1章24話『瞳の奥1』
6月5日 午後6時半頃 ラルタロス魔法学校敷地内モンカフェ周辺にて 蔭蔓
帰りは神那と待ち合わせていており、蔭蔓はモンカフェに向かっていた
それにしても、遠い。
仕事を数分でこなし、片っ端から怪しい本を調べ始めたが、獲物は尻尾を見せる気配すらない。
おまけに雨も降ってきたので、
はぁ———。
と大きくため息をついて、鈴色の雨傘をさした。
※鈴色 ・・・ 鼠色の一つ。
「魔術書が盗まれた。」
チャーリー司書はそういった。それはおそらく、あの春分の日の事件で黒ローブが魔術書を盗んだということだ。いや、黒ローブの一味が、と言うべきか。
それならいったい、盗まれた魔術書はどんなものなのだろう?
そこで初めて、盗まれた魔術書について何も知らないことに気づいた。
何の魔術について記されていたのか。盗まれたのは一冊なのか複数冊か。どれくらいの知名度だったのか。そもそも本当に魔術書だったかすら知らない。
そう。何も知らない。
それに、カイエンが古魔術書の研究者であったことを知った今、カイエンとの関連の有無も気になるところだ。カイエンが盗まれた魔術書について何か知っていたとしても驚くことではないし、むしろ、無関係だというほうが難しいかもしれない。
だからといって、仮にカイエンに質問しても、教えてくれる気がしないけど・・・。
加えて、その本が盗まれた目的もよくわからない。
あの襲撃自体の目的が魔術書の窃盗だったとすると、大規模な事件にした理由がないし、魔法学校を襲った組織の一部が個人的に盗んだならば、もはや、動機を特定できない。それどころか、全くの部外者が混乱に乗じて盗んだ可能性だって否定はできない。
もし、本当にニワトリの言うように黒ローブが闇魔法の魔法使いなら、盗まれたのは闇魔法の魔術書だった可能性はある程度高いだろう。闇魔法という言葉自体、随分カクレンボが得意なことはこの1カ月の調査を経て、身に染みてい感じている。
それでも結局、黒ローブが、何を思って盗んだかなんてわかるわけがない。あいつは、蛇のように何を考えているか、何をし出すかわからない奴だ。
見上げると、魔物部の建築物群が視界に写った。あと少しで、モンカフェだ。傘をたたみ、モンカフェへの通路を進む。
神那は壁際の席に座っており、なにやら、ノートか何かを広げて作業をしている。モンカフェには他にも、数十名の学生が散在しており、勉強しているものも、青春を謳歌しているものもいる。雨のなか、ご苦労なことだ。
蔭蔓「———お待たせ———。」
今日の、神那は、襟に着物のような切れ込みの入った薄いバニラ色のシャツに、暗い藍色のズボンを着て、半袖の黒い羽織で閉めていた。羽織には襟の部分にフードがあり、袖は先に向かってラッパのように広がっていて、その黒色は彼女の漆黒の髪の色にもよく似合っている。
神那「あっ、蔭蔓っ。」
そういうと神那は広げていた自分の伝達帳を手早くしまい、片づけの準備に取り掛かった。
蔭蔓「どうしたの?」
神那は、一瞬、「身体から植物生えてるよ。」とでもいいたそうに、神妙な顔つきで蔭蔓を凝視した。一応、手で触って確認したが、別にもじゃもじゃした感触はない。
神那「いや・・・雨、降ってるんだなって。」
神那の席は壁際で、立ち上がらないと外の様子は見えなさそうだ。蔭蔓ときたら、傘をさしても、腰丈まで雨の跡だらけ。ただ、悪いのは雨ではなく蔭蔓だ。
蔭蔓「まぁ、祈っても無駄でしょこの天気。」
雨の日は嫌いじゃないし、苦痛じゃない。恵みの雨だ。羊歯が育つには、大量の水が必要だ。雨の中、帰宅しなければならないことが苦痛なのだ。
神那「そうだね—。」
神那はそういうと、鞄から彼女の髪の漆黒によく似た色の折り畳み傘を取り出し、立ち上がった。
神那「帰ろうか。」
二人はモンカフェを離れ、寮に向かって歩き始めた。蔭蔓は再び傘をさし、街の景色に目をやった。
雨の日の夜のラルタロスには独特な風情があった。多くの建造物を形成している樹木の根の絡まりには、夜になるとぼんやりと発光する部分が随所にあり、そこで生じるわずかな熱で蒸発した水分が、そのまま薄緑色に照らされて、無数の夜光虫が空を舞っているようである。
蔭蔓「雨の街も中々いいよね。」
思わず口から言葉がもれた。
神那「蔭蔓もこういうの好きそうだよね。」
実は、このような話題は神那も好みのようなので、しばらくふたりで情緒ある景色を楽しんだ。
そうこうしているうちに、街を抜け森に入った。羊歯樹林は蔭蔓にとって、街よりはるかに興味深いが、二人で話せることがあまりないので、魔獣狩りのことや今日あったことを話して帰ることにした。
ところで、最近帰り道では、目視で小さな色蛇を確認できる。
蔭蔓「最近、魔獣、多いよね。」
神那「そういえば、先週末、セットがまた一つ壊滅したって今日聞いたわ。原因は紫色の色蛇の毒だったみたい。」
神那は思い出すように言った。
蔭蔓「そうなんだ・・・。」
つまり、魔物部はすでに70人を切ったことになる。魔物部に人気がないのも仕方ない。
いつのまにか俺は、そんな集団の中にいるのか。
神那「ねぇ、蔭蔓。」
ある時、神那は呼びかけた。気づくと、神那は肩と肩に拳一つはいるか入らないかぐらい近づいていた。
神那「目を閉じて—。」
神那はそういうと、後ろへまわり左手で蔭蔓の目を覆った。突然の出来事だったので、あえて閉じないでみようという反骨精神を発揮する間もなく、やや反射的に目を閉じる。
すると彼女は左手をそのままに蔭蔓にもたれた。彼女の胸部が背中に触れて、急にその辺りから全身が熱くなった。
急に何だってんだ。
恥ずかしくなって叫びたくなったがまさか叫ぶわけにいかないので、そのぶんさらに目を強く閉じた。
神那はそのままよりかかった。こんなことは初めてでどうすればいいかわからなくて蔭蔓は身動きが取れなくなった。
蔭蔓「ちょっ、と、なにハッ!おいっ!」
どもってしまってそう言うのが精いっぱいだ。
神那「はい、そのままね。」
彼女の優しい声に蔭蔓は一瞬で悩殺された。呼吸もろくにできないくらいに・・・。
次の瞬間、辺りが真っ白に光った。おそらく、神那の魔法だ。ようやく蔭蔓は状況を理解し始めた。それから3秒程度経つと、
神那「もういいよ。」
と言って、神那は何事もなかったかのように元の位置に戻った。
しばらくは水蒸気で何も見えなかったが、靄が晴れてから辺りを見回した。
すると、前方には焼きついた地面が広がり、足元には、蔭蔓の頭部の大きさほどある焼け焦げたクリーム色の色蛇の頭部が、胴部を完全に焼失してぐったりしている。
これに似た光景は既に幾度となく見てきたが、毎度のこととはいえ神那の魔法の威力は凄まじく、それはもう同じ人間とは思えないほどだ。
もちろん、彼女には感心した。けれども、敵に気づかず、しかも、赤くなっていただけの自分覚えた罪悪感と自己嫌悪の方が大きい。
蔭蔓「気づかなかった。どうも。」
蔭蔓はできるだけドライにお礼を言った。
ただ、組手でもないのにうしろから神那に迫られて、平常心でいられる方がどうかしていると思う。
というか、とりあえず、落ち着け俺っ!!
蔭蔓は、色蛇に注意を引き戻した。頭部だけでも街に持って行けば売り物にはなるが、売るには焼けすぎているのでこの個体はリリースした。
散歩に戻るかのように神那は再び歩き出した。
けれど、数歩進むと神那は途中で急に振り返って、透き通った眼光を蔭蔓に向けた。
神那「わたしの光は、ラルタロスの街の光とも、この道の街灯とも違って・・・。」
今度は足元に転がった、クリーム色の頭部を見下ろし、
神那「何でも、焼き尽くしてしまうからさ———。」
と、ゆっくりつぶやいた。
そして、神那は顔を上げるも蔭蔓は見ないで、
神那「わたしって、何かを壊すことしかできないのかな———。」
独り言のように問いかけた。そのとき、彼女の眼が少し潤んでいるのが見えた。
神那が傘を握りなおした拍子に、蔭蔓の傘に彼女の傘が当たって、彼女の傘から雨の雫が蔭蔓の頬に飛んできた。
穏やかでめったのことでは取り乱さない神那だったので、ときおり感傷的になる彼女を適当にあしらうことはしなかった。
だから、「鉄板の下から放てば、おいしいアンパンが焼けるかもよ。」という提案はせず、「加減を怠ったのは自分でしょうが。」と切り捨てもせず、「何かあったの?」とだけ尋ねた。
そういえば、神那はしばしば、自分のことを聞かれると怒った猫のように非常に攻撃的になるのだった。
だから、「もしそうなら・・・、良かったら、相談乗るけど・・・。」と付け足した。