)』も加えた九人制になります。この九人ともを『アルコン』と呼びましたが、特に行政担当のエポニュモスのことを『筆頭アルコン』とも呼び、その役職を担当する者の名前が、その年を示す名前として使われました。例えば、テミストクレスが筆頭アルコンを勤めた紀元前493/492年は『テミストクレスが筆頭アルコンだった年』といった具合です。

 この劇では、この九人のアルコンたちのことを『大臣職』と呼び、筆頭アルコンのことを『総理大臣』、バシレウスのことを『王役大臣』、ポレマルコスのことを『軍務大臣』、そして六人のテスモテタイのことを『平大臣』と呼び分けることにしています。彼らは議会の司会や外国人の接待、裁判の監督、祭りの指揮など、ポリスを主導するような重要な仕事を担いました。以上のことから、この九人のアルコンは、大雑把にたとえれば、日本でいうところの『内閣府』のような存在だったでしょう。

 この『九人のアルコン』を補佐(もしくは監視)する組織として、この他に二つの行政機関ありました。一つは『アレオバゴス評議会』、もう一つは『五百人評議会』です。『アレオパゴス評議会』というのは、アルコン職を無事一年勤め上げた者のみが入会資格を得られる議会であり、いわばポリスの大物政治家(有力市民)たちのみが集う『元老院』のような機関でした。なぜなら、この頃のアルコンは、アテナイ市における財産別四階級のうち上位二階級にしかなる資格がなかったため、その引退者のみで構成されるアレオパゴスの議員には、上流階級(貴族か金持ち)しかなれなかったからです。そのため、後に大衆派に嫌われてその権限を大幅に削られる事となりますが、この頃はまだ、高い権威と大きな力を持っており、ポリスの運営を陰に陽に仕切っていたようです。

 もう一つの『五百人評議会』のほうは、全ての市民の中から籤によって選ばれた五百人が、一年任期でポリスの細々とした行政を担当する機関でしたので、こちらは上流階級から下流階級までがまんべんなく混ざり合って、ポリスの様々な仕事をこなしていたようです。そのため、大臣職が担う『内閣府』やその引退者が担う『元老院』に対して、官僚や公務員が担う『中央官庁』のような機関であったと言うべきでしょうか。

 そして、これら専門の機関とは別に全てのアテナイ市民が出席資格を持つ『民会』があり、ポリスにとっての重要な案件は、この『民会』での議決が、最終的な決定となりました。『民会』はアテナイの町の真ん中やや北西にある『アゴラ』と呼ばれる広場で十日に一度ぐらいの日程で開催されました。ただし、市民全員に参加資格があるとはいえ、本当に全員が集まることはまず無かったと思われます。町に住む市民ならともかく、アッティカ地方の奥地や、海外の島などに暮らしている市民は、そうそう気軽にやって来る事は難しかったでしょうし、仕事やその他の都合で出席できない市民も大勢居たでしょうから。(ちなみに、この頃のアテナイ市民の正確な総数は不明ですが、ヘロドトス著『歴史』に三万人という表現が見られますので、おそらくとても大事な民会にはそのぐらいの人数が集まり、そうではない民会には数千人ぐらいが集まって、議論や投票をしていたと思われます。)

 『民会』が開催される日のアゴラには、四周に結界が張られ、そこから内側には市民しか入れず、全員でポリスのために真剣に話し合うことを誓う儀式を執り行った後(生け贄などが捧げられたという)、個々の案件が順番に諮られ、多数決による決断が下されていきました。たいていは昼過ぎぐらいで閉会になったと思われますが、長引いた場合は、日が暮れる頃まで、あるいは日を改めて議論されたこともあったでしょう。また、アゴラは屋外の広場であるため、雨が降ってきた場合には、たとえ重要な議論の途中であっても閉会になったといいます。それは天空を支配する神ゼウスの思し召しでもあったからです。


 さて、海外の植民地から帰国したミルティアデスがアテナイ市に援軍要請しようとする場合、詳細は不明ですが、おそらく最初は『アレオパゴス評議会(元老院)』で有力者たちに根回しして賛成を募り、次いで『五百人評議会』でこの議案を『民会』に諮る許可をもらい、最終的に『民会』での演説と討論をした上で、市民全員(全員集まる事はまずなかったでしょうが)による多数決で結論を出してもらう、というような手順ではなかったかと推測します。このような議題は、市民全員に関わってくる重要な案件ですので、きっと常より大勢の市民がアゴラに押し寄せたことでしょう。(ただし、歴史資料には何も残っていないので、実際のところどうであったかは、全くのところ不明です。ミルティアデスがこの時点ですでに諦めていてたのなら、わざわざ帰国して援軍要請などしなかったという可能性も高いでしょうし。)




<有力な市民-ヒッポクラテス>

 この劇でミルティアデスと激しい討論を交わしているヒッポクラテスは、息子のメガクレスともども実在のアテナイ市民であり、当時の最も有力な市民の一人でした。彼はアテナイ市を民主制改革したクレイステネスの弟(もしくは兄?)であり、名門アルクメオン家の首脳陣の一人でした。そのため、元老院や民会での発言権は他の誰よりも大きかったと思われますが、彼に関する具体的な事例は、ほとんど伝わっていないので、実際のところどうであったかは不明です。この劇での討論の様子も、あくまで創作です。

 それと、民会の司会をしている総理大臣(筆頭アルコン)のテミストクレスも実在の人物であり、彼が紀元前493/492年に筆頭アルコンを勤めたというのも、歴史的な事実です。彼はその任期中に、それまでアテナイの最寄りの港として使われていたパレロン港では手狭であるため、それより少しだけ遠いが良い入り江が三つもあるペイライエウスを軍港化して使うことを提案したといいます。(残念ながら、この時にはまだ実現しなかったようですが。)


 ところで、古代ギリシャ人の名前に『ヒッポ』とつく例をしばしば見かけますが、『ヒッポス』は日本語で『馬』の意味であり、この劇にも登場しているヒッポダモス(歴史家の助手)やクサンティッポス(若手の市民)のように、とても好まれた名前のようです。ちなみにヒッポクラテスとは『ヒッポス(=馬)』と『クラテス(=勝つ者)』の合成語で、『馬術に巧みな者』といった意味になるようです。これを強引に日本語の名前に翻訳するなら『馬英うまひで』とでもなりましょうか(どうでも良い話しですが)。この半世紀後ぐらいに全く同じ名前のヒッポクラテスがコス島から出ますが、彼は馬とは全く関係のない医者(超有名)になりますので、名前の意味とその人の職業や人生が必ずしも重ならないというのは、我々と変わらないようです。




<イオニア地方の聖地・ディデュマ(ブランキダイ)>

 『盲目の巫女』の出身地であるディデュマは、イオニア地方だけでなくギリシャ中でとても有名な聖地であり、光や音楽を司る神アポロンの神託(アポロンが不在の時は酔狂の神-ディオニュソスの神託)をくだす託宣所として、デルポイ(アポロンの託宣所)、ドドナ(ゼウスの託宣所)と並ぶ三大託宣所として知られていました。神殿の奥室には聖なる井戸があり、巫女はその上に乗せられたかなえに座って神のお告げを口走ったといいます。

 この聖地と神託を代々管轄していたのがブランキダイと呼ばれる有名な氏族であったため、この聖地のことを『ブランキダイ』とも呼んでいました。ちなみにブランキダイというのは、『ブランコス一族』の意味であり、デルポイ人のブランコスを祖先とする神官の家系らしいので、だとするならばディデュマの神託所の始まりは、デルポイの分家のような関係だったのかもしれません。(デルポイの巫女は、大地の裂け目の上に乗せたかなえに座ってお告げを下したというので、そのやり方もよく似ています。)

 このディデュマの聖地はミレトス市の領内(町の南に聖なる道が伸びていて、一日あれば往って帰れるほどの距離(片道20~30km))にあるため、ミレトス市との関係が深く、というよりほとんど一体であったため、ペルシャ軍がミレトスの町城を包囲する時には、この聖地も散々に蹂躙されたといいます。

 盲目の巫女やその従者である双児は劇の中での架空の人物ですが、このようなブランキダイ氏族の者が、ギリシャ本土の町を訪れ、イオニア地方の奪還を同胞たちに呼びかけるような場面があってもおかしくはなかったでしょう。特にアテナイ市はミレトス市の母市でもあったから、お互い先祖代々の交際を続けていた家も多かったことでしょう。果たしてミルティアデスのピライオス家もそうであったかは不明ですが、ケルソネソス半島の支配者であった彼らが、有名な聖地ディデュマにしばしば神託を伺ったり、お礼の奉納をしたりという関係を築いていたとしてもなんら不思議ではないでしょう。




<イオニアの反乱>

 イオニアの反乱は、紀元前500年(もしくは499年)から紀元前493年にかけて、イオニア地方を中心とする小アジアの沿岸地方の人々が、ペルシャ帝国に対して一斉蜂起した事件のことであり、ギリシャ本土からはアテナイ市とエレトリア市のみが援軍を送ったといいます。その顛末は、劇の中でも述べられているため、ここでは簡単にまとめた年表のみを提示しておきます。


B.C.500. ミレトス市が他のイオニア諸市を誘って、反乱を開始。

B.C.499. これに近隣のカリア地方やキュプロス島なども加わって、大規模なものへ拡大していく。

B.C.498. 春、アテナイ市(20隻)とエレトリア市(7隻)が、援軍を送ってイオニア軍と合流。ペルシャ軍の拠点・サルディス城を襲って炎上させた後、エペソスに退いてそこでペルシャ軍と戦うが、イオニア側の大敗。アテナイ軍は逃げ帰る。

B.C.497. ペルシャ軍がキュプロス島を再び攻め従える。

B.C.494. ラデ島沖の海戦で、イオニア海軍が大敗し瓦解する。ミレトス市は陸海から完全包囲された後、城壁を破られ落城。徹底的に破壊される。

B.C.493. 春、ペルシャ海軍がイオニア地方沖の島々を徹底的に掃討。イオニアの反乱は陸側も完全に鎮圧されて終息。その夏か秋?、ペルシャ海軍は続いてヘレスポントス海峡の対岸地方(ケルソネソス半島やビュザンティオンなど)も攻略していく。(→この劇が開幕する頃)




<地図b>

 イオニアの反乱を鎮圧するために出撃したペルシャ帝国軍の推定進路を記した地図です。ペルシャ海軍の基地は、キリキア、フェニキア、エジプトなどにあり、そこから反乱鎮圧のために出航していきました。陸軍のほうはペルシャ帝国の本拠地たるペルシス、メディア、エラム、バビロニアなどから出陣していったと思われますが、陸路だと三ヵ月ぐらいかかったらしいので、彼らにとっては距離が一番の強敵だったかもしれませんね。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ