五、呪文と消えゆく闇(8)
上体を屈めて、跳躍の力を溜める。
そして息を吸い込み、大きく腕を振り上げてジャンプ!
靴底に固い感触。バルバドの背丈よりも高い、黒龍の腕の頂上部に足がかかる。そのまま二段飛びの要領で、俺はさらに高く跳び上がった。
憤怒で剥き出しになった鋭い牙、黒光りする鼻先を越えて、奥に潰れた二つの眼。頬の辺りから頭蓋の後ろまで密集している、体表と同じ漆黒色の髭とタテガミ。
それらをかきわけた額の中心に、透き通った大玉の水晶が視野に入る。
もし、広間に立ち入ったときにこの水晶を破壊していれば、なんて後悔はいらない。
俺が今、この剣の一撃でこいつを破壊できなければ……。そんなことだって考える必要なんてないんだ。
どっちにしたって結果論。俺は俺の持てる力を結集して、最後の一滴まで全力を振り絞ればいい。
だから俺はこれ以上、なにかを考えるのはやめた。
眼下に光っている、冒険者たちを陥れる全ての元凶を打ち砕くため、右手の一振りに賭けるのみ! 透明な水晶を破壊することだけに精神を定める。
だけど……だけど、
俺たち人間を超越する何者かが、舞台の裏側からクスリと嘲笑を浮かべたような──。
シュゥゥゥ……。
空気の抜けるような音。
あと一歩まで迫った水晶が、妖しい照り返しを見せたとき、身を包んでいた周囲の熱気が突如として地獄の業火へと豹変した。
(防御魔法が……! 消えたッ?!)
これはプロテクションの魔法の効果が終了したとかいうものじゃない。
あの水晶のまるで意思を持っているかのような光の揺らめき、いきなりにして途絶えた俺の全身を覆っていた安心感すら感じる波動。明らかに作為的な消失。
口から吸った空気が、まるで炉で熱して溶けた金属のように、喉を焦がしながら肺まで運ばれる。
広間が火炎に包まれてから今まで俺たちが平常でいられたのは、エルエスがかけてくれたプロテクションがあったからなんだ。
それが突然にして、とても生身ではいられないはずの世界、呼吸すらままならない地獄に引きずり込まれてしまった。
黒龍を倒すという信念すら、業火の前では消し炭にされてしまいそうだ。
頭のてっぺんからつま先まで、火炙りの刑にされているような感覚で、頭の中はドロドロになった鉄を流し込まれたかの如く、カッとなって赤に染まる。
それでも──。
正気をかろうじて保っていられたのは、他に理由なんかない。
普段は温厚だけど、時に厳しく、真のファイターあるいは男というものを背中で語ってくれるバルバド。
俺が思い悩み、道に迷いそうになったときは、冗談を交えながらも導いてくれるスキップ。
聖母のような慈愛で、いつも温かく包み癒してくれるエルエス。
三人共、かけがえのない俺の仲間たち。そして、とても大事な人たちだ。ここで力尽きてしまえば、もう冗談を言いながら笑い合うこともできなくなってしまう。
みんなの笑顔が二度と見られなくなるなんて、絶対にいやだ!
(俺にエルエスの言うような不思議な力があるのなら……!
頼むッ、それを使うのは今じゃないか!
こいつを倒す力をこの瞬間だけでもいい、貸してくれ!)
ドンッッッ!
熱波が宙に浮かぶ俺の体を揺らした。
意識の彼方に聴こえるエルエスたちの悲鳴。
それはアウフ・ドラゴロスの発した黒炎の衝撃、黒龍を中心にして漣のように放たれた烈火。
防御魔法も解けたまま宙に浮かんでいる無防備な状態で、普通だったならば動揺していたかもしれない。だけどこの時の俺には、涼風のようにしか感じないほど、神経が研ぎ澄まされていた。
さっきまでのような息苦しさはない。
それどころか、周りの景色がスローモーションになって、剣を掲げたままにゆっくり下降する自分がいる。
振り下ろす剣。
水晶に刀身が触れ、剣を通して堅さが掌に伝わる。そして水晶を破壊しようとする力と、それに抵抗しようとする反発の力がせめぎあう。
俺の……いや、俺たちの絆の力が勝つか。それとも、この塔を造った悪意ある存在の意志が勝るか。
(俺たちが勝ってみせる。勝負だッ!)
剣と水晶との間で、小さな火花が何度も散った。
その時、水晶を通して何者かの視線を感じたような気がした。
「くっ! うぅ……!」
出来事は、本当に刹那と刹那の狭間で以って行われ、次には、ドダンッ! 黒龍の額に足から着地して、片膝をついた俺がいた。