間奏~神那《カンナ》の過去編~1話『5歳の誕生日』
15年前の8月12日 早朝 名もなき離島の我が家にて 神那
この世界には、数々の立ち入ってはならない場所がある。ラルタロスの南部、アミテロス島の南東には、魔獣の海があり、ここには商船、軍隊どころか、一流の魔獣狩りですら近づかない。文字通りの海で、時間を操る海龍が巣くっているという。
けれど、そのさらに南には、無数の名前の無い離島がある。そして、そのすべてが人間の手を逃れ、手付かずの自然を残している。私はその一つにお父さんとお母さん、そして4歳離れた螺久兄さんと4人で住んでいた。
神那はその日、そよ風に乗った杉のかおりと共に目を覚ました。
螺久「おはよう神那。さぁ、魚を取りに行こう!」
螺久兄さんは既に魚釣りの支度を済ませていた。
神那「わぁ、お兄さん早起きねっ!」
一気に目が覚めた。
お母さん「ふはぁあ。いってらっしゃーい・・・。あと少しだけ寝かせて・・・。いやもう一度・・・。」
神那は螺久を追って家を出た。
家は、森の木々に隠れた、藁葺屋根の小さな戸建てだったが、皆で生活するには十分な大きさだった。周囲は杉の森で、辺り一面が、コケやシダに覆われている。螺久兄さんに手を引かれて、神那は森の奥の川へと向かった。
神那「これはなんと言うの?」
螺久「ああ、それはシダ植物のトウゲシバの仲間だよ。それは葉が太いから、オニトウゲシバというものだね。」
神那「へぇ、杉の苗木のようね。」
螺久「慣れれば、わかるようになるよ。ちなみに、これも同じような形をしているけれど、こちらは杉苔。実は、コケ植物なんだよ。」
神那「へぇ~こっちは、オニバっていうんだ・・・。」
その時の神那には、コケとシダの違いなんて分らなかったけれど、名前だけは一生懸命に覚えた。
螺久兄さんは、家の書物で、森の植物を一通り知っていて、その知識を神那に存分に教えてくれた。
杉の森の床を敷き詰める水苔や銭苔の絨毯を超えて、やや急な斜面を下ると、神那が螺久兄さんといつも魚を取っている水辺に到着した。まばらにわた雲のある良く晴れた夏の空で、朝なので森の中でなくてもとても涼しい。
魚釣りというのは、釣りといっても川に泳いでいる魚を素手でとるというものだ。神那はあっという間に7匹捕まえた。
螺久「神那はとっても上手だね。」
神那「えっ!えへへ!!」
神那は、籠に頭を伏せて照れ隠しをした。十数匹の魚を葛で編まれた籠に入れた兄は、ほほ笑みながら神那を褒めた。そう。兄はいつでも良いところ努力したところを見つけては彼女を褒めてくれた。そんな兄を神那は大好きだった。
螺久「今日の分は十分だから、もう帰ろう!」
神那「ええ。」
家に戻ると、二人を母が迎えた。
お母さん「あら。おかえりなさい。今日もたくさん捕れたのね!」
二人が両手で抱えた籠を見ながら、お母さんは笑顔で言った。
螺久「そういえば、今日は何の日かな!?」
神那「お誕生ビィーッ!!!」
そう。今日は8月12日、神那の5歳の誕生日だ。ルンルンしているとすぐにお母さんが洗ってある着物を持ってきてくれた。裏の井戸水で手洗いされている麻の生地は土の香りがしたが、それが我が家の匂いだ。
お母さん「さぁ、頑張って家片付けちゃうわよ。螺久は、神那とお皿洗ってちょうだい!」
井戸の近くの桶に来ていた服を入れると、お兄さんと水を汲んだ。その後二人は一度家に戻って、物置スペースの隅に収納されていた灰を、神那は食堂から食器を取ってきて、洗い物をした。さらに、井戸の奥に広がる野菜畑の水やりを二人で協力して済ませる。そうこうしている間に、お母さんは鮎の塩焼きと、おかゆを調理した。
お母さん「二人ともご飯できたわよ~!」
お母さんに呼ばれて食堂へ向かうと既に、座布団が敷いてあって、背の低い食卓の上には、神那の好物が並べられていた。
皆「いただきまーす!」
そうして朝食にありつく。ここまでが、両星家の朝だ。
日中は、二度寝をしたり、お母さんにお琴を教えてもらったり、海まで行って潮干狩りをしたり、魔法を教えてもらったりしながら過ごす。時には剣術や武術を教えてもらう。今日は、神那が誕生日だったので浜辺へ行って、親子3人海でゆっくりと過ごすことにした。
神那「お母さん。お父さんは、海の向こうにいるの!?」
お母さん「ええ。でももう少ししたら、あそこの岸に小舟で帰ってくるわ!晩御飯には間に合うはずよ!」
神那は海が好きだった。島の外へは出たことがないが、あの向こうにはきっと自分の見たことのない素敵な世界が広がっているに違いないと思っている。海を見るたびに神那は色々なことを考えた。泳ぐのも走るのも得意だったが、浜辺では遊ぶことはせず、ぼんやりと色々なことを考えるのだった。今日も、螺久兄さんが様々な巻貝の貝殻を集めている中、神那はお母さんのお膝の上に座って、海の向こうと空を眺めながらぼんやりとしていた。
神那「お母さん。」
お母さん「なあに!?神那。」
神那「お父さんは魔獣さんと戦っているのよね。」
お母さん「ええ。そうよ。」
神那「魔獣さんは悪いことをしたの?」
神那「あら。神那もそういうこと考えるようになったのね!」
螺久「それは違うんだよっ!!」
いつも冷静な螺久兄さんは、非常に珍しくやや慌てて訂正した。
螺久「神那。魔獣を倒すとお金がもらえるんだ。」
神那「お金!?」
螺久「ああ。お金があれば、神那の大好きな豆大福をたべられるんだ。」
神那「じゃあ、お父さんは私がお大福を食べるために魔獣を倒すの!?」
螺久「うーん。他にもお金があると色々できることがあるんだけど・・・。そう言われると、それも間違っていないなぁ・・・。」
お母さん「神那にはまだ難しいわ。けれどね神那。お父さんは、神那と螺久のために頑張っているのよ。」
神那「えぇーっ!私わかるよぉお母さん!教えてよぉ~~!」
神那は足を少しバタバタさせた。お母さんは神那をくすぐってあやした。
神那「わぁ、かゆいかゆい・・・。」
お母さん「でも今日はきっと、お父さん、神那に豆大福買って来てくれるわ。」
神那「本当!?楽しみだわぁ~~~。」
家に帰って螺久兄さん頼んで、兄さんが去年初めてのお年玉でもらった、お金なるものを見せてもらった。お金は厚紙に折り紙を米粒で張って作った箱の中に入っていた。それは、丸くて平べったくて、川の石のように様々な色をしていたが、神那には隣の宝物箱に入っている貝殻のほうがはるかに素敵に見えてしまう。
神那「外の人は、どうして魔獣さんとこんなのを一緒にするのかなぁ。」
螺久「それは・・・魔獣はね神那・・・。いや、何でもない。それは僕にもよくわからないんだ。」
螺久兄さんは黙り込んでしまったが、神那には気にならなかった。それよりも、貝殻に目を奪われて、今度は螺久兄さんに貝の名前を教えてもらいたくなっていたのだ。
夕方には、お母さんの言った通りに、魔獣狩りで長く島を離れていた父も帰ってきた。2カ月ぶりに4人で食卓を囲めることに神那はとても上機嫌だった。
神那「おとうさんおかえり。」
お父さん「ただいま。」
螺久「ねぇお父さん。新しい曲を覚えたんだ。聞いてよ。」
お父さん「お、それは楽しみだな。」
その後は神那の初めての琴の演奏と、螺久の笛をお父さんに聞かせてあげた。お父さんはあまり表情を変えない人だったけれど、神那には笑顔に見えた。
お母さん「ほーらみんな、ご飯よー。」
今日三度目のお母さんの明るい声が、障子を超えて聞こえてきた。ちょうど、神那は母に教わった琴の新しい曲を、螺久兄さんは独学した笛を父に披露し終えたところだったので、3人は和室の食堂に向かった。朝職と同じく鮎の塩焼きに加えて、海に行った帰りに摘んだ草や畑の野菜でお味噌汁も作ってくれた。お誕生日にと、お父さんが外から買って来てくれたお待ちかねの豆大福も一緒だ。
お父さん「誕生日だから神那は2つだ。」
父は神那の大福を彼女へ渡した。
螺久「別に、欲しかったら僕の分上げるよ!!」
神那「いいの!?でもお兄ちゃんは!?」
螺久「僕は、魚を一匹おかわりするからいーらない!」
神那「わかった・・・。ありがとう、お兄ちゃん!」
お母さん「あらあら、螺久は優しいのだから。」
間違いなく今日は人生最高の日の一つになるに違いない。慎ましくも幸せな5年間、それが神那の始まりだった。何も知らなかった最初の五年。
———そして、事実あの誕生日は今のところ私の生きた中で最も幸せな一日だった気がする———。