第2話 「青の天井 1/2」
吐き気とともに目を覚ました彼は顔をわずかに動かして、辺りを見渡した。乳白色の天井が赤く染まっている。壁の明かり石が淡く光りを放っていたが、天井を染めるのはその光ではない。視線を横に移動させると、赤々と燃える空が窓枠に切り取られていた。
夕刻。
見慣れない部屋での覚醒。
彼は警戒を強めながら窓と反対に顔を向ける。そこには寝台の縁にもたれて眠るジーノがいた。一見すると穏やかな寝顔だが、目元にわずかな疲労の跡があった。
大切な、何よりも大事な宝物。
彼は思うように動かない体を横に返して顔を彼女の方に向けた。泥を掻くように緩慢な動作で腕を上げ、その柔らかな頬に触れる。
「ジーノ……」
話しかけると、ジーノは瞼を縁取る金の睫毛を震わせて、澄んだ色の瞳を覗かせた。
「……あ、えっと。これは……」
ジーノは夢の中でも誰かに呼ばれていたのか、彼女は目の前で微笑む彼が現実のものなのか確かめようと、頬をつねった。
「痛い……ということは夢ではないのですね。よかった……」
「うん、現実だよ。ところで……ジーノの方は大丈夫?」
「私ですか? ええ、無事です。どこにも怪我はありません」
ジーノは彼の言葉にどこか違和感を覚え、きょとんとした顔になる。だがその奇妙な感覚の理由に見当がつかず、彼女は首をひねりつつもその問いに頷くしかなかった。
その様子を見ながら、彼は肘をついて上半身をゆっくりと起こし、ひざを曲げて寝台の縁から下ろす。
やけに体が重い。
まるで内臓に目一杯の砂を詰め込んだような重さに、彼は顔をしかめる。それでも立ち上がろうとすると、ジーノはそんな彼の肩を押して、寝台の上にとどまらせた。
「いきなり起きては駄目です。丸一日眠っていたのですから……」
「ジーノ」
「え? あの……?」
ジーノはやはり釈然としない表情で相手を見つめる。その顔を見た彼も、同じような表情をして首を傾げる。
「どうかした?」
「いえ、その……どうにも様子がおかしくて……」
「様子……? いや、それよりも……あの女に何かひどいことを言われてないかい? 辛い思いはしなかった?」
「女ですか? 誰のことです?」
「いや、分からないならいいんだ。お前が無事なら、俺はそれで……」
「やはりどこか変です! ケイ先生たちを呼んできますから、じっとしていてくださいね、──様」
「……?」
彼はその名前に聞き覚えがなかった。
「何を言ってるんだ? 俺は……、おれは……」
自己を呼ぶための単語を発しようとして、はたとそれが分からないことに気づく。だんだんと目の色を失って、表情もなくして俯いていく相手に、ジーノはいよいよ血相を変えて部屋を出ていった。
ジーノが隣の部屋に駆け込む間、彼は一人、寝台の上に取り残された。何の気なしにそばの机に視線を向け、そこに置かれている花瓶に目を留めた。丸まった側面に、湾曲した自分の姿が映っている。
「あ、れ……?」
花瓶に映る間延びした顔。それは見覚えがないようで、どこか馴染みのある顔だった。
眉を隠す癖の強い黒髪。
眠たそうな茶色の瞳。
少しやせ気味の、角の丸い輪郭。
この顔を、見たことがある。
どこかで。
一体、どこで?
彼女は顔から続いて全身をくまなく探って、頭の中にある自分の姿との差異に顔を青くしていく。
「俺、じゃない。私……?」
うろたえていると、部屋の扉を勢いよく開けて一人の青年が入ってきた。それに続いてケイとジーノ、騎士も二人ほどなだれ込んだが、彼女の視線は青年に釘付けになっていた。
金髪の、青い目をした。頭の中に思い描いた自分が、向こうからやってくる。
青年はジーノが呼んだのと同じ名前を口にして、表情のない彼女の肩を掴んで揺さぶった。
柄にもない。自分はそんなことをするような人間ではないのに──と、どこか他人のように目の前の青年を見つめながら、彼女はされるがままになっていた。
「こら、エース! 病み上がりの人間をそう乱暴に扱うんじゃない」
「でも……!」
「いいから離れなさい」
そう言って青年を押し退けたのはケイだった。
「ちょっとキミ、自分の名前を言ってみてくれないか?」
「わた……し。私は……」
「焦らなくていいんだ。ゆっくりと思い出してみてごらん」
ケイは落ち着き払った様子で、優しく微笑む。
彼女は問われた事に対する答えを探した。
「私は……」
誰なのか。名前は何なのか。
彼女はよくよく考えてみて、自分が何者か分からないことに気づく。つい先ほどまで自分が誰のつもりだったのかも分からなくなっている。彼女は混乱してバラバラになる思考を何とかしてまとめようとして──それなのに、腕に抱えた情報がどんどん足下に落ちて散らばっていくのを感じていた。考えれば考えるほど、思考は秩序を失っていく。
誰だ。だれだ。ダレダ。
わたしはだれだ。
そんな簡単なことさえ分からない。たった数文字の単語が口から出てこない。
──貴方はそんな簡単なことさえできないのね……?
聞きたくない声。聞こえるはずのない声。その喉笛を引き裂いたはずなのに、記憶の奥からあの女学者が語りかけてくる。何もできない。頭でっかちの出来損ない……と。
「おれ……、は……」
問いかける度に吐き気が強くなっていく。彼女はその不快感を耐えるようにして掛け布団の端を握りしめた。
その手に、やんわりと添えられる華奢な手があった。
指先から腕をたどってその手の人物を見ると、それはジーノだった。
彼女は柳眉を寄せて苦しげな顔をしていた。
「……違う」
お前のそんな顔は見たくない。ジーノには笑っていてほしい。ずっと、汚らしいことなんて何一つ知らないまま、純粋に、きれいなものだけを見てほしい。
そうなると、彼女はジーノに自分の手を握らせているわけにはいかなかった。血に汚れたこの手をさっさと引っ込めなければならない……分かっているのに、彼女はその手を布団の中にしまうことができずにいた。
己の優柔不断さを詫びるようにして彼女はジーノを見やり、晴れ渡った空のように青いその瞳を見つめた。
「青い……、空……」
途端、頭の中を占拠していた学者の声がかき消えた。それと同時に、脳裏によみがえるいつぞやの光景──ジーノと初めて出会ったときも、同じ様にして自分の名前を思い出していた。
「ソラ……」
いつも通りの締まりのない笑顔が、その顔に浮かぶ。
「私の名前は、ソラ……です」
「そう、キミの名前はソラだ。ここがどこだか分かるかい?」
「ここは……」
ソラは室内を見回し、天井までも見上げてから首を振った。
「ここがどこかは分かりませんが……私が最後にいた場所はカシュニーだったと記憶しています」
「それで正しいよ。ここはカシュニーの騎士宿舎なんだ。そうしたら、次はここにいる人間の名前を言えるかな?」
ソラはケイの問いにはっきりと答えていく。
今も自分のことを心配そうに見つめてくる金髪碧眼の男装美少女。彼女の名前はジーノだ。その隣で同じ様な顔をしてソラを見つめているのが彼女の兄、エースである。そして部屋の入り口近くには、怪訝な顔でソラを見る浅黒い肌の少年と、目を閉じた色白の青年がいる。この二人は確か、自分を追跡していた騎士であったはずだ。
最後に目をやった相手は、眼帯をつけた壮年の淑女──。
「私のことは分かるかな?」
「分かります。ケイ先生、ですよね……? エースくんのお師匠さんの」
「その通り。落ち着いてきたようだな」
「ええ。記憶が混乱していたようです」
ソラは若干痛みが残る頭をさすりながら、ケイの言葉に頷く。何とかして自己を取り戻した彼女であるが、自分のものではない記憶は今も変わらず頭の中にあった。
それが誰のものなのかは、本人に確かめるまでもなく分かっている。
「エースくん、キミは──」
喉元に剣を突き立てた生々しい感覚……それはおぞましい呪いか何かのようにじっとりとソラの手に張り付いていた。
ソラの視線を受けたエースは彼女から顔ごと目をそらす。どこか重苦しい空気が漂う中、ケイだけが明るく振る舞う。
「いやぁ、エースも起きた時に似たような譫言を言っていたから、もしかしたらとは思っていたんだが……。まぁ、キミがきちんと戻ってきてくれてよかったよ」
「それは私も同感です。っていうか、あれは何だったんだろ? 夢というにはあまりにリアルすぎたし、私はエースくんになってたっぽいし……」
「それはだな……治療の際なんかに魔力を譲渡するとき、まれに施術士の記憶が患者に流れ込む事例があるんだ。記憶の共有と言われている現象だが、それが重症化すると──」
ケイは言葉の続きをしばしためらった。
便宜上、治療行為の副作用を例に取って話したが、実際にはもっと深刻な状況であった。ソラだけではなく、エースの身にも起こった異変──それは下手をすれば人格の統合、あるいはその塗り替えに至っていたかもしれない危機だった。その事実はきちんと伝えなければならない。
しかしそれを伝えた時、ソラがどんな反応を示すか……出会って一日、数回言葉を交わしただけのケイにそれを予測することは難しい。危険な行為を強行したエースに対し、ソラは恐怖心を抱くのではないか? あるいは彼を責めたりするようなこともあるかもしれない。その点が心配だった。
けれど、そこを曖昧にしてまた同じことを繰り返すようなことがあっても困る。ケイは極力ソラを脅かさないよう気をつけて予測を語った。
「今回はその症状がより強く生じたと思われる。エースがやった魔力の徴発という行為は、非常に危険な手段だったんだ。魔力を中和する魔鉱石がなかったこともあって、かなり強引な構成式で自分の魔力をねじ込んで、キミの体からその魔力を無理矢理に引っ張り出したわけだからな」
しかもエースはその引き出した魔力をソラ本人に使わせたのではなく、自分の体に充填させて己の魔力とし、魔法を放った。これはソラだけではなく、エース自身にも多大な負担がかかる行為だった。あんな状況で仕方がなかったとは言え、二度とやってほしくないことだ。
ケイは静かにエースの方を見る。
彼は申し訳なくて顔も上げられないようで、床を見つめたまま答えた。
「一歩間違えばソラ様がソラ様でなくなっていました……お詫びする言葉もありません……」
それはもう居たたまれない様子で、彼は小さくなって今にも消えてしまいそうだった。
ソラはそんなエースに穏やかな表情を浮かべ、
「そんな自分を追い詰めないでよ。結果的には何とかなったわけだし。私も大丈夫だしさ」
「……」
「それに私と同じ様な譫言を言ってたってことは、エースくんも……その、私の記憶を見ちゃったんでしょ? キミも自分があやふやになって危なかったんじゃないの?」
「俺のは自分でやったことなんで、いいんです……」
「そういう自暴自棄はどうかと思う」
「……すみません」
「まぁそう思い詰めなさんなお兄さん。私もキミも無事だった。それでいいじゃない」
ソラは「許す」とでも言うようにしてエースの頭を撫でた。
赤の他人であるはずなのに姉弟のように気安くそう言ってのけた彼女に、ケイは目を丸くしていた。
「ふむ……他ならぬソラがこう言ってくれているんだ。エース、お前も反省したなら顔を上げなさい」
「はい……」
ケイに肩を叩かれ、顔を上げたエースはまだ居心地が悪そうだった。ソラはそんな彼に小さく笑いかけると、視線を移動させて部屋の入り口近くで待機していた二人の騎士に話しかけた。
「ってか、騎士様がここにいるってことは、私は捕まっちゃったってことなんでしょうか?」
「それねぇ、ちょーっと違うかな~」
色白の青年が答える。
「魔女さんはね、保護することになったのー」
「ちげぇよ。ひとまず扱い保留で監視することに決めたんだろうが」
「そう。それそれ~」
「保護? 監視……?」
首を傾げるソラに、青年騎士は笑みを浮かべて頷いた。




