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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第三章 クラーナ
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第15話 「きおく」

 何もない無色のキャンバスに赤い絵の具を塗ったのは誰だったか。


 僕はたった三メートル四方の世界で虫のように這い回り、首輪で繋がれていたわけでもないのに、そこから抜け出すことが出来なかった。


 忌むべき扉を開けてやってくるのは、まるでこちらを踏みつぶさんばかりに大きな体の何かだった。それはいつもゴミを投げ捨てて帰って行く。時には鞭を握って襲いかかってきたこともあった。そうしたときは必ずと言っていいほど、靴の底にこびりついた泥と糞尿を僕の顔にこすりつけて小屋を出ていった。


 それでも僕の頭に感情というものはなかった。


 生まれてこの方、感情があるものと触れ合ってこなかった僕にそんなものがあるわけはなかった。


 僕は汚れた顔をそのままにして、赤目の出た皮膚にべったりとくっついた泥をぬぐい取る。この汚れを放っておくと、後でひどいことになると知っていた。だから魔法で傷口をきれいにして、それが済んでしまうと僕は干し草の中に入り込んで目を閉じた。


 そしてふと、目を開けて見えたのは安アパートの古ぼけたドアだった。


 僕はもう何年と見てきたその木の板を前にして、毎夜のように中に入るのを躊躇する。


 ここから先は牢獄だ。けれど僕はそこに帰らなければならない。牢獄の獣にこの身を喰い荒らされねばならない。


 これは何かの罰だろうか?


 僕には何か、悪さをした覚えが一切ない。


 僕は物心が着いてからというもの──否、それこそ生まれてからずっと謹厳実直を体現するかのごとく真面目な人間だった。人の手を煩わせず、気分を害さず。泣かず、怒らず、口答えも不平不満もなく。期待されることを行い、時にはそれ以上のことを成し、己を省みずに滅私の心で世の中を渡ってきた。


 人々はことごとく僕を褒めた。


 それほど僕個人は完璧な人間だった。「いいひと」とはまさに僕のことだった。


 そのせいなのかもしれない。


 人間誰しも一つくらいは持っているはずの欠点がない僕だからこそ、それが「僕以外の」「僕に最も近しいもの」に凝縮されていた。


 それは厚顔無恥に人の形を与えたような男だった。ことあるごとに人の手を煩わせ、気分を害す。気に入らなければ泣きわめき、怒り、暴言意外の言葉を知らないかのような愚か者。無道を行い、人を人と思わず、利己心だけを持ってこの世に生きている外付けの汚点。


「おい、──!」


 汚物が叫ぶ。今となってはもう聞こえはしない、捨てたはずのその名前を呼ぶのは僕の親だった。


 どんなに手を振り払っても決して落ちることのない汚れ。血縁という絶対的な関係性があるせいで切り離せない存在。捨てられない生ゴミとでも言おうか。僕は仕方なく、そのゴミクズを自分の手元で管理しておくしかなかった。「いいひと」なら、その存在を見捨てたりはしない。


 だから、


 ずっとずっと、袋の口を厳重に締めて、部屋の奥に押し込んでいやな臭いが外に漏れないように気をつけていた。それでも腐臭はどこからともなく漏れ出て、じわじわと僕の皮膚に染み込んでいった。


 このままではいつしか僕自身も腐り始める。「いいひと」であるべき僕が、「わるいひと」になってしまう。


 不意に、考えてみる。


 あのゴミを人知れず始末するにはどうすればいいか。どこかで細切れにしてトイレにでも流してしまおうか。


 いいや、だめだ。それは「いいひと」のやることではない……いつも通りそんなことを考えながら檻の扉を開いて……その日はひどく理不尽な理由で殴られた。


 言葉で。


 手で。


 足で。


 どうして「いいひと」である僕がこんな仕打ちを受けなければならないのか。いいひとは誰にも殴られたりしない。暴力を受けたりなどしないはずだ。


 僕は「いいひと」なのだ。


 いいひとなのに。


 いいひとでいたいのに。


 いいひとで……。


「……」


 僕が「いいひと」であるためには、やはり不必要なゴミは始末するしかなかった。


 やむを得ない選択だった。僕が僕であるために、必要なことだった。


 床に打ちつけた頭が割れるように痛い。


「いててて……」


 ジョンは青く茂る草のベッドで目覚めた。


 どこかの家で手に入れたシーツを掛け布団代わりにして眠っていた彼女の隣に、馴染みの気配はない。所々が赤く染まる布を被ったまま、ジョンはまるで幽霊のような格好で起き上がった。


 後ろの裾を土で汚しながらずるずると引きずって歩いていくと、シーツは前の方からどんどんとずり上がっていって、やがて頭の上からハラリと背後に落ちた。彼女はそれを置き去りにしたまま茂みをかき分け、すぐに開けた視界の中央にナナシの背中を見つけた。


「ななー。おは……」


「おう、ジョン。おはようさん。よく眠れ……どした? 何か悪い夢でも見たか?」


 ナナシはジョンの不機嫌そうな顔を見てそう問いかける。


「あんまおぼえてない……けど、しぬほどいたかった……ような? あたまが……」


「死ぬほど痛い? じゃあもしかして夢で死んじゃった?」


「しんだしんだ~」


「んだよ、悪夢じゃねぇか。忘れちまえそんなもん」


 彼は手元の肉を太めの木の枝で叩き、砕いた骨を丹念に取り除きながら笑う。


「朝飯食ったら元気も出るだろ。もう少しで煮込み始めるから、先に顔洗って髪整えてこいよ。寝癖ひっでぇことになってんぞ」


「えー? ななしやってよー。ぼく、かがみあってもかみのけいじるのにがてだから……みえないともっとむり」


「仕方ねぇお姫さんだな。じゃあ髪の毛は飯終わったら僕が整えてやるよ。そしたらとりあえず顔洗ってきな。そこちょっと行ったところに水が流れてっから」


「あいー」


 トコトコと歩いていった小さな背中を見送り、ナナシは傍らで火に掛けていた鍋の中に千切った肉を放り込む。


 続けて背後に置いてあった不格好なそり付きの木箱から葉物を取り出し、何枚か手でむしって鍋に入れる。味付けには塩を振るだけの簡単な朝食だが、野宿をした次の日となればこのメニューが定番だった。


 やがて身支度を整えたジョンが戻ってきて、ナナシは彼女の器にスープをよそって手渡しした。ジョンはナナシの準備が整うのを待って手を合わせた。


 二人はそろって口先だけの「いただきます」を声にする。


「うん。やっぱ肉があると塩だけの味付けでも何とか食べられるな」


「だしがでるから、ね。でも、きのうみたいなのはちょっとこまる……」


「あー、あれなぁ……ジョンの動物使い? だっけ? あの能力も万能じゃないんだな」


「けものつかい、ね。あんなにいっぱい、いちどにおそわれるとたいへん」


 ジョンはスプーンをくわえたまま周囲を見回してため息をつく。彼女の目に映るのは、深い緑の葉に点々と飛び散る赤黒い飛沫だった。その傍らには柔らかな塊が数体転がっている。長い鼻面に三角の大きな耳が特徴の、狐のような生き物だ。夜を越したそれらはうっすらと腐臭を放ち始めていた。


「子どもが一、二匹いなくなるくらいで目くじらたてることねぇじゃんかな。まぁおかげでしばらく肉には困らないどころか余ることになったわけだけど」


「もったいないよね~」


「ってもなぁ……こればっかりは捨ててくしかねぇよ。腐ったの食べて腹壊したら、それこそ大変じゃん」


 ナナシは昨晩の激闘を思い出し、その際の疲労で痛みが残る腕をかばいながら食事を進める。


「ってか、狐って群れる習性あったっけ?」


「わかんない。ななしのしってるきつねとは、ちがうのかも。きつねもどき」


「ま、何でもいいか。ストレス解消にはなったわけだし~」


「ぼく、ちょっとものたりないきもする」


「マジ? それやばくないッスかジョンさん」


「やばい? なにが??」


「ストレス値が。どんだけため込んで……って、そっか。これまでのこと考えりゃ、あのくらいで解消できるわけないか」


 ナナシは少し表情を暗くし、目に悲しみの色を浮かべた。だがそれも一瞬のことで、彼の感情はすぐに怒りに塗り替えられる。彼は手にあるスプーンをギリギリと握りしめ、口に放り込んだ肉を奥歯ですり切れるまで噛み砕いた。


 それからしばらく無言で食事が続き、二人は連れだって近くの小川で食器を洗い、木箱の中に片づけて旅を再会した。


 余る袖を翻しながらジョンが先を歩き、ナナシはそり付きの箱を引きずりながら木の根をよけて彼女について行く。その縄はガチャガチャと音を立てる木箱の重みで一直線に張り、ナナシの手に食い込んだ。


「なーなー、ジョンさん。この荷物だけでも誰かに運んでもらえねぇかな?」


「むーん……ちかくにどうぶつ、いない。ぼくたちこわいって、にげられちゃったかも」


「鳥とかも? 何も?」


「なにも~」


「……」


 それを聞いたナナシは昨日の行いを後悔し始めていた。しかしながら、罪のない動物をいたずらに殺めたことに対する感情ではないあたりが、何とも救いようのないところである。


「つーかさ、ジョンのその能力ってどういう仕組み? 動物と脳内会話が出来るとかそういう感じ?」


「えっとねー、さきがわっかのなわをなげて、つかまえる……みたいな?」


「縄……?」


 ナナシは自分の手と荷物を結ぶそれに目をやって首を傾げる。


「どうぶつとは、まりょくのいと? なわ? みたいなのでつながってるのよね」


 ジョンはフランの書斎で読んだ本の内容を反芻しながら説明する。と言っても、獣使いを汚れた血と忌避する魔法院と、神秘への不干渉を掲げるプラディナムの(図らずも一致した)方針により、能力の研究は進んでいない。例によってその文献にも獣使いに関する記述は半ページほどしかなく、「陪臣の契約は一度結んでしまえば、契約対象の動物が死なない限り解けない」と書かれていた。


 しかし、ジョンは経験からそれが間違いだと知っていた。契約を切れないのは、能力者本人がそのやり方を知らないからだ。だから、その方法さえ分かってしまえば何のことはない。要は相手をつなぎ止めていた回路を切ればいいのである。


 縄をはさみで切るように、チョキンと断ってしまえばそれで済むのだ。そして、必要になれば新しい対象に繋ぎ直して再契約する。


 ジョンは物心つく前からそれが出来ていた。


「ほあー、なるほどな。さっすがジョン。生まれ持っての才能~」


「えっへん。ぼくみたいにきようなのは、そうそういない。わよ」


「やっべー。ジョンは天才でおまけに獣使いだし僕は上位の魔法が使える……これってもしかしなくてもチートじゃん?」


 ナナシはジョンを両手で指さして心底楽しそうに笑う。ジョンもまたその指先にニッコリとして、


「ちーと、つかって。せかいせいふく!」


「お? 急にやる気?」


「ぼくらがすみやすく、よりよいせかいに~」


「イエーイ。より良い世界に~!」


 ナナシは荷物が重いと不満を漏らしていたことも忘れ去り、赤ん坊が急に笑い出す時のように感情を高ぶらせて足を軽くする。


 キャッキャと声を上げながらスキップをする二人は端から見れば仲睦まじい親子のように見えたが、彼らの背中にはそれを打ち消すように血と腐敗の臭いがまとわりついていた。

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