1章23話『チャーリーとカイエン』
6月5日 午後4時半頃 ラルタロス魔法学校校内にて 蔭蔓
附属図書館は、植物魔法研究会のあるサークル棟から離れた文学部校舎の正面にある。両者の距離は500mぐらいだ。これからこの道を週2回は往復しないといけないと思うと身の毛がよだつ。
あと、近頃ラルタロスが梅雨入りした。今は曇天だが、帰りは恐らく雨。雨のなか何キロもの道のりを寮まで帰ることになると思うと、足が地面に飲み込まれる思いだ。
とある図書館司書の司書室に呼び出されているのだが、目的地はもはや無限の彼方にあるように思われた。
しかし、附属図書館の入り口をくぐってからは、黒ローブに関して何かわかるかもしれないという期待感で蔭蔓は司書室まで速足で向かった。
蔭蔓「失礼します。」
司書室の中にいらしたのは一人のおじいちゃんだった。この図書館には16人の司書がいるらしいが、アルバイトの蔭蔓の面倒をみてくださることになったのは、このおじいちゃんということになる。
蔭蔓「本日からアルバイトの日陰蔭蔓と申します。よろしくお願いします。」
おじいちゃんの司書は臙脂色をさらに暗くしたようなウィザードローブに身を包んでいた。カールの白髪に白い髭の特徴的な老人で、ふくよかな顔立ちだ。ただ、茶色い大きな丸渕眼鏡をしており、頭頂部は薄い。
チャーリー司書「えーっと、アルバイトの日陰君だね。よろしく。私が司書のチャーリー。確かー、君の業務内容は・・・。」
チャーリー司書は、蔭蔓の業務内容を調べる気はないらしく、読んでいた本の文字を延々と追っている。
蔭蔓「書庫の整理を中心にと聞いていましたが・・・。」
チャーリーはこれを聞くと、読書を一時中断し、なにか閃いたときのように宙を凝視したかと思えば、「―んっ、そうだね。いかにもだっ。」と大きく頷いて、読書に戻った。
採用された通知を得た後、採用担当者にどのような業務につきたいか聞かれたので、書庫の整理を希望したところ、力仕事で人気がないらしく、すんなり許諾していただけたわけである。
チャーリー司書「あっ、いざとなったら、受付も頼からね。」
チャーリーは思い出したかのように顔を上げ、目を丸くし比較的真剣な顔つきで言った。残念ながら、いざとなったら、受付で接客を頼まれるらしい。これが、アルバイトの宿命だろうか。
たくさんの見知らぬ人の本の貸し借りの手続きを行うなんて苦行でなくてなんだというのか。
蔭蔓「あーあっ、畏まりました。」
本心を隠せずに虚ろな調子になった。心のなかでため息をついた。
チャーリー司書「ところで、アミテロス魔法学校出身だとか?」
蔭蔓「・・・そうですね。」
チャーリー司書「この事件はあまり公にはされていないみたいだけどねえ、春に前部の施設が襲撃されたと聞いたよ。とても残念だ。けれど、君は生きていたよかったね。」
そういうと、また読書を再開した。
あの事件についてどう思うかといえば、正直、残念だというよりも、あの襲撃を生き延びられてよかったという気持ちが強いのが事実だ。深い人間関係にあった魔法使いの犠牲者がでなかったことも影響してはいるだろう。
蔭蔓「僕も、残念でした。」
司書はそのまま深く頷くと、続けて。
チャーリー司書「初年度からいた学生かい。」
と尋ねた。
蔭蔓「・・・そうですよ。」
このおじいさん詳しいな。
チャーリー司書「では、カイエン和尚を知っているね。」
続けて司書は尋ねた。
蔭蔓「ええ、知っています。」
知っているどころか、彼の説教を耳たこができるほど聞かされているのである。
最も、体だけ聞く体勢にして頭は思索にふけるすべを、徹底的に身に付けている俺には無関係だが。
それに、別に初年度からいた学生じゃなくても、カイエンはアミテロス魔法学校の学生なら誰でもよく知っている人物だ。数いる和尚様の中でも、一番懇意に学生の面倒を見ていたのはカイエンだった。
チャーリー司書「カイエンとは長い付き合いでね。終戦の年、共に君たちのようなネイチャーをラルタロスやクルカロスから保護したなかだ。彼は子供たちと、アミテロス魔法学校の設立とともに移籍したが、それまではラルタロス魔法学校に職を持っていたんだよ。」
思いもよらない所から、カイエンのルーツを知ることになった。いつも経を読んでばかりいるカイエンがもとはここにいた人物とは。
ちなみに、クルカロスとはラルタロスと陸続きの隣国である。
蔭蔓「チャーリー司書って、アミテロス魔学関係者なのですか。」
カイエンのことを親しげに語るチャーリー司書は、アミテロス魔法学校ゆかりの人物なのかもしれない。だとすれば、蔭蔓がアミテロス魔法学校出身だと知って興味を持ったとしても自然だ。
チャーリー司書「いや、私が保護した子らのほとんどがあの島に引き取られたというだけだよ。ただ、そういうこともあって、アミテロス出身の子がここに来たときは、できるだけ面倒を見ているんだ。アミテロスの子供たちがどんなふうに育ったか、ちょっと気になるでしょ?」
チャーリー司書もまた、アミテロスの皆の恩人ということになる。
蔭蔓「保護していただいたことは、感謝しても、し足りません。あの時のことは、今でも、鮮明に覚えています。」
蔭蔓を保護したのはチャーリー司書ではないが感謝の意を示した。当時はまだ幼くて、人ひとりを保護して育てる労力の大きさも、そのひとりとして育てられることのありがたみもわからなかった。
蔭蔓、将器はカイエンに保護され、アミテロス魔法学校に引き取られた。あずさを保護したのもカイエンだ。カイエンは、いつもはただの話の長いおじいちゃんだが、実は、3人の直接の命の恩人の一人だったりする。
蔭蔓と将器を保護してくれたことには、心から感謝している。おかげで、魔獣の腸に保護されずに済んだからだ。
まっすぐ立っていて疲れたので、地面にかかとを押し付けて血行を促そうとした。チャーリー司書は蔭蔓の動きに鋭く反応し、席に着くように促し、蔭蔓はそれに応えた。
蔭蔓「お二方とも、当時何をされていたのですか。」
チャーリー司書「私はここ南部ラルタロスから西部ラルタロス、カイエンはラルタロス西部からクルカロスにかけてネイチャーを探しては保護していたんだ。」
カイエンには、隣国クルカロスのリプロスという都市の近くで将器とともに、保護された。矛盾はない。
チャーリー司書「私たちは、元は古魔術書が専門の研究者でね。カイエンは当時も、いくつかの古い魔術書を探していたようだったよ。最も、研究は行き詰っていたようすだったけど・・・。」
司書は一息ついた。
チャーリー司書「そういえば、カイエンのやつ春の事件で何冊かの魔術書が盗まれたといってたような。」
蔭蔓「魔術書が、盗まれた?」
チャーリー司書「君は知らないのか。ならばひょっとするとこれは、あまり言ないほうがよかったか・・・。」
確かに、事件自体が伏せられているのなら、その内実はさらに伏せられているのが普通だろう。
蔭蔓「そうかもしれません。」
司書はしばらく考え込むと、今度は急に笑い出した。
チャーリー司書「蔭蔓君か。それじゃ、君も何か秘密を私に教えた前よ。それで、お相子だろ。ほら、君が思いを寄せている人物の名前でも教えてくれたまえ。」
チャーリー司書が、髭でみえないものの、ニカーっと笑っているのがよく分かる。
蔭蔓「どうしてよりによって僕の恋愛話なのですか。」
頬が熱くなり、思わず目をそらした。
というか、機密事項の対価安すぎだろう。
チャーリー司書「何を言う。好奇心はすべての発見の母だよ。」
仮にそうだとしても、人の恋愛について、天才的発見をされても困る。それにもとはといえば、チャーリー司書が秘密を秘密とも知らず俺に言ったのが問題でしょ?
蔭蔓「司書様。誰にも言いませんから安心してください。それに、別に思いを寄せている人物なんていませんから。」
頭を掻き撫でた。それを見たチャーリー司書は「ほほほっ。」と笑った。
そうだよね!?いないよね!?
その後、司書チャーリーとの歓談を終え、今度は丁寧に職務内容について一通りの説明を受けると書庫に案内された。ちなみに、本日の業務はカートに入った数十冊の資料をもとの場所に戻すこと。
書庫は、現代的なデザインで統一された本館とは異なり、可能な限り効率的に書物が詰め込まれているようだ。
書庫の一部屋一部屋はほとんど立方体の横長な直方体で、床から細い植物の根が絡み合って、高さ5mを超える黒ずんだ本棚を等間隔で複数個形成している。
壁面はより太い直径10cm程度の根が絡み合ってできている。書庫の広さは30m四方程度なので、この部屋だけで相当な書物が眠っていることになる。
既に、附属図書館の一般公開の図書はすべて、5月を投じて、調べつくしており、恐らく闇魔法に関する本などというものはないことが分かった。
次に蔭蔓が目を付けたのは、閲覧は可能だが逐一受付で閲覧申請をしなければ閲覧できない書物群だった。それらは、附属図書館関係者のみ立ち入り可能なこの書庫に眠っている。
そして、アルバイトなら閲覧許可を取らずとも閲覧できるというわけだ。
さて、早速調査を始めよう。