1章22話『長期探検課題』
6月5日 午後4時頃 植物魔法研究会、地上階研究室2号室にて 蔭蔓
神那は正しかった。5月25日にあずさが襲われて以来、10mを超えるサイズの魔獣と帰り道にたびたび出くわした。集団行動をとっていたおかげで、何度か怪我はしたが、致命的な事態に陥ることはなく、今日も楽しい魔獣狩り生活を送っている。
魔物部で取り上げられた時事問題の調査によれば、これも色蛇の大量発生が原因だということだ。これに伴い結界石の需要も上昇しているらしい。
結界石の買い占めは、この状況を見越した目利きが行ったというだけの話なのかもしれない。
このまま魔獣が増えていき、万一、結界石不足になったら魔獣狩りできないし、できなかったら金稼げないし・・・。うーん、安いうちに買いだめしておくか、みたいな。
でも、買い占めできるってことは、金にある程度余裕あるからだよなあ・・・あれ?
おっと、今日は忙しい日だった。あんまりゆっくりしていられない・・・。
今日の放課後、蔭蔓はまず、孔芽とともに植物魔法研究会の所有する地上階研究室2号室に向かった。
壁面には、いくつかのガラス窓枠が埋まっており、古風なデザインながらも使い心地の良い部屋だ。
2号室は標準的な教室ぐらいの大きさで、入り口から入ってすぐに荷物を置くための2m四方の古い木製の机があり、奥には作業用の長い黒色の机が、部屋の中央部と壁沿いに計2台ある。
そのほか両サイドの壁際には機器類が設置されている。
5月から蔭蔓と孔芽の2号室での活動は、ラルタロスの土地と二人の体それぞれに生える同じ種のシダ植物を胞子から発芽させて育てることだった。
蔭蔓は日陰蔓、孔芽は孔雀羊歯、そして、工藤先輩の依頼を受けて、松葉蘭の観察も行っている。
観察を理由に、2人はこの部屋を貸し切ることができた。
研究とはいったものの、実体はただの趣味だし、それでよいし、そのために始めたのだが、天然の植物体と体に生える植物体の性質の違いを調べるという真面目な目的も一応ある。
その作業を始めてはや1カ月が過ぎ、学校生活が始まってからはや2カ月が過ぎた。
蔭蔓「慣れたな。」
蔭蔓は成長した日陰蔓の胞子体の一部を苗に移しながらつぶやいた。
孔芽「慣れたね。」
孔芽は目を机に向けたまま、孔雀羊歯の前葉体の顕微鏡観察を続けた。
この2カ月で様々なことに慣れてしまった。魔物狩りと学生を兼任する激しさに慣れてしまった。恐ろしい魔獣と死闘を繰り広げる恐怖にも慣れてしまった。植物の管理にも慣れてしまった。自分たちの生活の異常さを無視して、ただ毎日を生きることにも慣れてしまった。
いや、むしろ、そうしておくことができるようになったというべきか。
孔芽「蔓は育った?」
すべてのサンプルの整理が終わった孔芽は、新たな関心事が欲しくなったらしい。
蔭蔓「半分ぐらいは。胞子体もちらほら。」
これは結構順調な経過。魔法なしで胞子から羊歯を育てようとすると、どこかのタイミングで枯れるのが常。水をやりすぎても枯れる。光が強すぎても弱すぎても枯れる。気温が低いと枯れる等々。ここまでできるのは、長年の修行の成果なのである。
この時間は、忙しく、苦痛の多い魔獣狩りの生活の中の数少ない憩いのひと時なのだ。
工藤先輩「おっす、2人とも元気。」
いつも通りの明るく快活な様子で工藤先輩は入室してきた。今日は、工藤先輩と同学年の蕗野仁之先輩と一緒だった。
孔芽「あ、こんちは。」
蕗野先輩は、工藤先輩と同じ3年生の、魔物部の魔獣理学科の先輩である。蔭蔓や孔芽より少し背が高く、茶髪に深緑の瞳、優しく気さくな笑顔が特徴的だ。
特技はカルスの魔法で、身体から植物のカルスを瞬時に大量生成できる。工藤先輩によれば、カルスはコケ植物由来ということだ。
蔭蔓「どうもです。」
何やら盛り上がっている2人に、孔芽は
孔芽「先輩。何の話ですか。」
と尋ねた。
工藤先輩「あぁっ・・。2人は知っているよね!?魔物部の長期探検課題。」
蔭蔓「えぇっ?」
シャーレを整理する手を思わず止めた。長期探検課題という名前はどこかで聞いた記憶がある。
確か、あずさと将器が言っていたような・・・。でも、興味なくて聞き流したんだよな・・・。
蔭蔓「なんか後期に数カ月間旅行に行くってやつでしたっけ。」
頭に過ったイメージを何とか言葉に変えてみた。
工藤先輩「旅行か・・・。まぁ、確かにセットによってはそうなのかもね。仁の場合は武者修行って感じだったけど・・・。」
蔭蔓「うわぁ・・・。」
また、だるそうなのが・・・。
孔芽「実際に魔獣狩りとして依頼を受けて、それをセットの名義で解決し、報告書を提出する。依頼といっても、日常的な魔獣狩りではなくて、達成に数カ月を要し、地方に下ったり、あるいは外国に向かったりするといった依頼を引き受けなければならない、ですよね。」
突然しゃべり始めたと思いきや、格率を読み上げるような孔芽に蔭蔓は感心してしまった。
蔭蔓「へぇー、詳しいなぁ。」
長期休暇旅行ではないことがわかると、からだの力が抜けてしまった。
孔芽「めちゃくちゃ楽しみにしている奴がいて、毎晩のように聞かされるから・・・。」
孔芽が少し赤い目をこする。
お疲れ様です。わかるよそのシチュエーション。
蔭蔓は将器を思い浮かべた。ちなみに、セットに熱狂的な魔獣狩りがいる場合、就寝前に魔獣狩りの講義が入らない日を探すのは残念ながら難しい。
孔芽「蕗野先輩はどうだったんですか。去年とか。」
すると、蕗野先輩は小さく笑って、
蕗野先輩「ちょうど話してたんだけど、去年はあんまり遠方の依頼を取れなくて、北部の森の魔獣の退治をひたすらしてたんだよね。一昨年は、西の方に行ったけど。」
ラルタロス北部の森といえば、「入るな!」とこっぴどく言われている場所だ。ラルタロス市街とは山を隔てた内陸の森林であり、狩場にしている西の森とは魔獣のレベルが段違いらしい。
蔭蔓「そういえば、北の森に入った新1年のセットの1つが壊滅したって。」
蕗野先輩「ああ、例の1人を除いて全員丸呑みされたっていう事件ね。聞いたよ。可哀想だよね。でもあそこは、経験を積んでから入ったほうがいい。魔獣のサイズも大きいし種類も多いからさ。」
そこを狩場にしていたという先輩は言った。事件の話を聞いたときは驚きのあまり、眠れなかったほどで、今聞いても鳥肌が立つが、蕗野先輩は気持ち悪いほど落ち着いている。
こういうことにもいずれ、“慣れてしまう”のだろうか。
蔭蔓「気を付けますね。」
とは言ったものの、色蛇の顔を見るのも嫌なのに、そもそも誰が行くっての?
蔭蔓「話戻るけど、依頼ってだれからもらうの?」
残念ながら、蔭蔓には異国の知り合いはいない。というか、持ち前の内向性のため、魔法学校内でも知り合いはほとんどいない。
孔芽「それは・・・。」
孔芽が急に畏まった。
工藤先輩「コネ。だから、仁とは仲良くしとくことね。」
工藤先輩がテーブルから降りて代わりに答える。
なるほど、つくづく入部して置いてよかった・・・。
蕗野先輩「ま、何かしらネタがあったら持ってくるから、心配しなくていいよ。」
蕗野先輩はフフフッと微笑した。
蔭蔓「あ、ありがとうございます。」
長期武者修行課題も困るが進級できないともっと困るので、素直に感謝の気持ちを述べた。
工藤先輩「で、進捗は?」
工藤先輩も蔭蔓と孔芽の“趣味”には関心があり、蔭蔓及び孔芽は随時、経過を伝えていた。孔芽は一通りのことを先輩殿に伝達した。
工藤先輩「魔法のほうは、上達した?」
孔芽「3~5mなら一撃で、胞子崩壊できるようになりました。」
自分もそのぐらいだったので、「僕もです。」と頷いた。
工藤先輩「中々やるじゃない。」
孔芽「まぁ、ほぼ毎回、同じようなことの繰り返しですから。」
孔芽は謙遜しながら照れている。
さて、作業もひと段落ついたので、そろそろ場所を移動しようか。
蔭蔓「そういえば、先輩はなんでわざわざ2号室まで来たんですか。」
工藤先輩「いや、かわいい後輩たちにカルス化の魔法でも教えてあげようかと思って。」
そういうと工藤先輩は手にいっぱい松葉蘭を生やした後、全てを透明なカルスに変化させた。
なるほど、それで蕗野先輩も、出陣していたわけか。
魔法を教えてもらえるのは嬉しいけれど、今日は、練習を見てもらう時間がない。
蔭蔓「そうですか・・・。申し訳ないのですが、実は予定がありまして・・・。」
作業台に寄りかかるのをやめ、少し恰好を正す。
工藤先輩「何?どんな?」
工藤先輩は流しに向かうと、カルスは水のようになって流れ、先輩は手を洗い始めた。
蔭蔓「アルバイトはじめたんです。」
すると、工藤先輩は小さく笑った。
工藤先輩「驚いた。どういう風の吹きまわしかな、あんなに嫌がっていたのに。」
確かに、蔭蔓も自分の口から出ている言葉に驚嘆するほかなかった。
蔭蔓「本業だけだと、中々厳しくて・・・。」
これは事実だけど、アルバイトを始めた理由ではない。
蕗野先輩「俺も1年のときは大変だったなぁ~。」
蕗野先輩は目を細め、しばし回想に入った模様。
孔芽「一年あるある。」
工藤先輩「で、どんなアルバイトなの?」
蔭蔓「附属図書館で、本の整理です。毎週火金ですけど、今週は初めてなので特別なんです。」
アルバイトを始めたのは当然、カメレオンの主張を検証したたかったから。
工藤先輩「蔭蔓君は仕方ないわね。孔芽君は?」
少し工藤先輩はがっかりしていた。
孔芽「僕は予定ないですよぉ。」
孔芽は元気そうに言った。
工藤先輩「じゃあ、先に教えてあげよう。今日はスペシャリストもいることだし。」
蔭蔓「え、何それっ!」
別に、孔芽に先を越されようが何ともないはずだが、蔭蔓の口が勝手に声を上げた。
孔芽はガッツポーズを見せつけてきた。特に理由もないものの、何となくわずかに体が重くなるように感じたので、仕返しに、背筋を正して、孔芽にピースのポーズを返した。
蔭蔓「僕もそろそろ、行きますね。」
先輩2人を含んだ3人の前で奇行に走った自分を憐れんで、せめてこの場から退場させてやろうということになり、3人に挨拶し、2号室を後にした。
ひと月かかったものの、附属図書館のアルバイトにありつけたのは運が良かった。採用されたのは、あずさによれば、「蔭蔓は外見からして、危険に思えないからね。」ということらしい。
これって、誉め言葉だよね、ですよね!?
もし、カメレオンの主張が真実なら、ニワトリがいっていた、闇魔法について何かわかるかもしれない。
同じ場所に、何度も同じ格好で行くのは良くないと考えて、あれ以来マスクカフェにはいっていない。そもそも、仮に行く気を起こしても集団行動の縛りがあったので行くのが難しかった。
停滞しつつあった黒ローブ調査の突破口があるかもしれないという期待とともに、蔭蔓は付属図書館へ向かった。