2章13話『江戸』
村に来て三週間が過ぎ、いくつか分かったことがある。
まず、我々が島にいることだ。黒ノ平原があるのは黒笠島という孤島である。現在では、ほとんど活火山は無いものの、周囲を火山活動により形成された山脈に囲まれている。
なぜ島の外には藍空が広がっているのに、島の上空一帯には黒い雲が層状に広がっているのかについても明らかとなった。
なんでも、島の中心部には大陸茶碗茸という高さ一〇キロメートル以上の巨大なキノコが生えており、その表面や内部に共生している天空黒揚羽という気中藻が、常に島の上空へ噴き出しているためなのだとか。
ただ、本体の姿は、テンクウクロアゲハによる黒雲のため、黒空に隠れて見えないのだとか。
「ここからではわからないけど、十分離れてみればこの島の本来の姿が見えますよ」
と松山さんはそういったが、十分とはどれくらいのことなのかは訊き忘れた。
この村についてわかったこともある。村は研究機関及び別の世界と繋がる通路の監視塔を兼ねており、主に黒笠島の生態調査と螺流蛇蘆守のある雲球界からの来訪者の応対をしているのだとか。
また、村は二十数名前後の住人によって緩やかに運営されており、その多くが蔭妖ということだ。実際に、松山さん以外の何名かと既に交流を持った。
ところで、封印木扉を開いてくる者たち、つまり、あの魔獣たちとの戦いを潜り抜けてくる者たちが他にも一定数いるということには驚かされたが、これは不安材料でもある。
以前の松山さんの言葉に反して、蔭妖寮の連中がこちらの世界まで追ってくるかもしれないからだ。
とはいえ、他に行く当てもないので、松山さんに借りている長屋を拠点に自給自足生活が始まった。黒ノ平原内からはずっと青い光がさしているように見えたが、島の外には緩やかな昼と夜の区別があり農業ができるのだ。現在は季節もラルタロスやクルカロスと同じ春ということで、稲やサツマイモの苗を育て始めた。これには、アミテロス魔法学校時代に緑寮で培った経験が役に立っている。
残念ながら、紅羽についてはこちらでは何もつかめていない。彼女について話すべきか慎重に検討していたが、埒が明かなくなり、思い切って話してみることになった。
松山さんはいつもの研究所にいた。松山さんと出会った時のこし屋根の平屋のことだ。村の奥にある神社で宮司を務める久川さんもいる。いつもの白い袴姿だ。久川さんは温厚な人柄で見かけ上は初老の男性に見える、榊の蔭妖である。
茂蔓、霞とともに紅羽について尋ねた。
「紅羽鳳凰柳の蔭妖ですか。草蔭と同色の赤毛、碧眼。いずれも松葉蘭の蔭妖には珍しい形質ですね。一目見たことがあれば、覚えていそうなのですが……」
「そうですか……。ありがとうございます」
蔭蔓は内心ため息をついたが、松山さんの話はまだ終わりではなかった。
「ですが、情報を得られそうな場所なら知っています」
「どこですか?」
茂蔓が間髪入れずに尋ねた。
「我々の本部のある、江戸です」
「江戸、それはいったい……」
松山さんは一呼吸置いてから口を開いた。
「村からあちらの標島へ直線上に船で進み続けるとやがて大陸に辿り着きます。江戸は大陸側の港から薄の草原を超えた先にある蔭妖の街です。数千の蔭妖がおり、ここら一帯を管理する蔭妖寮といえるでしょう。江戸でなら、凰柳さんについて何らかの情報が得られるかもしれません」
そういって松山は海の方向を軽く指した。松山さんの手の先には海から突き出た三角形の島が一つ、周囲と同化しそうになりながらぼんやり横たわっている。
「うん、系譜や出自ならわかるかもしれないね」
久川さんが付け足した。
「系譜? なんか詳しいですね」
霞が尋ねた。
「江戸には松葉蘭蔭妖が数多く住んでいるんだよ。多くの松葉蘭蔭人家の根拠地だからねえ。閉鎖的な人も多いけど、十年も松葉蘭の彼女を探しているとなれば、きっと協力してくれる人もいるんじゃないかなあ」
そういうと、久川さんはにっこりと微笑んだ。
「ただ、江戸は我々の心臓部です。そのため、江戸へのワープ等は設けられておらず、航海は困難を極めるかもしれません」
「構いません。手がかりがある以上、探すだけです」
茂蔓は覚悟を述べた。茂蔓の、紅羽のためならなんでもするところは、それが悪事でない限りは非常に頼もしいというのは認めざる負えなかった。
「では、決まりですね。決行は一年後の三月が良いでしょう」
「今年ではないのですか?」
茂蔓は唸るようにいった。
「来年は蔭獣が少ない時期です。それ以外の時期は、この海は渡るには危険すぎます」
「蔭獣……」
蔭蔓はつぶやいた。これはリプロス蔭妖寮で、あるまじ木忌と呼ばれていた者たちの本来の呼び名だ。人型のものは特別に蔭者と書いて区別する。蔭者とも読む。
つまり、神那は蔭者ということになる。
蔭妖とは異なり、無限再生能のないものが多いが、肉体の許す限り草蔭の力の源である、蔭を際限なく利用できるのが一般的な傾向だ。
「来年は海龍の年。海龍様の加護があるから、時期を合わせていくと良いよ」
久川さんが付け足した。
「か、海龍様ですか?」
気になったので、訊き返した。
「うん、海龍様。藍の世界の海を守ってくださっているんだ」
「見たことあるんですか?」
霞が遠慮なく訊いた。すると、久川さんはやや困った顔で笑った。
「僕はないけどねえ、背黒海蛇のようなお姿なんだって」
「一説には背黒海龍という大型の背黒海蛇のことといわれていますね。シロナガスクジラを丸呑みにするともいわれています」
「そうなんですか……」
霞は単調に返したが、蔭蔓は身構えた。シロナガスクジラを丸呑みっていったいどれほど大きいんだ。
(で、背黒海蛇って?)
(知らねえのかよ。陸に上がらないずっと海で生活している珍しい蛇だよ。)
(へえ、知っているのか。)
(まあ、蛇仲間だからな。)
(そういうもんなのか?)