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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第三章 クラーナ
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第4話 「彼について 1/4」

 それはまるで湖の底から水面を見つめているかのような夢だった。曖昧であやふやで、しかしながら確固とした根拠のある夢だった。


 低い視線で暗い廊下を進んでいくと、居間の扉が開いていた。その隙間から、明かりと一緒に声が漏れてくる。


「夜盗の仕業にするだなんて、どうりで村の人間が山狩りだ何だと騒いでいるわけだよ。何だってお前、そんな嘘を……」


「それじゃあお前は、あの子に裁きを受けろと言うのか? あの子は何も悪くないのに」


「言いたいことは分かるが、それとこれとは違うだろ。悪くないなんて、そんなこと……」


「分かってるよ、最悪の罪を犯したことは。私も……あの子もそんなことは分かっているんだ……」


「ああ、そうだろうな。それでどうしたんだ、遺体の方は……」


 力強い女性の声がそう言って、苛立ちを含んだため息をつく。


 俺──わたし……、ソラは居間のドアを開ける少年の背中を見ていることしかできない。彼は大きな青い瞳を深海に沈めて、止めどなく溢れる涙で頬を濡らしながら、ひたすら己の罪を詫びる。


 ごめんなさい──殺してしまったあの人に。


 ごめんなさい──こんなことをしでかして、迷惑をかけてしまった養父に。


 ごめんなさい──浅はかで愚かな弟子を持ってしまったと、失望した師に。


 ごめんなさい──それはもう、誰に、何に謝っているのかも分からず。


 彼は強く在ることができなかった自分を、困難を乗り越えられなかった自分を、誰にも何も言えなかった自分を責める。ソラは、そんな少年を思わず抱き寄せ……。


「……」


 頭が覚醒した後のほんの一瞬、胃からせり上がってきた吐き気を唾と一緒に飲み下して、ソラは目を開いた。見上げた天井は薄ぼんやりと明るい紺碧に染まっていた。


 海の底に沈んで、水圧で押さえつけられているかのように体が──いいや、胸が重い。そんな重量を感じるものはくっついていなかったはずだが……と、ソラは視線だけを動かして違和感の原因を探る。


 それはすぐに見つかった。


「ネコチャン……」


 まさしく猫が胸の上に丸くなって寝ていたのである。黒い毛並みが寝息に合わせて上下している。


 ソラが肘を突いて上半身を起こすと、その黒猫はずるずると腹の方に滑っていって、やがて完全に上体を起こしたソラの太股の上に収まった。


 にゃーん……と喉をふるわせ、猫が口をもぐもぐと動かす。


 窓の外はもうすぐ朝日を迎えようというところだった。かすかに鳥の鳴く声が聞こえる。


「やあ……、起きたのか?」


 唐突に、夢の中でも聞いた声がソラに話しかける。


「……おはようございます。ケイ先生」


「ああ。おはよう、ソラ」


 ケイはベッドの隣に椅子を持ってきて、そこに座って毛布を被り眠っていたようだった。


 彼女は立ち上がり、肩から落ちた毛布を畳んで椅子の背もたれにかけると、大きく伸びをしてあくびを漏らした。


「頭痛は治ったかな?」


「はい。それはもうすっかり。ところで、この猫は何なんです?」


「それか? ロカルシュが夜の監視代わりに置いていったんだ」


「猫で監視ですか?」


 ソラが疑問に思っていると部屋のドアが開いた。早朝の静けさに遠慮しているのか、ノブを捻った人物は隙間から小さく声をかけてきた。


「おはよー魔女さん。この通り、にゃんこから報告を受けて様子を見に来たんだけどぉ、元気になった?」


「……なるほど。ロッカくんの能力があれば、ぶっちゃけ人間が側に付いてなくてもいいわけなんだ。すごいね」


 ロカルシュは隣の部屋で寝ていたところを、猫からソラの起床を知らされて顔を見に来たらしい。ソラはドアから顔だけをのぞかせる彼に手を振って体調の回復を伝えた。


「あのね、洗濯当番の人が言ってたんだけど、魔女さんが元気になったら布団を取り替えたいんだって~」


「うん? こんな朝っぱらか──」


「あとねー、魔女さんにお願いがあるんだけど」


「……はいはい。何でしょう」


「お風呂に入ってほし~い」


 その間にロカルシュの方で寝具を取り替え、ササッと部屋の掃除もしてしまうと言う。


 その提案を受けてソラは気づいた。倒れてから一日半ほどが経っているのに着替えも入浴もしていないのだ。そんな状態でベッドを使っていたことに思い至り、その洗濯を担当するであろう騎士に申し訳なさがこみ上げてくる。


「今の時間帯ならお風呂も使ってる人いないと思うしぃ。さすがに私までついて行くわけには行かないから、その黒にゃんこを連れてってねー」


「猫って水が苦手なんじゃないの?」


「その子はお風呂好きだってー。一緒に入れてあげてよ」


「そうなんだ。ならいい──って、ちょっと待った。そう言えばキミって普段からフクロウさんの視界を借りてるんだったよね?」


「そうだけど? ……アッ! そっか。あのね、にゃんこさんとは視界を共有してないし、何か変なことがあったら言葉で教えてもらうだけだから。魔女さんが心配するようなことはないよー」


「いや、でも。ねぇ……?」


 しどろもどろになるソラに、ロカルシュは虚空を見上げて何かを考える。そして、最適な回答が思い浮かんだのか、彼はぽんと手を打ってソラの前まで歩いてきて、その太股の上で丸くなっている黒猫に手を伸ばした。


 猫のわきに手を差し入れ、彼女の白い腹をソラに見せる。


「魔女さんってにゃんこのお腹に興奮する人~?」


「……」


「私は特に何も感じない人!」


「えーっと。それは……普通は猫のお腹を見ても興奮しないでショ。私にとってはそれと同じぃ~。って言いたいの?」


「そゆことー。私からしたら人間もにゃんこもみーんな同じ動物だし。そういうシタゴコロ? とかはないんだから」


 彼はさも当然のように「下心がない」と言うが、それはそれで生き物として問題があるように感じるのはソラだけだろうか?


 ソラは意見を求めるようにしてケイに視線を向ける。すると彼女も同じような心配をしているのか、少しばかり眉をひそめてロカルシュのことを見ていた。それを知ってか知らずか、ロカルシュは猫の背中に顔を埋めてわざとらしく声を震わせた。


「これ以上疑われると私、悲しくなっちゃうかも。ウウ……ッ」


「わ、分かった。分かりましたって」


 ベッドのそばにしゃがみ込んだロカルシュは猫の毛並みの間から顔を覗かせ、上目遣いでソラを見る。


「分かってくれた? 本当に……?」


「うん、ホント──」


「そ? じゃあお風呂行ってきてねー。ほらほら早く早く~」


 相変わらずの手のひら返しに辟易しつつも、ソラは促されるがままベッドから出て、杖を突いて黒猫と一緒に部屋の出口へと向かう。


 その後ろにケイも続いた。


「そしたら私もついて行こう。風呂は昨日借りたから勝手も分かっているしな」


「ああ……そういえば私、お風呂のある場所も知らないですね?」


「魔女さん、知らないのに一人で行こうとしてたのー?」


「うん、まぁその……キミが急かしたからなんだけど」


「急かした? そうだっけ? 魔女さんってば、なーんかまだ寝ぼけてるのかもよ~」


 それはキミの方ではないのか、という突っ込みはひとまず置いておくとして。


「ひとっ風呂浴びれば目も覚めるさ。顔は一応ベールで隠して、人が来ないうちに行ってしまおう」


 ケイはそう言ってソラの頭に布をかける。扱いが保留になったとは言え、露出はなるべく避けた方がいいのはその通りだ。


「服はお風呂で洗濯してねー。体とか拭くのは脱衣場に新しいのあるからそれ使って~」


 そう言ってロカルシュはドアから顔だけを出して二人を送り出した後、掃除を始めるべく腕まくりをして部屋に戻っていった。


 ソラは空いている方の手でベールを押さえて万が一にも顔が見えないよう注意し、ケイの横にひょこひょことついていく。膝の痛みは相変わらずだ。足下を歩く猫は三本足で歩く人間が珍しいのか、絡みつくようにして側をうろうろとしている。


 ソラは歩調を合わせてくれているケイを見上げ、聞いた。


「先生は私のこと、どのあたりまで知ってるんです?」


 昨日、彼女の前で魔女だ何だという話をしてしまったし、ソラは既に自分の正体が知られていると分かっていたが、一応確認を取っておきたかった。


「騎士殿がキミを魔女と呼ぶ理由は聞いたよ」


「聖人の資質があることも?」


「それもジーノから聞いている。そういえばその話をしているときにも、あの子と小騎士殿とでケンカになっていたな」


「ジーノちゃんって、割と自分の意見は通すタイプですからね。頑固っぽいところもありますし、それでぶつかっちゃうのかな」


「かもしれないな」


 昨日の今日でその有様がまざまざと想像できてしまったソラは苦笑するしかなかった。止める人間がいないところでなら、あの二人は本気で殴り合いのケンカをし始めるかもしれない。ソラは自分の中にあるジーノの美少女像を崩さないためにも──というか、心臓に悪いあの般若のような顔を二度と見ることがないように、彼女をセナにあまり近づけないようにしようと思った。


 そうこう話しているうちに、二人は目的の風呂場へと到着した。


 宿舎は基本的に男所帯であるが、女性がいないわけではない。そのおかげか風呂場は男女できちんと分かれており、ケイは迷わず赤い札がかかった方に入っていった。靴を脱いで入った脱衣場の大きさはざっと見た感じで、ソルテ村の教会と同じくらいであるようだった。ちなみに、浴室も同様である。


「まずは湯を沸かさないとな」


 給湯の仕組みは大陸内であればどこも同じだ。壁に設置されているパネルに手を置いて魔力を送り込み、外部の釜に水を供給して湯を沸かし、浴槽に張るなりして湯浴みに使うのだ。


 ケイは浴室内のパネルに手を置いて、次いで給湯口を開けて浴槽に湯を張り始めた。


「それほど時間はかからないと思うが、溜まるまでは待機だな」


「分かりました」


 脱衣場に戻ってきたケイはソラにそう言い、隅に置いてある椅子に腰掛ける。二人は浴槽に湯が流れ込む音を聞きながら、しばらく無言になった。


「──そだ。お風呂で服を洗うのはいいんですけど、そしたら私、乾くまで着るものなくないですか? どうしよう……」


「それなら心配することはない。私が乾かしてあげよう」


「先生が乾かす?」


「ん? ジーノにやってもらったことは──って、そうだった。あの子はそういう細かい魔力操作が苦手なんだったな」


 衣服や髪の乾燥は風と炎の魔法を応用するのが通常らしいが、ジーノはそういった細々した魔法が苦手なのだと言い、ケイは仕方なさそうに微笑んだ。


 その話をきっかけに、ソラの頭の中に一つの「記憶」が浮かび上がってきた。いつのことだったかは思い出せないが、彼女は自分の髪の毛を燃やすという失態を演じて以来、怖くなって魔法で何かを乾かすことをやめたのだった。


 これまでずっと自然乾燥だったのはそういうわけかと、ソラは一人納得する。


「じゃあ、乾燥は先生にお願いしようかな……」


「うむ。存分に任せたまえ」


 それからはまた、少しの沈黙だった。


 そうして安静にしている間も、ソラの膝はじくじくと痛み続けていた。彼女は少し前屈みになって膝をさする。それを見ていたケイが顎に手を当てて首を傾げた。


「そういえばキミは膝を痛めているんだったな。原因は分かっているのか?」


「たぶん教会でのお祈りが原因じゃないかと思います。日中ずっと膝立ちっていうのもなかなか辛いもんですね。治りきる前にまた次のお祈りとかやってたんで、そうなると悪くなる一方で」


「ちょっと見せてもらってもいいかな?」


「ええ、どうぞ」


 ソラは下穿きを脱いでケイに患部を見せた。左足は痛みも腫れも治りかけているが、右は未だに腫れが残っており、鈍痛がある。


「左はもう平気なんです」


「そうか。左は……うん、これはまぁ問題ないだろう。右の方は、見た目だけならそれほどでもなさそうに見えるが……。これ、安静時も痛むのかな?」


「割と四六時中そうですね。でも、痛くて眠れないってほどではないです」


 ひょっとすると、ソラの重心は右側に傾いていて、自然と右足に体重がかかるようなことになっていたのかもしれない。そのせいで片側だけ治りが遅いということもありえる。


 そんなことを考えるソラの一方で、ケイは眼帯を外すと彼女の正面にかがみ込んで患部に手をかざした。その指には医療用の魔鉱石がはめ込まれた指輪があった。


「少し、患部に触れるよ」


 指輪の魔鉱石が強い光りを放ち、するとソラは膝に異物が挿入された感覚を覚え、思わずウッと声を上げた。痛みはない。だが、内部を直に圧迫されているような、奇妙な感覚がある。


「驚かせてすまない。今はキミの体内の魔力循環を診ているんだ。怪我や病気といった体の異変と、魔力の循環との間には密接な関係があってね。その滞り具合によって目に見えない部分の損傷を把握することができるんだが……」


「えっと……エースくんの夢で見たような? 確か自分の魔力を相手の体内に送り込んで、見えない手で触診をするような感じでしたっけ?」


「だいたいそんなところだな」


「にしてもこれ、結構……神経ザワザワしますね」


「ほう? この手法でそれほど違和を感じる患者はいないのだけどね。持っている魔力が異なるキミは、特別敏感なのかもしれないな」 


「ですね。何か……あのナナシとかって人は上位魔法とか言ってましたし。そしたら、エースくんに魔力を使われた時に心臓を掴まれたみたいでめっちゃ痛かったのも、同じようなことだったのか」


「あの子は魔力を中和する魔鉱石なしでこれをやったからな。あんな切迫した状況では手ずからの構成式で完全に魔力を中和することなんてできるわけがないんだ……。キミには本当に大変な負担をかけてしまった。私からも謝罪するよ。すまなかった」


「い……いえいえ……」


 確かに痛くて死ぬ思いはしたが、ソラが魔法を使えていればそんな苦痛も味わうことはなかったろうし、エースにも負担をかけることはなかったのだ。だというのに謝られると、何となく居心地が悪くなってしまう。


 ソラは視線を泳がせながらケイに聞いた。


「それで、膝の具合はどんなですか?」


「んー……」


 彼女は唸って黙り込み、「後でもう少し詳しく調べてみよう」と呟いて腰を上げた。


「え? それってどういう──」


 普通の腫れではないのか?


 問いつめようと立ち上がったソラであったが、膝に痛みが走り前のめりに倒れてしまう。ケイが抱き留めてくれなかったら、床に顔面をぶつけていたところだ。


「いきなり立つと危ないぞ?」


「す、すみません。でも……」


「お? どうやら湯が溜まったようだな」


 ソラをしゃんと立たせた後でケイはそう言い、直後に何の戸惑いもなく服を脱ぎ始めた。


 それとなくごまかされた気がする……ソラは半眼で彼女を見つめた。これ以上は問いつめても無駄なようだった。

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