2章12話『藍《あお》の世界』
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「花見の件どうしますか?」
荷物を置いて草むらをぶらぶらしていると、松山さんに呼び止められた。
「同行しても構いませんか?」
声の主は霞だった。霞も敬語は話せるようだ。
「はい、全く問題ありませんよ」
「行きます」
蔭蔓は初めの質問に答えた。
松山さんと二人きりというのは、お互いに知らないので抵抗があったが、霞も来るとなれば話は別だ。二人いると安心する。
(おいらを忘れるなよ?)
(ああ、そうでした。でも、お前は俺扱いだろ?)
「では、とても良い場所があるので案内します」
そう言うと、松山さんは白衣のまま山道を下り始めた。比較的平坦な道のりだがごつごつとした岩がたくさん転がっており、足場は安定していない。けれども、松山さんは慣れた足取りで下っていく。
「その袋、何?」
霞は大切そうに紙袋を抱えている。
「ん」
霞は中が見えるように袋の口を蔭蔓の方へ広げてみせた。中にはずっしりと羊羹のパックがのぞいている。
食べる気まんまんだな?
三人が辿り着いたのは海岸線沿いに広がる松林だった。林の随所に蔭蔓くらいの背丈の岩場がある。
そして、発光している灰緑色の地衣類が松の幹や岩石をすっぽりと覆っている。地衣は蛍のようなぼんやりとした柔らかい光を放ち、今にも空に同化してしまいそうである。
「ここの松は全て松山さんの草蔭ですか?」
蔭蔓が尋ねた。
「全部ではありませんが、一部はそうです。黒松は塩害に強く、海岸付近で良く育ちますから、ここら一帯は楽園ですね」
確かに、見渡す限り海岸線沿いに黒松が生い茂っている。さらに、海上にも円錐形の島が多数存在し、その大部分が黒松で埋め尽くされている。島全体が黒松林というものまである。
再び松山さんが話し出した。
「けれど、本日の目当ては地衣類の方ですね。お二人は地衣類がどのような仕組みで成り立っているかご存じですか?」
松山さんは二人の知識を探るような質問した。
「菌類に藻類が共生している共生体でしたっけ?」
アミテロス魔法学校時代に緑寮で教わった。
「ええ、その通りです。共生している菌類の方を共生菌、藻類の方を共生藻と言いますね」
「そうなのですか……」
蔭蔓は言った。一方、霞は袋から羊羹を一本手に取った。
「ちなみに、ここら一帯に広がっている、この光る地衣類は主にウメノキゴケ属の地衣類の草蔭です。これらを総称して梅木蛍と呼んでいます。」
似た種類の草蔭が何種類も混在しているということのようだ。岩肌を覆いロゼット状に広がる円盤形のウメノキボタルは、目を凝らしてみると、個体ごとに若干形態学的違いがあるように見える。
「そういう種類の地衣があるのですね? ウメノキボタルの元となっているウメノキゴケ属の地衣類というのはどのようなものなのですか?」
できるだけ、理解に努めた。
「そうですね、代表的な種はウメノキゴケです。身近な例では、梅ノ木や松の盆栽に生えているものですね。形で言うと、ウメノキボタルと変わりません」
「ああ……」
ちょっとわかったかもしれない。多分、気に留めてこなかっただけでそこら中にあったと思う。
「ところで、お二人はこの世界に来て疑問に思われたことはありませんか?」
「……何についてですか?」
霞が尋ねた。妥当な質問だ。この世界に来て疑問に思ったことは既に数えきれない。
「例えば……天候についてなんてどうでしょう?」
ひとまず、松山さんの誘導に乗ってみよう。
「黒ノ平原では夜が明けなかったこと。これに加えて、逆にこちらはずっと明るい、いや、青いこと……ですかね」
ヴォルフと議論しておいてよかった。
「いい着眼点です。どうしてだと思いますか?」
「色々考えはしましたが、よくわかっていません」
「では、前の世界ではどうでした?」
松山さんは問答を続けた。
「ラルタロスがあるのは太陽の周囲を公転している雲球という惑星で、昼夜の訪れは、雲球の自転によるものですよね?」
習った話では、ラルタロスの空には魔獣や龍が溢れ、電磁波は世界全体で乱れており、異常気象が日常茶飯事なため、空に衛星を打ち上げたり遠距離を電気だけで通信したりができないのだとか。
「ホントかどうかはあやしいけどね」
霞は苦笑気味に付け足した。
確かに、ラルタロスでは天文台の観測データなどは国家機密だった。そもそも、天文台や宇宙関連の研究所のほとんどがどこにあるのかが非公開。さらには、存在すらしられていないものもあるという噂もあった。
そんなこんなでデータが出されないのだから、何を言われても本当のところはどうなのかわかったものではないのだ。
「確かそうでしたね? では、この世界についてはどう思いますか?」
松山さんの表情が一瞬ゆがんだが、さらに質問を続けた。
「ひょっとして、この世界は自転などの概念がない? 待ってください。一体ここはどのように存在しているというのですか?」
ラルタロスではっきりとした昼夜があったのは雲球の自転があったからとすれば、こちらで昼夜が曖昧なのは、そういうものがないからである可能性はある。
「なるほど、根本的な問いに来ましたね。」
すると、少し間をおいてから松山さんが回答した。
「少なくとも、ここは公転や自転を行う惑星上ではないですが、その問いの答えは存外難しい話なのです。ですが、わかっていることもあります」
松山さんは続けた。
「それは、この世界がどのようにして、このように藍く照らされているのかということです」
「……お聞かせてください」
「……」
霞も興味を持ったようだ。
「お二人は気中藻という言葉を知っていますか?」
「……いいえ」
霞は呟いた。
「空気の中の藻類……ですか? 空中を漂っていそうな名前ですね」
感想を付け足した。
「いかにも。気中藻は大気中に存在する微細藻のことです。そして、その気中藻の一角であるトレボウクシア藻綱の緑藻には草蔭化したものがあります」
松山さんは続けた。
「天覗という、あるトレボウクシア藻綱の草蔭は単細胞生物で、一マイクロメートル程度の大きさです。実はこの小ささのおかげで、アメノゾキは生きた雲凝結核になれます。これには大きさ以外にもいくつも満たすべき条件があるのですが、天覗はそれら全てを満たしています。」
松山さんは段々と力強く言葉を紡ぐようになっていった。
「天覗も草蔭ですから、草蔭としての物理法則を超越した性質を持っているはずですね?」
「はい」
霞は即答した。蔭蔓はそういうものなのだろうと、ひとまず頷いた。
「それを考えるヒントとして、トレボウクシア藻綱の緑藻の重要な性質を紹介します。それは、ウメノキゴケ属の地衣類の共生藻はトレボウクシア藻綱に属しているということです。だから、その草蔭であるウメノキボタルの共生藻もトレボウクシア藻綱のものなのです」
この時、上手く言い表せないが、蔭蔓は頭全体が震えるような感覚を覚えた。
「もう天覗がどのような草蔭なのかわかりましたね?」
「光り……」
この時ばかりは二人同時に答えた。
情報を整理しよう。
辺り一面で光を放っているウメノキボタルはウメノキゴケ属の地衣類。
この、ウメノキゴケ属の地衣類の共生藻がトレボウクシア藻綱。
そして、アメノゾキはトレボウクシア藻綱の藻類。
だから、ウメノキボタルの共生藻はアメノゾキかもしれない。
加えて、アメノゾキは雲凝結核にもなることができる。
だから、アメノゾキは上空に広がる雲の凝結核になっているのかもしれない。
もし、天覗が、ウメノキボタルの共生藻となっており、なおかつ、藍空の雲の凝結核にもなっているとすれば……。
「では、この松林で灰緑色に光り、この世界そのものをも藍く照らしているのは……この天覗という草蔭」
「正解です」
「すごい……ですね」
霞は空を見上げた。無理もない、蔭蔓も白も既に呆気に取られてしまっている。
二人の反応を見ると、松山は嬉しそうに言った。
「原始発光藻。我々は、この世界にあって、この世界をこの藍の世界たらしめ、この世界に無数の生命を存在せしめるこの藻たちをそう呼ぶのです」
この世界は生きている。それは比喩でもなんでもない。ただ、文字通りにこの世界は無数の生命によって構成される一つの有機体だったのだ。そしてそれは、蔭の与えた藍い灯によって今この瞬間も拍動し続けている。