上巻
ある日の夕暮れ、狐が多く住むという神聖な花園に高貴な身分の姫が乳母の子で幼馴染でもある月冴という少女と共に、お供を連れてやって来ました。
鳥羽 (現在の三重)のあたりに住む高柳の宰相が年老いてからやっと授かった娘であり、周囲からから大切に大切に育てられた姫。
美しく、そして聡明に育った姫は特に和歌に秀でた才能を持ち、両親は宮仕えにさせたいと考えるほどでした。
楽しそうに花園で遊ぶ姫と月冴は気付きませんでしたが、二人ーー特に姫を熱心に見つめる一匹の狐がおりました。
『なんて美しいお姫様なのだろう。遠くからでもいいから、時々お姿を拝見したいなぁ……』
狐は姫に一目惚れをしたのです。
姫が帰ってしまった後、狐は自分の住処に戻り自分の境遇を嘆きます。
『私は前世に何か悪いことをした罰で狐になってしまったのだろう。こんな私は叶わない恋に疲れ切って、虚しく死んでしまうのでしょうか』
と悲しみに暮れて、食べ物が喉を通らなくなって動かずにいるほどでした。
そのうち、格好いい男になって姫に会いに行こうか。なんて考えも浮かんだもののすぐに、
『いや、必ず何かご迷惑がかかってそのうちご両親が悲しまれるに違いない。それに姫様の素晴らしい才能と名声に傷をつける訳にはいかない』
と思い直して諦めました。
もしかしたらまた姫に会えるかもしれない! と花園に出かけてみても、人々に石や弓矢で追い払われる始末。
どうにかしてお会いしたい。
そう強く決意した狐は考えを廻らせ続けました。
***
ある日、たまたま在家信者 (普通の生活をしながら仏教に帰依する人)の「男の子ばかりでなく女の子も欲しいものだ」という話を耳にした狐は、ある作戦を思いつきます。
姫と同じくらいの年齢で、姫にも劣らない麗しい少女に変身した狐は、その人の家を訪ねて言います。
「私は西の京辺りに住んでいたのですが、訳あって独り身になってしまい、頼る宛もなく彷徨っていました。どうかこのお宅に置いていただけませんか?」
それを聞いた主の女房はすっかり同情して
「なんて可哀想なのかしら。これからはわたくしを母とお思いなさい。ちょうど女の子が欲しかったと思っていたのですよ」
と暖かく狐ーー少女を迎え入れてくれました。
しかしなかなか少女はその家族と打ち解けられないどころか、時々泣いているようです。
「どうしたの? もし恋人とかと会えなくて寂しいのならば隠さずにおっしゃいなさい」
「いいえ、そんなことは決してございません。この様な身ですから結婚できるなんて考えてもいません。……ただ。ただ、美しい姫君のお傍でお仕えしたいのです」
「そうだったの。……良い所に嫁いではどうかと思っていたけれど、そこまで考えているならば高柳殿の姫君の所へ行くのがよろしいでしょう。頼んで差し上げますね」
と言うと少女は、とても喜びました。
そして無事、慕い続けてきた姫の下でお仕えすることが決まった少女。
美しく同じ年頃である少女がやって来たことに姫も喜び、『玉水の前』という名前も頂きました。
玉水はいつしか見かけた月冴と共に、日夜離れることなく姫の傍にいる事ができるようになったのです。
一緒に過ごすようになったことで、姫は玉水の事を知ると同時によく気遣うようになってきます。
犬を真っ青になるくらい怖がる様子に、御所の中で犬を飼わないようにさせたりと周りが妬むほどの特別扱いっぷり。
しかし玉水は時々思い悩んだような和歌を書くのです。
それが心配で仕方がない姫は玉水に和歌で問いかけます。
誰か想い人がいるのではないか。
しかし玉水は困った様子を見せて曖昧に答えるだけ。
姫の満足のいく回答は得られませんでした。
***
それから進展もなく三年もの月日が経った頃、姫君と親しい人々が集まって紅葉合 (紅葉の美しさを競い合う遊び)が行われることになりました。
玉水は姫に勝ってもらおうと秘策を練ります。
夜中にこっそりと抜け出して狐の姿に戻ると、しばらく会っていなかった兄弟たちの下を訪れて事情を話し、協力を求めたところ、狐らしく御所に犬が居ないか尋ねる兄弟たちに、姫が自分のためにしてくれた事を想いだして微笑むと、心配ないと答えるのです。
御所に戻ると、玉水の帰りを待ちくたびれていた姫が、
「ねぇ、何処へ行っていたの? どなたとお会いしていたのかしら?」
と追求してきます。
「ただ昔の知り合いと約束をして少しお会いしていただけですよ」
「……どうせわたしのことなど直ぐに忘れてしまうのでしょうね」
「いいえ! 姫様のお傍を離れて他の方にお仕えすることはありえませんっ!! 勝手に居なくなるだなんて言わないでくださいませ!!」
「……そう? ふふっ、可愛いわね、玉水は」
冗談のつもりが、本当に悲しそうな表情で見つめられた玉水は慌てて否定すると同時に姫の手をとって詰め寄りますが、よくよく姫を見つめればくすくすと笑われているだけ。
「っ〜……!!」
「ともかく、これからもわたしの傍で支えてくざたいね」
「姫様なんて知らないです!!」
姫は玉水の表情を見てまた笑い出すのでした。
紅葉合が近づいた頃。
玉水の兄弟たちが葉ごとに法華経の彫ってある見事な青、黄、赤、白、紫の五色の楓の枝を届けてくれました。
「玉水、それどうしたの!?」
「例の知り合いに頼んだのですよ。ささ、姫様。和歌を詠まれてこちらに付けてくださいな」
「…………ねぇ玉水、あなたも一緒に詠んでくれるかしら?」
「えっ、でもこれは姫様の……」
「お願い。折角あなたがこんなに素敵な枝を用意してくれたのだもの。わたしだけのものじゃないわ」
固辞しようとするも、姫から重ねて頼まれるうちについに諦めて頷いた玉水。
「可笑しかったら姫様が書き直してくださいね」
と念を押しつつも、素晴らしい歌を書き上げました。
姫も一緒に詠み、共に紅葉合の日を迎えたのです。
正確な上下巻の区切りではありませんが、ストーリー性を重視した結果この位置で区切ることにしました。