雨降りドーナッツ
「おはようございま~す♪今日も暑くなりそうですね。」
朝の煎餅屋にまどかが出勤してきた。
こいつがここでバイトを始めて早三ヵ月。季節は夏だ。
「おはよう。やけに機嫌が良いな。」
「ふっふっふ・・・お見せしたい物があります。どうぞ、こちらへ。」
まどかに導かれるままついて行くと、店舗裏手の駐車場に置いてある、まどかのS15にたどり着いた。
「じゃ~ん!」
まどかがドアを開け、後部座席を見せる。そこには、未開封の車高調やオイル缶などが所狭しと詰め込まれていた。
「とうとう揃えたか。」
「お昼に芳文さんのとこに持っていこうと思います。」
「いや、どうせ昼飯を買いに来るだろうから、持ってってもらおう。」
昼。商品の陳列作業をしていたまどかが、店の駐車場に進入するアイリのエボ5を視界の端で捉える。
「お!」
作業をしていた手を止め、顔を上げてエボ5を見ると、車からアイリと芳文が降りてきた。
「オーッス。」
「こんにちわー。」
二人が店内に入る。
「は~い、いらっしゃ~い。」
「いらっしゃいませー。」
それに対し、お好み焼きを焼く岩木とともに挨拶をする。
「あれ?陸斗は?」
店内を見まわしながら芳文が聞く。
「配達に行ってます。」
「そうなんだ。じゃあ、朝木ちゃん、早速だけどキー貸して。」
「はい。こちらになります。」
エプロンのポケットから、猫のマスコットが付いたキーを取り出し、芳文に差し出す。
「はい。確かに。」
「よろしくお願いします。」
「任せなさい。」
「芳文君、行くよ。じゃあ、まどかちゃん、また夜に・・・。」
お好み焼きを受け取った芳文達は、エボ5とS15の二台に分乗し、職場に戻って行った。
「お待たせ。」
夜。閉店作業を終え、一足先に店を出た陸斗は、徒歩五分の所にある自宅アパートからFDに乗って戻って来た。
「では、お願いします。」
助手席に乗り込むと、FDは芳文達のいる整備工場へ向けて出発した。
「ところで、なんでバケットシートなんて積んでるんです?」
FDの狭いラゲッジスペースにはバケットシートが積まれ、そのシートのせいでリアハッチが半開きの状態になっていた。
「15に着ける為だ。」
「え?くれるんですか!?」
「いや。・・・まあ、バケットシートが必要だってことをすっかり忘れててな・・・。で、さすがにいきなり買えとも言えないから、当分の間、これを使って欲しい。・・・まあ、買い取るって言うなら安くするけど・・・。」
苦笑いをしながら歯切れが悪そうに陸斗が言う。
そして、そうこうしてる間に車は整備工場に到着した。
七原自動車という看板を掲げたその小さな整備工場は、M町の田舎町の一角に存在する奥行きのある土地に建てられており、道路に面した所に受付と事務所。奥に整備工場。そして、さらに奥が駐車場となっている。
事務所と整備工場の横の通路を通り抜け、駐車場に車を停めてシャッターの開いた工場に入ると、工場内で長い金髪をポニーテールにした、灰色のつなぎ姿の小柄な女性が、ボンネットを開けたS15の前で、バインダーに何かを書き込んでいた。
「社長、お疲れ様です。」
両手でバケットシートを抱える陸斗が女性に声をかける。
「やあやあ、おつかれ~。ああ、それが例のシートね。」
社長と呼ばれた女性が眠たそうな目でこちらを見て、おっとりとした口調で挨拶をする。
「社長の七原さんだ。」
陸斗が紹介する。
「私は七原紅葉。よろしく。」
二十代後半くらいの若い社長はそう名乗り、名刺を差し出す。
「朝木まどかです。よろしくお願いします。」
「社長、シート交換するんで、工具借ります。」
「は~い。それじゃ~、こっちは車高調の減衰の変え方とか説明するから、ちょっと来て。」
七原社長が手招きをする。そして、陸斗はシートの交換作業を始める。
「それで、交換したパーツは後部座席ね。」
車高調の慣らし運転や、注意事項などの説明を一通り終えた紅葉は、S15のドアを開けて後部座席を見せる。
「はい。確認しました。」
「は~い。で、外したシートの回収はまた今度でいいから。」
そう言って紅葉がドアを閉める。
「じゃあ、これで説明は以上。後は会計をするから受付に行こうか。」
紅葉とともに工場内の扉から、芳文とアイリが書類作業をしている事務所を通り抜けて、小奇麗なショールームに移動する。そこには、交換作業を終えた陸斗が応接セットの椅子に座り、車雑誌を読みふけっていた。
「は~い。お会計は五万五千円になります。」
「はい。五万五千円です。」
そう言って代金を支払う。
「まいど~。」
「終わった?」
いつの間にか後ろに立っていた陸斗が聞く。
「はい。終わりました。」
「じゃあ、行こう。では、社長、失礼しました。」
「はいは~い。」
社長がひらひらと手を振り、私たちは七原自動車を後にする。
「よし、今日の練習はここでやる。」
「ここで・・・ですか?」
七原自動車を出た私たちは、F市内のゲームセンターの前にいた。
「まあ、実際に車を使いたいとこだけど、条件がそろってないからな。」
「条件ですか?」
「ああ。まず車高調の慣らしが済んでない。社長にもある程度の距離を走れって言われただろ?」
「はい。言われました。」
「あと、雨が降ってない。」
「雨ですか?」
「そう、次の練習はタイヤを滑らす練習だからな。音が出なくて、タイヤの減りが少ない雨の方が都合が良い。」
陸斗がにやりと笑う。
「おお!いよいよですね。」
「ああ。そういうわけだから、今日はここでイメトレだ。」
「どこかの車漫画みたいにリズムゲーとかをやるんですか?」
「いや、普通にレースゲームだ。」
そう言って陸斗はゲームセンターに入って行った。
数週間後。夕方頃から降り始めた雨が暗くなった今も降り続いている。
「陸斗さん、雨ですよ!」
閉店の為、陳列棚にシートをかけていたまどかが、テンション高らかに言う。
「ああ。じゃあ、後で行くか。」
厨房の清掃の手を止め、まどかに言う。
「やった!」
「芳文も誘おう。昼間、行きたそうだったからな。」
掃除を再開して呟く。
「またどっか走りに行くの?」
売り上げを数えていた岩木が聞く。
「ええ、ちょっとD町の方まで。」
「まあ、ケガだけはしないようにね。」
閉店後。芳文とアイリの二人と合流した私たちは、S15、FD、ワンエイティー、エボ5の四台で移動し、F市の東に位置するD町にある、海沿いの駐車場にたどり着いた。そこは国道から外れ、周囲を草むらと斜面に囲まれた寂れた場所だった。その広い駐車場には、四台分の排気音と雨音、南側の斜面の向こうから聞こえる微かな波の音が響き渡る。
駐車場の端に並んで停まる四台の内、一台の排気音が消え、ドアの開閉音がする。雨の中を飛沫を上げながら、手に赤く光るパイロンを持った陸斗が駐車場の真ん中まで走っていき、パイロンを置いて戻って来る。そして、FDではなく、S15のナビシートに乗り込む。
「よし、じゃあ、今から・・・」
陸斗がしゃべり始めたのと、ほぼ同時に隣のワンエイティーがエンジンを吹かして発進し、パイロンの周りを横滑りしながら回り始める。定常円旋回というやつだ。
「あれをやって貰うんだけど、その前に二点ほどやって貰うことがある。」
「了解しました。何をするんです?」
「とりあえず、パッシングで芳文をどかしてくれ。」
「はい。」
パッシングを二回すると、ワンエイティーが回転をやめ、再び駐車位置に戻る。
「これが一つ目ですか?」
「いや、これはノーカウントだ。今からやって貰いたい一つ目のことは、ブレーキング。やり方は加速して一気にブレーキを踏み込んで、ブレーキをロックさせずに自分の停めたい所で車を停める練習だ。駐車場の端から端を使って四、五回。それじゃあ、始め。」
「はい!」
ギアを一速に入れ、車を駐車場入り口に移動させる。
「最初は余裕を持って駐車場の三分の一くらいでブレーキな。ぶつけるなよ。」
「はい!」
アクセルを踏み、クラッチを離して一気に加速する。
五回目。駐車場の四分の三ほどの位置で、車をぴたりと停める。
「よし。じゃあ、次行こうか。」
何が「よし」なのかいまいち解らない。
「あのう・・・なんかよく解らないんですが・・・。」
「あー・・・いや、そういうもんだ。ここからは、ほぼ感覚の話になってくるから、頭ではなんとなく理解してくれれば良い。体で覚えろ。」
「はあ・・・。」
「じゃあ、次は二つ目のスピン。・・・とりあえず、運転代わろうか。」
「はい!」
その場で陸斗と運転を代わり、陸斗がバックで入り口まで下がる。
「これは主に、ドリフトをするときのきっかけ作りだな。やり方は口で説明すると、走る。ハンドル回す。ブレーキ踏む。とどめにサイド引く。って感じだ。」
「・・・?」
よく解らない。
「まあ、実際にやってみるよ。」
そう言うと、陸斗は車を発進させた。そして、ハンドルを回して右旋回をし、ブレーキで左側につんのめり、サイドを引いてつんのめる力が解放され、滑らかに滑ってやや後ろを向く。
「おお・・・、なんか不思議な感じです。」
「大体こんな感じだ。じゃあ、左右三回ずつやってみろ。」
「はい!」
「うーむ・・・。」
最後のスピンを決めたまどかが、少し難しそうな顔をする。
「どうした?」
「どうも左スピンが上手く行かないです。」
確かに、先ほどから右スピンに比べ、左スピンが浅い。
「いや、それはそれでいい。この練習で重要なのは滑った深さじゃなくて、滑るきっかけを作ることだ。・・・じゃ、運転交代。次行こう。」
「はい。」
再びまどかと運転を代わる。
「次はいよいよ、本日のメイン。定常円旋回だ。」
「おお!」
「これはドリフトの基礎であり、グリップでもスピンを回避するときに使える。それで注意点としては、回ってる間はずっとパイロンを見続けること。少しでも目を離したら、よそ見した方向にすっ飛んでくぞ。」
「どうしてです?」
「難しいことは分からねえけど、無意識の内に視線を向けた方向に体が行こうとするって話らしい。」
「自転車とかみたいな感じですかね?」
「まあ、そんな感じかな・・・?じゃあ、行くぞ。」
そう言ってギアを一速に入れ、パイロンの周りをゆっくり回り始める。
「まあ、本来なら停止状態から滑り出すんだけど、慣れてる方でやらしてもらうぞ。」
アクセルを煽り、エンジンの回転数を上げてタイヤを滑らせ、バシャバシャと音を立てながら旋回を始める。パイロンの周りを右に五回、回った後、パイロンに振りほどかれるようにして、描いていた円から外れ、スピン状態で停止する。
「大体こんな感じ。」
「ちょっと目が回りました・・・。」
「とにかく、回ってるときはパイロンだけを集中して見ろ。じゃないと運転してても酔うぞ。」
「は、はい。」
「あー、ちょっとこのまま入れ代わるぞ。」
窓の向こうは雨脚が強くなっており、とても外に出られる状態ではなかった。
「わかりました。どうしましょう・・・?」
「まず後部座席に移ってくれ。」
「あいつら何やってんだろ・・・?」
エボ5の車内で、音楽を聞きながらスマートフォンをいじるアイリが、土砂降りの中、不自然に揺れるS15を見て呟く。
「よし、やってみようか。」
交代が終わり、ナビシートに戻った陸斗が指示を出す。
「はい。」
陸斗がやっていたように、ギアを一速に入れ、パイロンの周りを右に回り始める。そして、タイヤが滑り出し、エンジンの回転数を維持しながら回り続けようとする。しかし、すぐにタイヤがグリップを取り戻し、円を描き切れない。
「あれ?」
何度か繰り返すが、上手く出来ず、首を傾げる。
「エンジンの回転数が足りない。滑り出したら、四千から五千回転くらいを維持する感じでやってみろ。上手く出来れば、レールの上を滑ってるような感覚があるはずだ。」
「はい。」
再び車を発進させ、パイロンを回る。そして、タイヤが滑りだした瞬間、アクセルをさらに煽り、回転数を上げる。すると、窓の外のパイロンが視界の中央で固定され、パイロンの周りに敷かれた見えないレールの上を、後輪が滑っている感触がした。
四、五回パイロンの周りを回り、円から外れて停止する。
「そう!それ!その感じだよ。」
陸斗がテンション高らかに拍手をする。
「ありがとうございます!」
「まあ、今日はこれで終わりでもいいけど、今後、逆回転とか八の字とかいろんなパターンをやって貰うから、今の感覚を忘れないように。」
「はい!」
「・・・で、この駐車場の練習が終われば、次はいよいよ実走だ。」