第5話 「彼について 2/4」
ソラは足下の猫を少しばかり気にした風にして、頭を振ると腹を決めたように衣類を脱ぎ始めた。服は洗う必要があるため棚のかごには入れず、足下にポイポイと落としていく。裸になったソラが散らかした衣類を持って顔を上げると、ちょうどケイも脱衣を終えたところだった。
ケイは一糸纏わぬ姿で、小さな鉱物を吊したネックレスだけを首に下げていた。その石は眼帯の下に隠れていた瞳の色と同じ金色であった。
ソラの視線はその鉱物から自然と下に向かい……どうしたって注目するのは規格外に大きな胸だった。いやしかし、立派なのは胸だけではない。
服の下に隠されていたその筋肉の量たるや、ボディビルダーとまではいかないまでも、それに近いものがあった。とにかく、外見の年齢からは想像もできないほど力強い肉体である。各所に少なからずある怪我の跡が、その印象をさらに強くする。特に目を引いたのは腹部にある四本の傷跡だった。平行に走るそれは獣の爪痕を連想させた。
「こら、あまりじろじろと見るものじゃないぞ」
言いつつも、ケイは見ろと言わんばかりに腰に手を当てる。
ソラは彼女の包み隠さないその振る舞いが、少しうらやましく思えた。
「先生があんまりにも堂々としてるんで、ちょっとびっくりです」
「そりゃあ伊達に冒険家をやってないからな。名誉の負傷というわけじゃあないが、これは私が頑張った証なのさ」
「頑張った証……」
ソラは腕に抱えた服で隠した傷を見下ろして、当時の苦痛を思い出す。それに耐えた証拠だと考えれば、ソラのそれも「頑張った証」と言える。
彼女は衣類を片腕にまとめて抱え直し……さすがに自ら傷跡を見せつけるようなことはしないが、隠すのはやめることにした。
「具体的に何をどう頑張ったのかって話は、まぁ今後の雑談のために取っておくとして。今は風呂に入ろう。カシュニーも暖かいとは言え、こんな時間だとさすがに肌寒い」
「確かに、下手すると風邪引いちゃいそうです」
ケイは足が悪いソラの手を引き、浴室のドアを開ける。
浴槽から立ち上る湯気がうっすらと室内を覆う中、二人は洗い場まで歩いていって体を清めた。髪もさっと汚れを流し、服を洗うのは温まってからにしようということで、ソラとケイはそろって湯船の中に足を入れた。
少し熱めに入れた湯が肌をじわじわと温めていく。ソラは髪をタオルでまとめ上げ、肩どころか口元まで浸かる。気持ちよさそうに目をつむる彼女の横で、ケイが正面を向いたまま問いかけた。
「ソラ。少し立ち入ったことを聞いてもいいかい?」
「話題にもよりますね」
「それじゃあ、話したくなければ黙っていてくれて構わないんだが……。キミはエースの記憶を見たのかな?」
「ええ、まぁ。見ましたけど……」
「それじゃあ、あの日の出来事も?」
「……あの日と言っても……その、答えを間違いたくないので具体的に聞いてもらえますか?」
「ああ……そうだな。すまない。正確に言えば……」
それでもケイはその日の出来事をはっきりとは口にしたくないようだった。
「いや、質問を変えよう。あの子の菜食主義の原因について、知っているかい?」
「……彼は本来であれば植物の命も犠牲にしたくない。そう思う理由は、発端も顛末も知ってます」
「そうか……」
命を取るのは最低限、植物からのみというエースの誓い。ソラはその真実を知っていた。まるで自分のことのように、彼が抱える苦しみを理解していた。
「……」
ケイは眉間にしわを寄せ、湯気で曇った天井を見上げた。その横顔を見つめ、ソラは呟く。
「先生は最善を尽くされたと思いますよ」
「……だが、正解ではなかった。私も、スランも」
「それは、そうかもしれませんが……」
けれど他にどうしようもなかった。スランはきっと、自分をひどく責めただろう。我が子が生きる気力すら失っていることを見抜けなかったと。そして、血はつながらなくとも兄妹のことを大切に育ててきた彼のことだ……エースを追い詰めた女学者を恨んだに違いない。
彼女がいなければエースはこんなことをしでかさなかった。
彼女がまともであれば、こんなことにはならなかった。
ソラがエースに対して抱く感情はスランのそれに近い。だからだろうか、彼が事件を隠蔽したことに関しては理解を示すことができた。
だが、ケイはどうだろうか?
「先生はエースくんのこと、どう思ってるんですか」
エースの記憶を見たソラは、ケイの性格についてだいたいのところを把握していた。彼女は常に公正かつ公平で、何事にも平等に接し、その口で発する言葉はいつも正しい。本人もそれを自負しており、そうであるが故に彼女はソラの問いに言葉を詰まらせた。
ソラは彼女の無言をさして気にせず、自分の言葉を続ける。
「私は、彼は悪くないと思ってるんです」
「……そうは言っても、あの子がしでかしたことは罪悪だ。償う必要がある」
「彼はもう十分、代償を支払っていると思いますが……」
「なに?」
つい、ぽろりと出てしまったソラの言葉に、ケイは語気をやや強めて聞き返す。一方のソラも、しまったと言わんばかりに顔をしかめた。言えば彼女の気分を害すると分かっていたのに……互いに裸を晒しあっているせいだろうか、どうにも正直すぎていけない。
とは言え、既に口から出てしまった言葉は撤回のしようがなかった。ソラには発言の根拠を述べる必要があった。
「エースくんが今もなお支払い続けている代償……。彼は人を愛せない。自分を愛せない。人の心が分からない。信用できない。自分さえも信じることが……できないんです」
これはおそらく、ケイさえも聞いたことのないエースの心情だ。他人である自分が彼の感情を勝手に語ってしまっていいのかという戸惑いはあったが、一度話し始めてしまうと言葉は止まらなかった。
「エースくんはあの学者を憎むあまり、彼女が在籍していた魔法院さえも憎んでいる。そして彼はそんな自分が間違っていると分かっている」
そうと分かっていても、感情は思い通りにならない。どうしようもない思いを抱えて、それをどうにもできない自分に絶望している。
「彼は自分を無能だと思っている。あんなにも才能にあふれているのに、何一つ彼の自信にはならない。己を無力だと思い込んでいる」
まだ二十一歳という若さで、この先いくらでも可能性が転がっているというのに、それを掴み取れないと思い込んでいる。
否、掴み取るべきではないと思っている。
自分にそれは許されないと。
菜食主義を貫くのも罰の一つだ。もう何一つ、自分以外の命を奪ってはならない……そう決めている。本当だったら植物の命だって摘みたくはない。けれどそうなると本当に食べるものがなくなってしまって、ついには自分が死んでしまう。エースとしてはそれでも構わないが、そうすると今度は、息子を救えなかった事実に押しつぶされて養父がどうにかなってしまう。
この上、父まで殺すことはできない。
どうしたって生きているしかない。生きて、苦しんで、何も残せないままいつか死ぬのを待つしかない。
「これがどれだけ辛いことか、分かります? 死んだ方がマシなくらいの地獄ですよ。あのクソ学者はそれだけの傷をエースくんに負わせた。だから……」
あんな女、死んで当然だ。
さすがにその言葉は飲み込んだが、考えは言外に表れていたことだろう。ケイはさらに眉間のしわを深くし、ソラもまた顔をくしゃくしゃに歪めていた。
ソラは自分の傷跡を手で覆い隠し、俯く。
「私はまともな大人じゃありません。色々とあって何もかも面倒になってしまった。何をしたって意味がないように感じられて、全てを放り出して逃げ出したろくでなしです」
「ソラ……自分のことをそんな風に言うもんじゃ──」
「でも、そんなだから言える。先生にもスランさんにも、エースくん自身にも言えないことが言える」
どうせ何もできやしない。死んでしまえば全てが無駄になる。何をしたって──掴んだって、結局最後には指の間からこぼれ落ちていく。
どう生きたって、この先にはきっと何もない。
自らの人生をそう理解しながら、ソラはその実、そんなことがあってたまるかと強く思っていた。と言っても、それは自らを奮い立たせ逆境に立ち向かうような、まっとうな感情ではない。彼女のそれは子どもじみた癇癪であり、他人への嫉妬や、己への不満、呪い……どちらかと言えば負の感情が渦巻いて膨れ上がった、諦めの悪さだった。
そういった実に自分勝手で利己的な感情を持つソラだから、彼女はその思いを一切の躊躇もなく言ってのけた。
「エースくんは悪くない。彼のせいじゃない。あの女が悪い。因果応報ってやつです」
「ソラ、キミは……」
「そりゃあ、さすがに彼の行いが正しかったとまでは言いませんよ。でも──」
「それでもキミは……キミの言葉は間違っている」
「ええ、そうでしょうね。分かってます。だけど貴方だって、人のことは言えない。ケイ先生、貴方は一度……彼が辛い思いをしていた時に、一緒に旅に連れて行ってくれと頼まれたことがありますよね?」
「……ああ」
「貴方はそれを──」
「危険だから、子どもの世話まで手が回らないからと言って断ったよ。皮肉なものさ……方便のつもりが実際に手が回っていなかったんだ。私はエースが置かれた状況を見抜けなかった。元気がないのは分かっていたが、ただそれが分かっていただけで何も見ていなかった」
「……」
「あの時、私が気づいて連れ出してあげていれば、もしかしたらあんなことにはならなかったのかもしれない」
「そう。そうすべきだった。先生、貴方は彼を連れて……」
そこで言葉を切ったソラの心境がどのようなものであったかは筆舌に尽くし難い。
ケイが己の責任を感じていることをくみ取っての優しさだったのか。彼女も己の過ちに苦しめばいいと思っていたのか。はたまはケイの心情など知ったことではないと放り出したのか。
何にせよ、
「私は……彼じゃない……」
ケイが声を掛けてやるべきは、ソラにではない。
ケイに対して「どうしてあの時助けてくれなかったのか」と詰め寄るべきはソラではない。それは本人がそうしないからといって、他人が代わりにしてやるようなことではない。
赤く燃える感情を落ち着かせ、ソラは大きく深呼吸をして気持ちを切り替えた。彼女はふっと息を吐いた延長線で、穏やかな声でケイに話しかける。
「先生」
「……何だ?」
「エースくんのこと割と心配なんで、この先どうなるにせよ、しばらく同行してもらえませんか」
「私はもとよりそのつもりだったが……。キミはそれでいいのか?」
「はい。私自身も今の状況にいろいろと手一杯で。自分より年上のしっかりした大人がいてくれると、気が楽なんですよね」
「ソラ……」
「何です?」
「私でよければいつでも話を聞くよ。遠慮なく頼ってくれ。いつでも、夜中でも、早朝でも。寝ているところを叩き起こしてくれたって構わない」
「……」
「私はキミの味方だ。本当だよ。出会ったばかりでこんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが……」
エースの異変を見逃していたことを知ってからというもの、ケイは対話と傾聴の姿勢を心がけるようにしていた。彼女は湯から引き上げた暖かな手でソラの頬に触れる。スランと同じように目を細め、自分の後悔を見つめる。
そんな彼女を横目に……ソラは平静を保ったまま首を左右に振った。
「大丈夫ですよ。先生が信頼できる人なのは……私、ちゃんと知ってますから」
これまでのソラであれば、女だてらにイケメンなケイの仕草に胸を押さえて奇妙な声を発するところだが、エースの記憶が少なからず影響しているのか、彼女の感情は特に動きを見せなかった。
それはソラ本人さえ気にとめない些細な変化だった。そのため、まだ彼女のことをよく知らないケイは気づきようがなかった。
「そしたら今度でいいんですけど、一つだけお話を聞いてもいいですか?」
「ああ。何かな?」
「先生の血液型の話です。どうしてオーマイナスなんて言ったのか……もし聞いていいのなら、その理由を教えてほしいんです。けっこう気になってることなので」
「ああ、そうだったね。別に構わないよ。しかし……どうせ話すなら皆にも聞いてもらった方がいいだろう。ノーラが来るあたりがちょうどいい機会かもしれないな。それまで待っていてくれるとありがたい」
「分かりました」
ソラが頷くと、ケイが湯から上がった。ずいぶんと長話をしてしまった。それから二人は衣類の洗濯を済ませ、もう一度よく温まった後で浴室を出た。




