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冒険者になりたいと都に出て行った娘がSランクになってた 作者:門司柿家

帰って来た娘

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二十六.寝床から飛び出して来たような格好で


 寝床から飛び出して来たような格好である。髪の毛は束ねてこそあるが、少し寝癖になったように波打っている。ずっと着ている簡素なドレスも、眠っていたせいか所々皺になっていた。
 アンジェリンは目を細めてとんとんと踵で地面を蹴った。それからくいくいと肩を回す。体の感触を確かめるような振る舞いだ。

 ビャクの魔法が今にもサーシャたちに到達しようとした時、脇から飛ぶように現れたアンジェリンが、それを蹴り飛ばした。
 巨大な魔力の塊はボールのように明後日の方向に飛んで行き、溶けるように消えた。見た者たちは呆気に取られて言葉を失った。

 アンジェリンは傷ついたサーシャたちを見て眉をひそめた。

「友達をいじめやがって……」

 ビャクは不機嫌そうに顔をしかめた。

「テメェか……」
「ん」

 アンジェリンは少し怒ったような顔でビャクを見た。くるくると挑発するように剣を回した。

「……お姉ちゃんも混ぜろ」
「抜かせ……」

 ビャクは地面を蹴った。同時に腕を振るう。見えない魔法が蜃気楼のように揺らめいてアンジェリンに襲い掛かった。
 しかしアンジェリンはちっとも動じない。ふらふらと夢遊病患者のような足取りで、しかし、ビャクの魔法をすべてかわすか、剣で打ち払ってしまう。透明な筈なのに、全部見えているといったような動きである。
 地面は魔法でえぐられて穴だらけだ。

「ふん……」

 肉薄して掌底を撃ち出そうとしたビャクを、アンジェリンは詰まらなそうな表情で蹴り飛ばした。
 半透明の幾何学模様が直撃を阻んだが、それでも勢いそのままにビャクは後方に弾かれた。

「なんか調子良い……なにゆえ?」

 眠っている時に悪夢を見たような気がする。闇の向こうで、自分を呼ぶ声がする。それから次第に闇が質量を持って自分を絡めとり、より深い方に引きずり込もうとする、そんな夢だった。
 だが、ふとやって来た温かな手の感触に闇は遠ざかり、それから不思議な森の匂いで悪夢は完全に吹き払われた。
 それからはとてもぐっすりと眠っていた気がする。

 それがどうしてか突然目が覚めた。
 何かとても嫌な予感に身を震わせて、居ても立ってもいられなくなった。何かに呼ばれているようでもあった。
 だから剣を取って、そのまま屋敷の外に駆け出したのだ。
 確か部屋にはお父さんと、アーネとミリィと……と、そこまで考えた時に再びビャクの魔法が飛んで来た。アンジェリンはそれを剣で弾き飛ばす。

「考え事してるんだ……邪魔するなよ」
「……舐めやがって」

 ビャクは、どん、と足を踏み鳴らした。
 途端、周囲に砂色に明滅する幾何学模様で出来た立体が幾つも浮かび上がった。球体が多いが、三角形や四角形、それ以上の角を持つものもある。模様は生き物のように絶えず形を変えてぐねぐねと動いている。球体の発する淡い光で、ビャクとその周囲の地面が淡く照らされた。エルモアが驚いたように目を細めた。

「立体魔法陣……そうか、魔弾にしてはおかしいと思っていたら……」

 アンジェリンはフンと鼻を鳴らした。

「上等な手品……それだけ?」
「……仕上げを御覧じろ」

 ビャクは腕を振った。立体は勢いよくアンジェリンに向かって飛んで来た。
 アンジェリンは剣を振るってそれを打ち払う。しかしさっきの見えない魔法よりも重い。透明化を解いた事で威力が上がったのだろうか?
 大小の立体はビャクを中心に公転している。数を増し、さながら太陽の周りを回る惑星のようだ。

 立体魔法陣は高位の魔法だ。
 魔力の維持、形の維持、力の発揚、術者の意思によるコントロール、などの術式を幾つも重ねて作られる。
 質量を与える事も可能で、剣や矢も防ぐ事が出来るし、相手にぶつければ攻撃にもなる。
 魔術式自動障壁の術式を組み込めば、術者に対する敵意や力に反応し、自動で防御させるようにも出来る。
 その上ビャクは透明化まで組み込んでいる。
 これだけの数の術式を立体的に、しかも矛盾なく組み上げるのは至難の業だ。

 だが、アンジェリンはそんな事には興味がない。眼前の敵は倒すのみだ。
 アンジェリンは駆け出した。
 ビャクは慌てた様子もなく腕を振る。
 立体魔法陣が次々とアンジェリンに襲い掛かったが、アンジェリンは小さな動きでかわし、剣で払った。ビャクの腕の動きを見ていれば、どの方向から来るか分かる。

 だが、そう思っていた時、後頭部に殴られたような衝撃が来た。
 立体魔法陣が一つ、腕の動きとまるで関係なしにアンジェリンの後頭部を打った。
 一瞬視界がぐらつく。しかし考える間に体は動き、素早く地面を蹴って距離を取った。

 どうやら、腕の動きとは無関係に動く立体もあるらしい。
 腕と連動している、と思わせて不意を突く攻撃か、とアンジェリンは顔をしかめて頭の後ろを撫で、ビャクを睨みつけた。

「小細工が必要なら……お前はわたしより弱いって事だ」
「ふん……」

 ビャクは相変わらずの無表情だ。しかし、時折口の端や目じりが小刻みに動く。何かを必死に押さえているように思えた。
 不思議と、頭の後ろの痛みはすぐに引いた。体の調子が良いだけでなく、治癒力まで高まっているように感じる。寝ている間に何があったのだろう。

「うむ……多分お父さんの愛情パワーだな……」

 どういう思考の変遷があったか分からないが、アンジェリンはそう結論付けた。
 そうと分かれば俄然力が湧いて来る。余計な事を考えるのはやめだ。

「行くぞ……」

 陽炎のようにアンジェリンの姿が揺らめいた。ビャクが反応するよりも早く、アンジェリンの蹴りが腹に突き刺さった。

「が……ッ!?」

 自動防御も間に合わないほどの速度だ。肺から空気が逃げ出し、胸が詰まったようにビャクは苦悶の表情を浮かべた。
 さらにアンジェリンは剣の柄でビャクの肩を殴りつけた。骨の折れる感触がした。

 ビャクは顔を歪めながらもアンジェリンの腕を掴んだ。
 周囲を回っていた立体魔法陣が一斉にアンジェリンへと襲い掛かる。
 しかしアンジェリンは逆に腕を引いてビャクを引き倒すと、思い切り蹴り飛ばした。ビャクは地面をバウンドして転がった。アンジェリンはその後を追う。立体は地面をえぐって穴を作った。

「ぐ……」

 立ち上がろうとするビャクの背中を、アンジェリンは踏み付けた。

「聞きたい事がある……お前は何なんだ? 何が目的だ?」
「……それはこっちの台詞だ。テメェこそ何だ」
「わたしはアンジェリン……“赤鬼”ベルグリフの娘」

 それを聞いたビャクの顔が怒りに歪んだ。

「何が娘だ…………! ふざケるンじぇねエ!」

 グキン、と嫌な音がしてビャクの肌が波立った。折れた筈の肩の骨が無理につながって行くように動く。
 ビャクはアンジェリンを振り払い立ち上がった。無表情だった顔に明らかな感情が渦巻き、目には狂気の炎が宿った。

「どウしてテメェばッカり!」
「……? 何を言ってる?」

 ビャクは獣のような俊敏さで飛びかかって来た。手が黒い異形のものに変わっている。鋭い爪が襲い掛かって来た。アンジェリンは剣で受け止める。

「なんだお前……人間じゃないの?」

 ビャクは答えずに攻撃を続ける。しかし頭に血が上っているのか、動きは早いががむしゃらで荒い。
 アンジェリンはしばらくいなしていたが、やがて諦めたように剣を振るった。ビャクの肩口から袈裟に剣閃が走った。

「グッ――――!?」

 動きの止まったビャクを蹴り倒した。ビャクは仰向けに倒れる。袈裟に斬られた傷跡からは血は出ずに、どす黒い霧が漂った。
 ビャクの髪の毛が黒から白へと染まっていく。アンジェリンは怪訝そうに目を細めた。

「本当に何なんだ……新種の魔獣か何か?」
「ゲホッ……テメェと同じ(・・)だよ……」

 ビャクは胸元に手を置いて、目を伏せた。不意に、その姿が陽炎のように揺らめく。アンジェリンがハッとして剣を振り上げた時には、その姿は消えていた。

「しまった……逃げられた……」

 と同時に、遠くから鈍い音が聞こえた。何かが壊れているような音だ。
 アンジェリンはハッとして後ろを見返った。
 ボルドーの屋敷に黒雲がかかっていた。


  ○


「お父さん! ここよろしく!」

 突然跳ねるように目を覚ましたアンジェリンは、声をかける間もなく剣を持って飛び出して行ってしまった。
 うつらうつらしていたベルグリフも驚いて立ち上がった。もう眠ってなぞいられない。
 アネッサとミリアムも、冒険者の癖だろう、素早く立ち上がって、武器を手に鋭い目つきで周囲を見回した。

「……な、なんだ? なにが……」
「あれえ? アンジェは……」

 ベルグリフは霊薬の小瓶を懐に仕舞い、剣を取って窓を開けた。
 夜更けの空に雲がかかっている。吹く風は生ぬるく、先ほどの戦いの時に吹いていたものと同じだ。アンジェリンがすさまじい速度で庭を突っ切って駆け抜けて行くのが見えた。

「嫌な予感がするな。まだ戦いは終わってないか……」

 ベルグリフは二人の方を見た。

「行こう。ヘルベチカ殿が心配だ」
「でも、アンジェが……」
「だからこそだよ。あの子が外に出たなら、屋敷を守るのは俺たちがやらなくては」

 ベルグリフの言葉に二人は頷いた。
 部屋を出て、ヘルベチカの元に向かう。
 あれだけ動かすのが億劫だった体が驚くほど楽だ。エルフの霊薬というのはすさまじい効果を持っているらしい、とベルグリフは身をもって納得した。
 屋敷の中はまだ腐臭が漂っているが、死骸が片づけられ、窓が開け放されている事もあって、少しはましになっているようだった。
 兵士たちがそこかしこに立って目を光らせ、使用人たちが残った汚れを綺麗にしている。

 部屋ではヘルベチカとセレンが何か話し合っていた。
 護衛の兵士たちが部屋の前や窓際を固めている。
 足早に入って来たベルグリフたちを見て、ヘルベチカはおやという顔をした。

「どうなされました?」
「ヘルベチカ殿、また黒雲がかかっております。何かが起こりそうだ」

 ベルグリフの言葉に、ヘルベチカはやはり、というように目を伏せた。

「来るならば今夜……思った通りでしたね」
「む?」
「敵の狙いはわたし。となれば、明日になって自分の首が落ちる前に事を起こそうとする筈」
「お姉さま、ちい姉さまは……」
「分かりません……大勢だと相手に感づかれると思って一人で行かせましたが……失敗だったでしょうか……」

 サーシャの腕は信頼できるものだったが、相手の実力が分からない。マルタ伯爵を捕らえるのみと思ってサーシャを行かせたが、強力な護衛が付いていたとしたら……とヘルベチカは自らの短慮に小さく舌を打った。敵が動く前に、と焦ってしまったか。
 その時、屋敷の外が騒がしくなった。部屋に使用人が駆け込んで来る。

「お嬢様! またアンデッドが!」
「来ましたか……落ち着いて対処なさい。相手も焦っています。くれぐれも無理をしないように」

 アネッサとミリアムが進み出た。

「手伝います」
「うん! まだまだ暴れ足りなーい」

 ヘルベチカは微笑んだ。

「ありがとうございます、とても頼もしいですわ」

 二人は会釈して部屋を駆け出して行った。
 ベルグリフも続いて出て行こうとしたが、ヘルベチカに服の裾を掴まれた。

「どうなされました」
「その……できればお近くにいて下さいませ……サーシャもアッシュもいないので、不安なのです」

 成る程、凛とした佇まいで気丈に振る舞っているが、裾を掴む手は小さく震えていた。
 ベルグリフは微笑んで頷いた。

「分かりました。微力ながら護衛仕りましょう」
「ありがとうございます……」

 ヘルベチカは安心したように笑った。セレンもホッとした様子でベルグリフのそばに寄り添った。

 この部屋では追いつめられると逃げ場がない、というベルグリフの提案で、一同は場所を一階に移した。いざとなれば窓から出て逃げられる。
 屋敷の外で稲妻が光り、何かが炸裂した。アネッサとミリアムが活躍しているようだ。
 アンデッドの数は墓場の戦いよりも数は遥かに少ない。AAAランクの冒険者が二人いれば心配はないだろう。

 それよりも気になるのは、この騒動を引き起こしている黒幕の存在である。
 もしもマルタ伯爵が黒幕だとすれば、死霊術を使える魔法使いがそばにいるという事だ。マルタ伯爵自体はさほど脅威ではないが、その魔法使いには油断が出来ない。
 アンジェリンは何処に行ったのだろう、と思う。町の方で何かあったのだろうか。

 不意に強い風が吹き、窓がガタガタ鳴った。外のアンデッドの臭いだろうか、顔をしかめる程の腐臭が漂って来た。
 ベルグリフはハッとして顔を上げた。咄嗟にヘルベチカとセレンを抱き寄せて叫ぶ。

「窓から離れろ!」

 突如として窓の硝子が割れ、黒い煙が部屋の中に押し寄せた。
 兵士たちが泡を食ったように慌てふためき、しかし煙とヘルベチカとの間に立って武器を構えた。
 黒い煙はゆらゆらと形を変え、天井近くを漂った。ベルグリフは出口の方に目をやり、言った。

「出ましょう」

 ヘルベチカは小さく頷き、セレンの手を取ってゆっくりと出口へ向かった。
 ベルグリフは二人を背に守りながら、剣の柄に手をやって煙を睨み付ける。
 煙は漂いながら、床の一点に集まり始めた。少しずつ何かの形になろうとしているようだ。形が出来るまでは動きそうにない。

 ズキン、と幻肢痛が疼いた。
 右足を失った時の燃えるような痛みが、足の方からじくじくと這い上がって来る。脂汗がにじむ。
 ベルグリフは歯を食いしばり、油断なく煙を睨み付けながら二人を部屋の外に出し、続いて兵士たちも外に出す。それから自分が殿になって、廊下を進んだ。

 後ろの方で扉が破られる音がした。あの煙が形を持ったのだろう。
 ベルグリフは足を止めてヘルベチカに呼びかけた。

「ヘルベチカ殿、外のアンデッドは粗方片付いている筈です。屋敷の方々を連れて、アーネとミリィと一緒にいてください」
「はい……ベルグリフ様は……」
「皆さんが外に出られるまであれを止めます」

 見やった。黒い影法師のようなものが廊下を進んで来た。
 丸い胴体から触手のような足がいくつも生えている。歪な蜘蛛のような姿だ。しかし墓場の時よりもずっと小さい。
 ベルグリフは剣を抜き放って叫んだ。

「お早く!」
「けれど……あなたが死んではアンジェリン様が悲しみます!」

 ベルグリフは振り返って微笑んだ。

「死にませんよ。冒険者は命あっての物種、とあの子に教えたのは私です。ここで死んではあの子に会わせる顔がない」
「……ご武運を!」

 ヘルベチカは一瞬だけ逡巡したようだったが、すぐに表情を引き締めて踵を返した。

「皆さん、行きますよ! セレン、急ぎなさい!」
「は、はい、お姉さま……」

 セレンは心配そうにベルグリフを見返りながら、それでも姉と一緒に駆けて行った。
 ベルグリフは大きく息を吐いた。前を見る。影法師が迫って来た。幻肢痛がいよいよ痛い。

「さて……」

 ベルグリフは顔をしかめながらも剣を振り上げ、影法師に向かって駆けた。
 影法師は触手を揺らめかせ、鞭のように振るった。

「遅い」

 しかしベルグリフを打ち据える前にそれはすべて斬り裂かれて落ちる。斬られた触手は黒い煙となって消えた。
 体が恐ろしいほど軽い。
 エルフの霊薬の効果だろうか。
 幻肢痛だけは痛むが、それも気にはならない。感覚が異様に研ぎ澄まされ、鮮明に、相手の動きが手に取るように分かる。

 まるでバターでも切るかのように触手を切り刻み、あっという間に胴体へと肉薄した。
 足は止める。しかし剣は駆けて来た勢いそのままに横なぎに振るう。
 驚くほどすんなりと、影法師は横に切れて崩れ落ちた。しゅうしゅうと音を立てながら、黒い煙になって消えて行く。

「……こんなものか」

 やや拍子抜けだった。
 それゆえだろうか? 何か決着のついた感じがしない。
 しかし、ぼうっとしている暇はない。ヘルベチカたちと合流しなくては、とベルグリフが剣を腰に納めかけた時、煙の向こうに人影が見えた。

 目を凝らすと、小さな少女である。
 シャルロッテが立っていた。怒りに顔を歪め、握りしめた拳をわなわなと震わせている。
 ベルグリフは怪訝そうに目を細めた。

「君は……確か酒場で……」
「どいつもこいつも……わたしの邪魔ばっかり!」

 シャルロッテは足を踏み鳴らして喚いた。

「なんだっていうのよ! どうしてッ!」
「……大丈夫かい? ここは危険だ。外に……」
「近寄らないで!」

 一歩踏み出したベルグリフに、シャルロッテは腕を突き出した。指輪の黒い宝石がきらめいた。

「もう少しだったのに……もう少しだったのに!」

 シャルロッテの体から爆発的に魔力が迸った。ベルグリフは驚いて剣の柄に手をやった。シャルロッテは狂気的な笑みを浮かべた。

「死んじゃえ」

 魔弾が撃ち出された。ベルグリフは剣で受ける。恐ろしく重い。それでも力を込めて打ち払った。
 だが第二、第三の攻撃が飛んで来る。流石に受け切れない。身をかわした。
 魔弾は大仰な音を立てて屋敷の壁を穿ち、床をえぐった。

「あはっ……あはははははっ!」

 シャルロッテは気が触れたように笑いながら、魔弾を撃って前進した。たまらずベルグリフはじりじりと後退する。
 魔弾が切れ目なく撃ち出されるのと、その一撃一撃の威力が高いために、ベルグリフは攻めあぐねた。それだけではなく、相手が少女というのも剣を振るうのをためらわせた。

 不意に、シャルロッテの顔が恐怖に歪んだ。
 前に突き出した腕を引き戻し、慌ててもう片方の手で押さえる。

「な、なに、これ! いや……いやあッ!」

 指輪にはめられていた黒い宝石が、突如として質量を増したように膨れ上がっていた。それは粘性を持ったようにシャルロッテの手を包み込み、ゆっくりと腕の方まで侵食して行く。
 シャルロッテは黒い塊を振り払おうとするが、まるで貼り付いたように離れない。恐怖に泣き叫ぶ。

「やだ……ッ! やだ、こんなの! 助けて! お父さまぁ! お母さまぁ!」

 魔弾が止んだ事で、ベルグリフは足早にシャルロッテに駆け寄った。
 シャルロッテは恐怖に取り乱してベルグリフにすがり付いた。

「助けて! お願い! 助けて!」
「落ち着きなさい!」

 ベルグリフの一喝に、シャルロッテはビクリと体を震わせて黙った。
 ベルグリフはシャルロッテの手を見た。黒い塊がもぞもぞとうごめいて、手首まで覆っている。それはゆっくりと質量を増し、着実に肘の方に向かっていた。

 逡巡した。
 このまま手を斬り落とすのが早いだろうか。
 しかし、幼い少女だ。斬られたショックで死んでしまうかも知れない。

「……効くか?」

 ベルグリフは懐からエルフの霊薬を取り出した。栓を抜き、黒い塊に垂らす。
 ぽとん、と触れた途端に、黒い塊が苦しむように激しく波打った。シャルロッテの目が恐怖に見開かれる。

「ひっ……!」
「…………!」

 ベルグリフは素早くシャルロッテの細腕を掴んだ。そして握ったまま指先の方に手を滑らせる。黒い塊はこそがれたようになって剥がれ、地面に落ちた。
 即座にベルグリフは剣を振り上げた。
 全身の力と爆発的な剣との感応を込め、黒い塊に振り下ろす。
 廊下ごと断ち切らんばかりの斬撃を食らい、塊は二つに切断され、じゅうじゅうと音を立てながらどろりと溶けて広がった。

 シャルロッテは呆けてぺたん、と座り込んだ。ベルグリフは大きく息をつく。どうやら片が付いたようだ。
 剣を納め、へたり込むシャルロッテの横に膝を付いた。

「……大丈夫かい?」

 シャルロッテは黙っていたが、やにわに大粒の涙を浮かべてベルグリフにすがり付いた。

「怖かった……! 怖かったよぉ! うあぁーん!」

 ベルグリフは嘆息して、ぎゃんぎゃん泣くシャルロッテを撫でた。こうなってしまうとただの年相応の少女だ。
 こんな小さな子が何故あんな妙な力を? とベルグリフが首を傾げていると、ぐい、とシャルロッテを引っ張る者があった。

 驚いて上げた視線の先に、ビャクが立っていた。
 全身傷だらけで満身創痍といった様子だが、それでも片手でシャルロッテの首根っこを掴んでぶら下げている。ベルグリフは目を細めた。

「君は……」
「ビャク……お前……」
「行くぞ」

 ビャクはシャルロッテを抱き寄せ、苦し気に腕を振った。二人の姿が陽炎のように揺れる。
 シャルロッテは慌てたような表情でベルグリフを見て、口を開いた。

「あっ、ありが――」

 その言葉を最後まで言う前に、二人の姿は消えた。
 ベルグリフは怪訝そうに眉をひそめていたが、やがて立ち上がった。
 後ろからぱたぱたと軽い足音が聞こえた。振り返ると、柔らかなものが腕の中に飛び込んで来た。

「お父さん!」
「おお、アンジェ。無事だったか」
「うん……お父さんも無事でよかった……無事だって分かってたけど!」

 アンジェリンは満足そうにベルグリフの胸に顔を押し付けた。


  ○


 夜明け近くになっても何の知らせも入らない。これは失敗したと見ていいだろう。
 マルタ伯爵は焦って宿を出た。あの役立たずの若造どもめ、と悪態をつく。
 このままではすぐに自分は捕まるだろう。何とかして町を脱出し、再起を図らねば。反対派として取り込んだ東の町の貴族の元に身を寄せようか、と考える。
 横丁を曲がった所で、巡回らしい兵士の一隊と出くわした。兵士たちは敬礼してマルタ伯爵に頭を下げる。

「伯爵、こんな時間にお一人でいかがなされたのですか?」
「む、む……ま、町の一大事にわしだけ安穏ともしていられんでな。見回りを……」
「おお、それは素晴らしき事! さぞお疲れでしょう。上等ではありませんが、詰め所にワインなどございます。お休みになられてはいかがでしょうか?」

 マルタ伯爵は考えた。このまま着の身着のままで町を出ても仕方があるまい。
 兵の詰め所に行って、自分が連れて来た兵士たちと合流する。そして馬を手に入れればいい。何より、ここで断れば怪しまれるだろう。今更潔癖を演じた所で誰が信じるものか。

「よかろう……案内せよ」

 兵士たちはにこやかに伯爵を先導し、詰め所にまで案内した。
 石造りの丈夫な建物で、外では兵士や冒険者たちが火を焚いて座っている。誰もがにこやかに伯爵に挨拶した。
 どうやら、自分が魔獣を退治したという事をこの連中は信じているらしいぞ、とマルタ伯爵はほくそ笑んだ。まったく馬鹿ばかりだ、と。
 中に入り、廊下の奥の部屋の前で兵士は立ち止まった。

「伯爵、こちらにどうぞ。上官専用の部屋です」
「うむ」

 機嫌よく部屋に踏み込んだ伯爵は、思わず目を見開いた。
 ヘルベチカが静かな笑みを湛えて座っていた。

「卿。ようこそいらっしゃいました」

 背後で扉が閉まった。両側から兵士に腕を掴まれる。マルタ伯爵は青ざめた。

「な、な、な……ヘルベチカ様! これはどういう仕打ちですかな!? こ、こ、このわしに対して!」

 ヘルベチカはくすくすと笑った。

「少しおいたが過ぎましたね……ヘイゼルで静かな余生を送っていればよかったのに」
「な、何をおっしゃる! わしが何をしたというのだ!」
「それはご自分がよくお判りでしょう?」

 ヘルベチカは立ち上がり、しゃん、と音をさせて剣を抜いた。
 よく研がれた刀身に映る自分の姿を見て、マルタ伯爵は息を飲んだ。

「ま、待て! 故なくしてわしを殺せば、貴様らの信用も地に落ちるぞ! 証拠! わしがしたという悪事の証拠はあるのか!」
「ありませんよ。今は、ね」
「ば、馬鹿な! そんな事は横暴だ!」
「後で調べればいくらでも分かる事です……しかし卿。あなたが抱き込んだ協力者たちを教えてくれれば、命だけは助けて差し上げましょう。領地からは放逐させていただきますが」
「おお……! よ、よかろう!」

 マルタ伯爵はべらべらと協力者たちの名前を上げた。名前が出る度にヘルベチカは悲し気に目を伏せた。

「こ、これで全部だ! もうよかろう? 早くわしを解放せんか!」
「ふむ?」

 ヘルベチカは首を傾げた。周りの兵士たちを見やる。

「わたし、そんな事を言いましたか?」
「いえ、言っておりません。何かの間違いでは?」
「聞いておりませんなあ」

 マルタ伯爵は呆気に取られていたが、謀られた事を理解して真っ赤になった。

「き、き、き、貴様ッ! 嘘を……! 嘘をついたな!」

 ヘルベチカはあくまで微笑んでいる。しかし目は笑っていない。

「今回の事、わたしの甘さが招いたというのも事実でしょう。お礼を申し上げますわ、卿。あなたのおかげで踏ん切りがつきました」
「な、な、な……こ、小娘が……ッ! こんな事をしてただで済むと思っているのか! わしは公国の! 公都の貴族だぞ! 貴様らなどとは血が! 血が違うのだ!」
「ええ、そうだと助かります。あなたと同じ血が流れているなんて、想像するだけで身の毛がよだちます」

 ヘルベチカはゆっくりとマルタ伯爵に歩み寄った。兵士たちが喚き散らすマルタ伯爵を押さえ付ける。剣が振り上げられた。

「豚は屠殺です」

 ひゅん、と剣が振られ、静かになった。
 ヘルベチカはふうと息をつく。

「道端に転がしておきなさい。勇敢なるマルタ伯爵はお一人で見周りをされ、不届き者に襲われて気の毒にも亡くなられたのです」
「はっ」

 兵士たちが亡骸を抱えて裏口から出て行った。ヘルベチカは剣を納め、ゆっくりした足取りで建物の外に出た。

「……長い、夜でしたね」

 東の空はうっすらと白んでいる。
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