第8話 「企み」
黒髪と白髪の二人は暗闇に沈む森の中を、山犬に跨がって疾走していた。
「お前のこの能力、すっげーな! 便利~」
負傷した腕を布で吊って固定している男──ナナシは片腕で器用に山犬の背にしがみついていた。彼の感嘆を聞き、前方を走る少女ジョンがちらりと振り向いて親指を立てる。
「はやくにげられる。ぼくたちのあしあともつかなくて、いっせきにちょう」
「さっすが僕のジョン。偉いぞ。褒めてあげよう」
「へっへ~。ぼくてれちゃう~」
ジョンは獣使いの象徴である金色の瞳を細めてにっこりと笑った。二人は山犬の背中に張り付き、木々の間をすり抜けていく。あまり長い距離を走ることが出来ない山犬は頻繁にその足を止めたが、そのたびにジョンとナナシは彼らの腹を蹴り、抗議の唸り声も無視して疲労の中を走らせた。
そうして、瞬く間に後方へと過ぎ去っていく景色の中、二人は前方に人家の明かりを見つけた。と言っても、それは窓から漏れる明かりではなく、玄関の足下に設置された小さなランプだった。
ジョンは山犬に指示を送り、ちょうど森がとぎれる手前でその足を止めさせた。彼女は急停止した獣の背から勢いのままぴょんと飛び降りる。遅れて止まったナナシは長時間の振動で気分を悪くしたのか、口元を押さえながらずり落ちた。
「ありがと。ばいばい。きをつけてかえってね」
そう言って朗らかに手を振るジョンであったが、二匹の山犬は度重なる無体に抗議し、鼻にしわを寄せて睨みつけてきた。その形相を目の前で見たナナシは慌てて地面を後退りし、怯えた表情でジョンの袖を掴んだ。ジョンはナナシを後ろにかばいつつ、山犬に自分の犬歯を見せびらかして獰猛な笑みを浮かべる。
「ぼく、ばいばいって、いったよね?」
ニタリと鋭角につり上がった口の隙間から真っ赤な舌先がのぞく。その直後、ジョンの腹が小さく声を上げた。彼女は情けない音を恥ずかしがるようにして腹部を押さえ、しかし視線は山犬たちに向けたままで、口の端からこぼれそうになった涎を舌でなめとる。
それを見た山犬たちは低い声を次第に上擦らせながら一歩、また一歩と後ろに下がっていき、やがて逃げるようにしてその場を離れていった。
「お、おっかねぇ~。ジョン、お前ってば度胸ありすぎ」
ジョンの後ろでほっと胸をなで下ろし、ナナシが言う。
「なぁなぁ、やっぱ僕たちって制服の奴らに追われてんのかな?」
「たぶん、そう。いちおう、かくらんはしたけど……」
「攪乱?」
「まほうってね、つかうとあとがのこるの。ななしをはこぶのにまほうつかってたから、それをおいかけられると、ぼくたちすぐにみつかっちゃう。きけん」
だからジョンは魔法で広範囲に雨を降らせて痕跡をあちこちにばら蒔いた。そう言って胸を張る彼女に、ナナシは「なるほど!」と感心する。
「僕も気をつけないとな……アッ! 気をつけると言えばジョンさん、ちゃんとお仕事してくれよな~? 守りは任せたって、頼んだじゃんかぁ」
ナナシはカシュニーの都での一件──ソラの魔力を使ってエースが魔法を放った出来事を思い出し、口を尖らせた。
ジョンは小さく舌を出して自分の頭を小突く。
「ごめーん。ゆだんしちゃった」
「仕方ないな、もう。まぁ俺もまさか腕ちょん切られるなんて予想してなかったし、気が緩んでたのはお互い様か」
「おあいこ~」
「でも、ジョンの防御が崩されるなんて思わなかったぜ……」
「それね、むこうもななしとおなじまりょく。つかったの」
「なに? あの金髪の兄ちゃんか?」
「のんのん。オニーチャンといっしょにいた、くろかみのオネーチャンのほう」
「マジ?」
「まじ。ぼく……たぶんそうなんだろうなって、わかってたんだけど……」
いつまでたっても魔法を使わないソラを見たジョンは、きっと最初のナナシと同じく魔法の使い方を知らないのだと思っていた。
「それに……」
「んだよ? 怒らないから言ってみ?」
「……あのオニーチャンが、ぼくみたいに、たにんのまりょくをつかうとは、おもわなかった。まりょくをかりるの、とってもむずかしいの。だから、ぼくいがいにはできないとおもいこんでた」
「そっかぁ。認識が甘かったな」
「ごめんね」
「しゃーないって。失敗は誰にでもあるんだし、そう落ち込むなよ。次も同じことしないように気をつけような」
ナナシはその場にしゃがみ込んでジョンと目線を合わせ、彼女の頭を撫でる。
「うん。むこうも、ななしといっしょのじょういまほう、つかえることわかった。こんどあうときのために、たいさくしっかりかんがえておく、ね!」
「おう。頼んだぜ相棒」
「あいあいぼ~」
二人は握った拳同士をかち合わせ、ニカッと笑う。
「そしたらてはじめに、ななしにたてのつくりかたをおしえる。ます」
ジョンはそう言うと、腕を軽く振り上げて近くの木の枝を切り落とした。彼女は地面に落ちたそれを拾ってナナシに手渡し、彼の腕を掴んで茂みから出る。
「とりあえず、これでじめんにせんをひきながら、このむらをぐるっとする。ぞ」
「何だそれ? これから教えてくれることと関係あんの?」
「あんの。ちゃんといしきして、どんなみちをとおったか、かんがえながらせんひいてね」
ナナシはジョンに言われるがまま、湿り気の残る地面に枝の先を突き立てる。そうして、二人はどれほどの広さがあるかも分からない村の外周をぐるりと回り始めた。
一本の街道沿いに家が並ぶこの村は縦に細長く伸びており、ナナシとジョンが山犬と別れた地点はちょうどその東端だった。そこから約二百メートルほどを歩いていくと、もう一方の端にたどり着いた。折り返し地点だ。ジョンは十字のシンボルが乗った屋根を見上げてウンウンと頷き、街道を挟んで反対側に進路を移した。
二人は行きと同じく民家の裏手をこそこそと歩いて戻り、最初の場所に帰ってくる。ナナシが引きずる枝の先が線の起点につながった。
「はい。これでむらのまわりをぐーるりと、いっしゅうした。ました」
ジョンはナナシの腕を引いて線の「内側」に入り込んだ。
「なな、どこにせんひいたか、ちゃんとおぼえてる?」
「覚えてるぞ」
「では……そのせんのみぞに、じぶんのまりょくをながすいめーじをしてください」
「魔力を流す?」
「すなばで、かわをつくるあそび。みたいな?」
「うーん……いまいちイメージしにくい……」
ナナシは体ごと頭を傾げる。ジョンはどうしたら彼にその感覚を理解してもらえるかと、袖に隠れた手で米神をトントンと叩いてしばらく考え込んだ。
そして何かを思い出したように手の平を打つと、少し申し訳なさそうにしてナナシの手を握った。
「ななしにていあん。わかりやすくするために、ゆびをちっくんする」
「何? 血でも出すの?」
「オトーサンのろんぶん、よんだのにかいてあった。これしたほうが、いめーじできるかも」
「……ジョンが言うなら何でもいいけどさ。あんま痛くしないでくれよな?」
「ぜんしょ、します」
ジョンは袖の中から小さな手を出して、ナナシの人差し指の腹をちくりと刺した。わずかに裂けた皮膚の間から次第に赤い色がにじみ出し、丸く膨れ上がっていく。その玉が弾ける手前でジョンはそれまで上を向いていたナナシの手を裏返し、傷つけた人差し指がちょうど地面に掘った溝の上に来るようにした。
ナナシの指から一滴、二滴と血液がしたたる。
「このちが、せんをつたって……むらのまわりをいっしゅうするの。そういういめーじ。できる?」
「……たぶん」
ナナシは目を閉じて、指先の痛みを感じながら歩いた道を思い出す。家を何軒越えたか、どこで小石を迂回したか……ぬかるみを越えて、街道の乾いた土を抉り、木々の根の上を通って、始まりの場所へ……。
「まわったら、そこからはんきゅうの……ううん、せんからうすいかべがそそりたつさまを、おもいえがいて」
その壁をある程度の高さまで引き上げたら、最後に上から蓋をする。そんなイメージで魔力を放出してみろとジョンは言う。ナナシは言われた通りに壁を立ち上げ、天を覆う蓋を閉めた。
底のない直方体を上から被せた形で、ナナシの作り出した「盾」が完成する。
「すごーい。ななし、かんぺき~」
ジョンは出来上がった盾をぺちぺちと叩いた後、小さな氷の針をぶつけてその性能と強度を確かめる。ナナシも同じような仕草で盾に触れ、次いで光の針を作り出して適当に投げつける。
ナナシの魔法は盾を少し揺らめかせただけで消えてしまった。
「これ、ぜつえんたいみたいなもの。うちとそとでまりょくのいききできない。ななしがかいじょするか、とってもつよいしょうげきでこわさないかぎり、てっぺき」
「へぇ~。けっこう適当にやったんだけど、案外うまくいくもんだな……ジョンの教え方が良かったんだな、きっと」
「ぼく、ゆうしゅうなせんせいでしょ?」
いくらジョンの導きがあったとはいえ、魔法を一つ行使するのは言うほど簡単なことではない。
魔法のない世界から来たナナシの魔力操作は、まだ五歳かそこらの子どもと同じでたどたどしい部分があった。いま作り上げた盾にしろ、碩都での攻撃魔法にしろ、それでも何とか形にしてみせたのは、彼がジョンと記憶を共有していたからである。
ナナシはフラン邸の小屋でジョンと出会ったあの時、彼女が長く感覚的に行ってきた魔鉱石に頼らない魔法の使い方を、その記憶を見ることで身につけたのだ。
「いまは、ちじょうだけ。こんどは、じめんのしたにもてんかいするれんしゅう、する」
「はいよ~。了解しました先生。で? この後どうすんの? わざわざ村を囲んだんだから、何か他の目的があるんだろ?」
「あい。それなのですが、ぼくたちはこのあと、くらーなをめざします」
「クラーナ?」
「みなみの、しょうぎょうとし。そこに、ななしのうでをちょんぎったふたりをおびきよせて、ぼこるの」
その手段は未だ考え中だが、道中にやっておくべきことは決まっていた。
「それまでのあいだに、まりょくのちょぞう、やっておく。たぶん、あのきんいろのオネーチャンもくるとおもう。たいこうできるだけのちから、ためておかないと」
「えーっと……。とりあえずの疑問なんだが、金髪は男二人じゃなかったか?」
「ぼくのまほう、ふせいだほう。ななしとずっとたたかってたほう。オネーチャン、よ」
「そういや、色黒のガキが妹とか何とか言ってたような……?」
「あのひと、まりょくをたくさんもってる。なみたいていじゃ、かなわない」
「ジョンでも?」
「ぼくでも」
「……そしたらつまり、あっちについてる金髪娘がめっちゃ強いから、僕らはそれに対抗するために魔力を集めながらきたる決戦の地──クラーナに向かう。んで、手始めにこの村で魔力をいただく……ってことで、おけ?」
「そのとぉり」
ジョンはドクロのポシェットから金剛石を取り出すと、頭の上に乗せて近くの家に向かって走っていった。ナナシもその後について行って、玄関の前まで来る。
村の家々は玄関の足もとに明かりがついている以外は真っ暗だった。与えられた魔力を一定量ずつ消費して光る明かり石は、寝る前に魔力を足せばだいたい日の出の前後に消灯するようになっている。ジョンは家の住人がその蓄積量一杯まで魔力を注入したと仮定し、明かり石の容量と現在の魔力量とを調べて、就寝からどれくらいの時間が経っているかを計算した。
「……んーと。さんじかんはたってる、かな?」
「そんだけ経ってりゃもうグッスリだな。したらジョンさん……いつも通りお願いしますぜ」
「まかされよ~」
通常、民家の戸締まりには簡素なシリンダー錠のようなものが使われる。鍵とそれを差し込む鍵穴にはそれぞれ魔鉱石が組み込まれており、これらは同じ鉱石を二つに割って対にしたものである。魔鉱石には外部から注がれた魔力を魔法に変換する機構が組み込まれており、それぞれに特徴的な回路を持っている。その回路はどんなに似通っていようとも細部で異なり、一つとして同じものはない。この特性を利用したのがこの世界の錠前である。鍵と錠とで対となる魔鉱石を通じ、同じ回路を伝って流し込まれた魔力に反応して開く仕組みになっている。
ちなみにこれは、魔法は魔鉱石を介して行使されるという前提があっての防犯である。魔鉱石によらないジョンの魔法は、いわばマスターキーのようなものであった。
彼女は小枝を鍵穴に差し、ふっと息を吐くようにして微量の魔力を流し込む。たったそれだけ……ものの数秒でジョンのピッキングは完了した。
「さぁ、おにたいじのじかん。です」
最初のうちは足音を立てずに、慎重な足取りで廊下を進む。侵入者たちは寝室と思わしき部屋のドアを開け、明日に何の不安もないような顔で眠る夫婦を見下ろした。ナナシは手前で眠る夫の横に立ち、ジョンは奥にいる妻の横に立つ。
彼らは示し合わせたかのように互いに微笑みかけると、天井高く伸ばした手を勢いよく振り下ろした。風刃が夫婦の首を切り裂き、痛みのせいか覚醒した二人は目を大きく見開き、口を魚のように動かして……悲鳴を上げることすら出来ずに絶命した。
天井から赤い雫がポタリ、ポタリと落ちてくる。
そんな中でジョンは浴びた血を拭うこともせず、湿るベッドに上りついて二つの死体の間に座り込んだ。布団の中から夫婦の手を片方ずつ取り出して重ね、その上に金剛石を置く。
「どう? 上手いこといきそう?」
「うーん……できればむしのいきでも、いきてたほうがいいかも。なんかきゅーしゅーこうりつがわるいかんじ」
「そ。んじゃ次は致命傷は避けるとしよう。しっかしそうすっと、騒がれるかもな」
ナナシは無意識で死体の左腕を傷つけながら、ため息をつく。
「さわいでも、だいじょうぶ。どうせにげられない」
「ンエ? 何で?」
「もぉ~。ななしってばわすれんぼさん。さっき、たてでむらをおおったでしょ」
「アー? ああ、そっか。魔力の行き来ができないってことは、その塊みたいな人間も出ていけないってことなのか。ハッ! そして僕の使う魔法は上位の……。ははーんなるほど、そりゃ逃げられませんな~」
「にげられませんのぅ~」
キャッキャと笑う二人がその後に行ったのは、残虐極まる人狩りであった。
村は一夜にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
夜半を過ぎた頃には人の声もまばらになり、頭から足の先まで赤黒く染まった忌まわしき二人の男女は、奪った魔力を湛えて煌々と輝く金剛石を見下ろし、ニタリと笑った。
彼らは村の端までやってきて、逃げ延びた者がたどり着いた最後の砦──礼拝堂の観音扉をぶち壊し、恐慌に叫ぶ人々を一人ひとり丹念に壁に縫いつけ、魔力を奪い取っていった。その後は用済みとばかりに切り捨て、見向きもしない。
うごめく二人は教会の奥へと足を伸ばした。どこで誰が生き残っているか分からない。ごみはごみでも、なにひとつとして、むだにはしない……机の下に隠れていた男の耳元で少女がそう囁く。
甲高い悲鳴を上げた男はこの教会を預かる祠祭だった。彼は恐怖のあまり飛び上がって天板に頭をぶつけ、その振動で机の上に山積みになっていた書類をまき散らした。そのうちの一枚が少女と祠祭の間に落ちてくる。
彼女はそれを手に取り、ねっとりと糸を引く視線で眺めた。
「まじょ……」
「魔女? ってか、これどっかで見たことある顔だな」
上の方から男が少女の手元をのぞき込む。この世界の文字で手配書と書かれたその紙には、蛇のようにうねる黒髪の女が描かれていた。つり上がった目が恐ろしく、極端に低い鼻のせいでその顔は骸骨のようにも見え、口の隙間からのぞく鋭い牙が悪魔的な印象を与える。
「ななし、このひとおぼえてないの?」
「わっかんねぇ……」
「そかー。おぼえてないなら、しかたない。でも……まじょ……そらオネーチャン、ね。へぇ~」
ジョンは悪巧みを隠すようにして口元を手で押さえ、そのままナナシの耳元に近づいた。
「なな、ぼくにいいかんがえ。ある」
「何だ?」
「あのね~……」
彼女は祠祭が震える音よりも小さな声でナナシだけに内緒の話をする。
「うっわ……お前えげつないこと考えるな」
「まじょがどんなまほうつかうかなんて、みんなしらない。たにんのすがたをかりることも、できちゃうかもね……?」
ジョンは袖口で顔を覆い、はじめは笑顔だった表情を凶悪面に変えてナナシに見せた。
「何か面白そうじゃん。やったろーぜ」
「はーい。やるやるる~!」
そうと決まれば、最後の一人に関しては魔力を奪っても命だけは残しておかねばならない。二人は手配書と同じような顔をして祠祭を見やり、
「お前ら、よくもこんな似顔絵を描いてくれたな? 絶妙に似てるせいで、姿を変えざるを得なくなったじゃないか」
「よけいなこと、してくれたわね」
「この魔法、めちゃくちゃ面倒なんだぜ?」
キシシと笑い、わざとらしく台詞を吐く。
「ま。とにかくお前で最後だ」
「かくごしろー!」
ただの「録音」装置として使われた祠祭は頭を叩かれて気絶し、その間に魔力を吸い取られた。
二人は赤く輝く金剛石を片手にその部屋を出ていく。人の標本を張り付けた礼拝堂を抜け、文字通り血の雨が降った後のぬかるみを歩き、近間の家に入り込んで我が家のごとくその扉を閉める。
「すいぶん汚れちまったな。ちゃんと風呂入ってから寝ないと……」
「あさごはん、おやさいおおめにしてね。さいきん、ふそくしがちよ」
「へーい。お任せあれ、お姫様」
惨劇の終わりに、場違いなまでの和やかな会話が響いた。




