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六、彼女の言葉(10)

 小指から順に、魔力を持った指輪が砕けては散っていく。

 エルエスの体を蝕む石化を抑えていたもの。プロテクション魔法を発揮したリングと同じように特別な力を持っていたはずのそれらが、彼女の指から崩れ落ちると、塵となってたちまちかき消える。

 彼女の膝の辺りまでにじり寄っていた灰の色が、エルエスを守っていた魔力の抵抗を打ち破り、その歩みが上へと急速に駆け上がっていった。

「エルエス……エルエスッ!」

 目に溜まっていたものが、一気に溢れて頬を伝う。

 彼女の腰まで侵していく死の色。エルエスをただ見ているしかできない自分。

 全ての指輪を無くした指先が震えていた。

「もう覚悟は決めていたはずなのに……。

 ジギーが助かったのだから、あたしは大丈夫だって、思ったのに」

 とうとう俺はエルエスの最期の笑顔を心に焼き付けることはできなくなってしまった。

 それは俺の目からとめどなく溢れる涙のせいでもあったし、かろうじて彼女の平常心を保たせていた魔法の指輪が失われてしまったから。遅々としていた石化の侵攻が勢いを取り戻したことで、気丈な女性はいなくなってしまった。

「……怖い。

 怖い、怖いのッ! どうしようもなく怖い!

 あぁっ、もうこんなにッ! どうしようジギー、あたし、怖いッ!

 ……けて。助けてッ、ジギー!

 怖い……怖い、怖い、怖い! あたし、まだ死にたくないッ!」

 ついに身一つ動かせなくなったエルエスの瞳に、怯えの色が映った。

 自己が消えてしまう恐怖に体を震わせることすら、もう彼女には許されない。

 石化はすでに彼女の肩まで進んでいた。石化をくいとどめる手段は無い。

 けれど、俺の体はそんな事を確認するまでもなく、弾かれたように飛び出していた。

「絶対に助ける! エルエス、俺が今すぐ助けに行くッ!」

「あぁっ! だめよッ、こっちに来ちゃダメ! 忘れてッ、あたしたちの事はもう忘れて! あなただけでも生きて帰って!」

 エルエスまで、ほんの五メートルもない。

 でも、でもッ!

 その数メートルが途方もなく遠い。

 せめてエルエスの心だけでも救いたかった。少しでも恐怖を取り除いてやりたかった。できることなら、彼女に心が残っているうちにこの腕で抱きしめてやりたかった。

 キミは生きているんだ、石になんてなるわけがない! 気休めにしかならなくとも、そうやって声をかけてやりたかった。

 それが俺にできる精一杯の抵抗だったのだ。ただもう──時間が足りない。

 彼女の首が灰色に染まる。

「助ける、助けるよッ! 何年かかろうが、何十年かかろうが、俺は絶対にエルエスの事を忘れたりなんかしない! 忘れるもんかッ!」

「忘れてッ、お願い、忘れて!

 キャアアアッッ! もうッ、もう……!」

 あらんかぎりの声を振り絞って叫んだ。

 大粒の涙が舞う。

 手を伸ばせば、すぐ届くほどの距離。それなのに──届かなかった。

 俺の指先は何も掴み取ることはできなかったのだ。エルエスを助けることはおろか、悲しみをなくしてやることさえも。

 金の精彩を放っていた彼女の髪は、柔らかいウェーブを描いているのに、重々しい色をしていた。

 エメラルドグリーンだった瞳には、もう何も映らない。茶目っけたっぷりの笑みを俺に向けてくれることはもうない。

 彼女は最期に唇を動かした。それは声にならなかった。

 けれど唇が紡いだ言葉は、耳に届かなくても感じ取る事が出来た。


 『わすれないで』


 小石よりも小さな粒が、床に転がった。それは、エルエスの涙だったものだ。

 たった数秒前まで息をしていたのに……俺と言葉を交わしていたはずなのに。

 終わりが迫った直前で、彼女は俺に「自分の事を忘れて欲しくない」と願った。

 人は誰でも、忘れられる事が何よりも怖いのだと、聞いた事がある。忘れられるという事は、自分という人間が存在しなかったという事のようになってしまうからだ。

 頑なに忘れられる事を願った彼女は、最期の瞬間には俺の記憶に残る事を望んだのだ。



 * * *



『足りないのです。足りないのです』

 うなだれて膝を床に着けたまま、面を上げる事ができなかった。

 どうしてこんな事になってしまったのか。質問を投げかけようにも、答える者など何処にもいない。

 幻想的な虹色を地面に落とし込む室内。

 こんなもの、まやかしだ。全ては闇を覆い隠す為の、偽りの美しさに過ぎない。

 静寂。

 三体の石像が、成す術もなく床を濡らす俺を見下ろしているだけ。

 変わりゆくエルエスを前に、俺は何もできなかった。

『しばらく預けてもらえませんか?』

 無力感。

 胸にポッカリと空洞ができたような喪失感。

 緩やかな風が頬を撫でていくのが、なぜか痛かった。

 ここにはもう、俺に笑顔を向けてくれる人たちはいない。もう一つの家族とも言える人たちがいない。

 苦しい時、辛い時、肩に手を添えてくれる人がいない。嬉しい時、楽しい時、喜びを共に分かち合える人が……いない。

 全てが奪われてしまった。

 ほんの一時の間に、なにもかもを失ってしまった。

 何も見えない。

 未来さえ、希望さえ感じられない。

 すでにここは塔の内部ですらなかった。

 戻って手当たり次第に彼女たちを元に戻す方法を探す事すら叶わない。まるで泡沫の夢のように、塔は欠片も見当たらず、荒野が広がっているだけ。

 けれど、

 彼女たちは確かに存在していた。

 その証拠に、剥き出しになっている土の上に転がった小さな石粒を、俺は手に取った。

 エルエスの涙。

 彼女の時が止まる寸前で、エルエスが流した涙の一雫が、俺の手の平にある。

 それなのに、彼女だけがいない。

 どうしようもなく涙が溢れてきて、頬を伝った。


『きっと、お返しできませんが──あなたがたの魂』


 夜空に絶叫が響いた。

 爪が肌に食い込むほど、小石を握り締めて叫んだ。

 欲しいものが手に入らない子供のように、みっともなく泣きじゃくった。

 二度と戻らない日常を想って咆えた。

 どんなに流しても涙尽きる事なく、次々と頬を伝い地面を濡らす。けれども大地は悲しみを吸い取って何事もなかったかのように押し黙る。

 しとしとと、雨音が聞こえた。絶望に打ちひしがれる俺に、憐憫の雨がいつまでも降り注ぐ。夜闇が肩に重くのしかかる。

 冷たい風と雨のリズムが心をゆっくり溶かしていった。





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