第8話 「彼女の理由」
一方、ジーノは客室のドアを閉めてすぐのところでエースに呼び止められていた。
「ジーノ、ちょっといいかな」
「あら、お兄様。何でしょう?」
エースは誰にも話を聞かれたくないのか、礼拝堂の方に歩いていった。ジーノは「何の用事だろうか?」と首を捻りつつ彼の後についていく。
居間の先──台所の手前にある堂へつながる扉が開かれる。蝶番のきしむ音はつい先ほどソラが一緒だった時と打って変わって、ジーノの耳にいやに重苦しく響いた。慣れているはずのひんやりとした空気が肌に深く刺さる。耳が痛くなるほどの静寂の中で、ジーノは入ってきた扉を後ろ手に閉めた。
祭壇の前まで来て、エースはジーノを振り返る。
「祈りを捧げるだなんて、何であんなことを言ったんだ。ジーノ」
彼は困ったような、それでいて相手を咎めるような口調でそう言った。ジーノは兄がわずかに眉をひそめるのを見ながら、わざとらしく目をぱちくりとさせてとぼけた。
「何のことでしょうか?」
「……」
堂の中はろうそくの火であってもまぶしい。エースは視界の端でチリチリと燃えるそれに目をくらませ、頻繁に瞼を瞬かせていた。そのたびに目の前にいるジーノの姿が薄闇の中に溶けていくようで、エースはジーノの手を掴んでそこに妹がいることを確かめた。
「ジーノ」
答えを催促するように呼びかけ、ようやくジーノは兄の方に一歩近づいて答えを返す。
「あの方に本当のことを言えるのですか?」
「それは……」
明かりを受けて浮かび上がった彼女の顔にこれといった表情はなかった。こういう顔をしている時のジーノはいつにも増して人形のように美しく、それでいて息のない死人のようで気味が悪かった。
エースは掴んでいた手を反射的に離して、彼女が進んできた分の一歩を引き下がる。
「……」
ジーノはしばらく沈黙し、言葉を吟味してから口を開いた。
「お兄様、私はどうしても今のこの状況を見逃せません。ええ、そう……。……父と母のことです。私はあの時の光景がずっと目に焼きついて離れない。それともお兄様はお忘れですか?」
「まさか! そんなわけない。忘れるわけがない」
「ならば私の嘘を理解していただけるはずですね」
「分かってるよ。分かってる。だけど……」
ろうそくの火が消えるように声も小さくなって、エースは靴のつま先を見つめた。
暗く狭くなっていく視野の中にジーノの細い指が伸びてくる。
それはエースの手を取って指同士を絡ませ、力を込めて握った。
彼女の指は手の平まで冷え切っていた。
「お兄様はお優しい」
それは嫌味なのか、それとも言葉通りの意味なのか……エースには分からなかった。直前の会話を思い出して推量してみても判断がつかない。
「両親の唯一覚えている姿が泥人形のままだなんて、私はそれが申し訳なくて堪らないのです」
「……」
エースは頭を上から押さえつけられている感じがして、顔を上げることが出来ずにジーノの声だけを聞いていた。それは表情と同じく何の感情も伝わってこない、ただの音だった。もし他の誰かが聞いたらその声にわずかでも色が見つけられたかもしれない。だが、心情の察しが悪いエースには何も感じ取れなかった。
捕らえられた手から冷えた血液が上ってくる。それが心臓まで回ってくる前に、エースは妹の手を振りほどいた。
「……彼女を差し出せば、両親の元の姿がよみがえるとでも?」
「いいえ。けれど、報われはします」
「ジーノはそれで平気なのか……?」
「平気か? ……ええ、平気です。平気ですとも」
それは自分に言い聞かせるような口調だった。
「お兄様は違うようですね」
「……ああ、そうだよ。悪いがとても平気じゃいられない」
言いながら、エースは心臓を鷲掴みにされたような痛みと息苦しさに襲われていた。首の後ろに冷たいような熱いような汗がぷつぷつと浮かび上がってくる。
「お兄様は、本当にお優しい……」
鈴を転がすような声が暗闇に沈んでいく。
エースは頭を押さえつけられていた感覚から解放され、縮んでいたバネが伸びるように顔を上げた。ジーノは今にも泣きそうな顔で、エースと目が合うと咄嗟に逸らした。
「ごめん。ジーノ……、ごめん」
何に謝っているのか、エースは自分でよく分からなかった。けれど今の自分の気持ちを表すには謝る以外に言葉が見つからなかった。
ジーノはその言葉に反応らしいものを示さず、静かに後退して体を翻した。
「私、部屋に戻ります。お父様には先に休んだと伝えてください」
「分かった……」
ジーノは涙を指先で拭い去る仕草をし、礼拝堂を出た。エースは暗闇に沈んでいくその背中をただ見つめることしかできなかった。自ら選んで辛い立場に立つ妹を抱きしめ慰めてやることは、彼にはどうしたって出来なかった。
気落ちする兄を一人堂に残し、ジーノは細長い廊下をとぼとぼと歩いて自室へと戻った。室内に入って閉めた扉に寄りかかり、深いため息を吐いて少しの間そのままじっとして、何も考えないでいた。
「平気です。私は平気……」
彼女は部屋の明かりをつけ、机の方へと歩いて行って、鍵のかかっていた引き出しを開けた。そこにあるのはジーノにとって大切な思い出だった。それを包む白い布を丁寧な動作で開く。露わになったのは古ぼけた短剣だった。刀身から柄にかけて精緻な装飾が施されていたはずのそれには所々に赤錆が浮いていて、今となっては剣としても装飾品としても価値のない物になっていた。
柄尻にはめ込まれた金剛石だけが、今も変わらずに輝いている。
「……」
彼女はその短剣をひとしきり眺め、やがて気が済んだのか布に包み直して引き出しの中にしまい、鍵をかけた。空いた手は自然と腰に差している杖に伸びる。その先端にしつらえた石は先ほどの短剣の柄にあったのと同じ物だ。
「先生……」
彼女の目に涙はなかったが、ジーノにはその滴が頬を伝ったように思えた。