2章8話『翌朝』
「どうしたんだい? 神那君」
繋木氏は一歩下がって神那を輪に入れた。
「あ、繋木さん……。あの、洞窟の入り口があったところに掲示板が建ってるんですよ……」
「掲示板?」
「はい。とにかく見ていただいた方が早いかなと……。みんなも来てくれないかな……」
「私たちがこっちに来てから現れたってことなの!?」
あずさは驚きと興奮が混じったような表情を浮かべている。
「そうだとしか思えないんだよね……」
「うん、あり得るね。蔭妖魔術には、蔭妖が物理的に近づくことが引金となって発動する型の魔法もあるのさ。だいたいは蔭妖の放つ蔭を感知していると考えられているんだ」
ヴォルフは高速に見解を述べ続けた。
「で、発動した魔法は物理的な変化をもたらすでしょ? 例えば、植物の成長みたいに。だから、後は、その物理的な変化を感知するセンサーがあれば、どのようにでもできるというわけなんだよ」
ヴォルフは言い終えると、息を吸い込んだ。
「そう……なんですか!?」
神那はとりあえず答えたという感じだ。
「アレクシアから聞いたのだけど、えっと……ヴォルフガングさん?」
「ヴォルフでどうぞ、他の方も」
「わかったわ」
神那に連れられて、岩山を九〇度ほど反時計回りに回った。確かに、入り口のあったあたりから切妻屋根付きの茶色い掲示板が突き出している。なお、その周りには、酔って赤くなっているアレクシア、薊、霞が座りこんでいる模様。
「やれやれ、わからないことが多いから気を引き締めるよう言ったばかりじゃないか!」
茂蔓は三人を叱責した。
「いいじゃないですか、今日ぐらい。茂蔓のケチッ!」
アレクシアは完全に酔っている。
「茂蔓は、下戸だからアレクが羨ましいって。本当はアレクと一緒に飲みたいよおって」
薊、飲みすぎだぞお!
その後、霞は反駁する代わりにふらふらと立ち上がった。ただ、今にも倒れてしまいそうだ。
「こんなのあったんだけど……」
霞が神那に手渡したのは、小冊子だった。表紙には習字で『黒ノ平原記』と書いてある。この世界を案内する冊子なのだろうか。
「寝る……」
霞はそう二人に言い残してテントへ向かった。神那は受け取ると皆に見えるよう逆さにして最初の見開きを広げた。
「どうやら、地図のようだね」
繋木氏は分析した。確かに、右上部に『黒ノ平原絵図』と書いてあり、墨絵で右端に岩山、左側に山脈、左上側には海が描いてある。ただし、海と言っても、波のような記号が紙面に書いてあるだけで、実態は不明なのだけども……。
「そういえば、方角が書いてない。」
「あ、だよね」
神那も頷いた。こういう地図は見慣れているのかもしれない。
「ちょっと貸してくれ」
茂蔓は言った。
「どうぞ」
神那から冊子を受け取ると、茂蔓は黒い日陰蔓を生やして冊子を接触させた。
「どうやら複製できないタイプのようだ」
「一団体に一つなんて、気前がいいじゃない」
あずさが皮肉った。
「だが、これで僕らがすることは確定したようだ」
「次のページも見てみようっ!」
ヴォルフは待ちきれないというように言った。茂蔓がページをめくると今度は目次があった。書かれていたのは、黒ノ平原の草蔭についてだ。
黒ノ平原主要草蔭目録
壱 灰雌日芝
弐 斑墨笹
参 黒薄
肆 万年毒青粉
伍 山毛欅
陸 小楢
漆 化狸藻
捌 家衣笠
その次のページも開けてみると『壱 灰雌日芝』と名が縦に記されただけだった。他のページに関しても同じで、草蔭の名前だけが書かれており、他は何も書かれていない。
「ほとんど白紙ね……」
あずさはぼやいた。
「何らかの刺激を与えれば、表示される仕組みかもしれない……」
ヴォルフは呟いた。
「やはり、こうだろうか」
茂蔓が近くに生えていた黒っぽい薄に本を接触させた。それから、彼はページをめくった。すると憶測通り情報が更新されている。
参 黒薄
イネ目イネ科ススキ属。
黒ノ平原における優占種の一つ。多年草であり黒ノ平原一帯では常緑。草高は六メートルに達する。薄ノ草蔭の変異種で、黒色体を得て蔭合成独立栄養生物となった。
「情報を得るには直接接触させなければならないと……」
蔭蔓は言いながらため息をついた。これでは、事前に情報を知って危険な草蔭を回避するようなやり方が難しい。情報を得たければ、草原を歩き回れと言われている気分になる。何もないよりは、遥かにマシだけれども。
蔭蔓が考えている間に、ヴォルフと茂蔓は次々に試していった。その甲斐あって、さらにいくつかの情報が得られた。
壱 灰雌日芝
イネ目イネ科メヒシバ属。
黒ノ平原における優占種の一つで、最も強い勢力を誇る。一年草であるが発芽、開花時期、共に不斉であり、群生地は常に草原の様相を呈する。蔭合成独立栄養生物。毒や害は無い。食に適さないが、雌日芝の近縁種は先史文明において食用とされていた記録がある。
(なるほど、こいつは安全そうだ。というか、先史文明って何? 白、知ってる?)
(知らないシュルル……。)
弐 斑墨笹
イネ目イネ科チゴササ属。
黒ノ平原における優占種の一つ。多年生であり常緑。白い筋状の斑が入った、黒い葉が特徴。稚児笹が黒色体を得て草蔭化したものと考えられ、蔭合成独立栄養生物である。湿地を好み群生する。黒ノ平原において、この群生地は湿地や沼の標識となる。これらは蛇の巣であり、踏み入ってはならない。
「つまり、ハイメヒシバの群生地をたどるように進めばいいってことね」
あずさが結論した。
「え、クロススキは?」
神那が訊いた。
「いいけど、草高が高いからこの荷物じゃあね……」
「あ、そっか。そうだね」
冊子にもあったが、この辺り一帯は、ハイメヒシバ、マダラスミササ、クロススキの三種が優占している。けれどもまた、その三種に隠れるようにして多種多様な生物が存在しているようである。
例えば、先ほど茂蔓が使ったクロススキには蛇目蝶の幼虫が鈴なりになっており女郎蜘蛛の巣もある。根元には見事な南蛮煙管が寄生しており、その周囲には黒山蟻の行列がある。
その後、特にヴォルフがもっと情報を集めたいようだったが「ちょっとみんな、もう遅いし危ない所もあるようだし、これ以上は明日からにしないかい?」と繋木氏が皆の総意を代弁した。
結局、冊子は茂蔓が管理し、その日は就寝することになった。
翌日。燦燦と降り注ぐ朝日を背に、蔭蔓たち一行は旅立つはずだった。ところが、そうもいかないかった。一応、起床時間になったので、起きていたメンバーで話し合いが始まった。
「夜が明けないみたいね……」
あずさは分析した。
「極夜ってことかな……?」
神那は言った。なお、酒にはかなり強いようで酔いはすっかり抜けている。
「そもそも、極夜、白夜の概念があるのかすら怪しい気がする。奥まで曇って見えるのも、昨日と同じようだし」
蔭蔓は疑問を呈した。夜が明けないことに加え、空の調子も昨日から変わる気配がない。
「ああ、極夜も白夜もないというのには僕も同意なんだ。どうやら、この黒ノ平原と呼ばれている場所は蔭合成独立栄養生物の植物を中心とする生態系に見えるなあ。多分、これらは光合成をしないか、したとしても蔭の力で有機物を合成するような反応を主軸にして養分を得ていると思うんだけど、何でかそうなったかと言うと……」
「ずっと夜だからだと」
ヴォルフがもったいぶったので茂蔓が補った。
「うん。少なくとも、結構長い間、光の無い状況が続くんじゃないかって」
これには賛成だ。
「それなら、植物の種数が少ないことも説明できそうだよね」
蔭蔓も付け足した。
「つまりは、暗い環境に適応した数種の草蔭を中心とする生態系が形成されたという考えだけど……」
「そんなところでしょうね」
とあざさ。
「うん、これらを仮説にしよう!」
どうやらヴォルフも賛成のようだ。
だが、いったいこの世界はどうなっているのだろうか。まさか、雲と暗闇に閉ざされているとでもいうのだろうか。
まだまだ謎は山積だったが、この世界の様子も掴めてきたので、早々に出発することになった。