第1話 「塚穴の底」
朝、目を覚ます。
私は窓から差し込む光に目を眩ませながらゆっくりと寝台から起き上がり、今日という地獄が始まることに吐き気を催していた。といっても実際に吐くことはない。胃の中は空っぽだし、嘔吐というのは口内環境が荒れるので、不安のぶつけどころとしてはあまり好ましくない。
私はその代わりに口の中に唾をためて洗面台に吐き出すことを朝の日課としていた。
寝ても覚めても悪夢である私の人生は、実を言うと始まってからまだ十二年ほどしか経っていない。両親を亡くし、今の養父に引き取られてからは五年が経つ。
耐え難い悪夢というのは、三年と半年前から始まったことだった。
この田舎村には学校と呼べるものがなく、子どもの勉強を見るのは村の外からやってきた学者の仕事だった。
私はこの学者を恐れていた。
彼女の綺麗な微笑みの下にはこの世ならざる怪物の顔が隠れている。
私はそれを知っていた。なぜか……と問われれば、こう答える。実際にその醜い顔を見たからだ。
彼女は人が見ていないところでよく私をいじめた。殴る蹴るのではなく、罵るでもなく、ただ優しい声で「貴方はこんなこともできないの?」と首を傾げる。
それを笑って言う。
最初のうちは何が楽しくてそんな顔をしているのか分からずにいた私だが、ある時、彼女の瞳に映る自分の姿を見てその疑問は解決した。
私は妙な顔をしていた。老人のようにしわだらけの顔になって、傷ついたのか悲しいのか怒っているのか……よく分からない表情を浮かべていた。彼女にとっては、この顔が何より面白かったのだろう。
私は出来のいい生徒ではなかった。いや、ある一面──記憶力だけを見れば人並み外れて優れていたが、その代償のように他の一面で人並み外れて劣っていた。はっきり言って、私は能なしだった。ただ頭でっかちなだけで、それを生かせる才能のない出来損ないだった。
一方で、妹は私にないものを持っていた。
死んでしまった父と母の両方によく似た、可憐な妹。私とは似ても似つかない、才能あふれる妹。学者は私にできないことを難なくやってのける彼女を気に入っていた。
けれど私は妹を妬んだりしなかった。邪険にしたり、意地悪を言ったりもしなかった。
私が何かをできないことに、妹は関係ない。幼い私にもそれだけはきちんと分かっていた。
だからこそ、私は辛かった。
「あんなに小さな妹さんにもできることが、貴方にはできないのね」
学者は仕方がないことのように、しかし私を責めるようにそう言う。
彼女にはそのように言ってしまう癖がついていた。それは私が妹のように上手くできないからなのかも知れなかった。私が彼女をそんな嫌みな人間に変貌させてしまった。そう思うと申し訳ない気持ちで胸がふさいだ。
それが二年半ほど続いて、ある日突然、彼女はぱったりと何も言わなくなった。それまで私を傷つけ続けてきた言葉を忘れてしまったかのように……私に興味をなくして、ただ綺麗なだけの笑顔を浮かべるようになった。
それはきっと、私が彼女に嫌みを言われない程度にまともな人間になれたと言うことだった。
だからといって喜びはなかった。彼女のことはそれからもずっと苦手だったし、顔を見れば息が詰まり胸が苦しくなって泣き出しそうになった。
私の感情はおかしくなっていた。
心はどこかに消え去ってしまっていた。
私は灰色の海に沈んでしまった世界で、それからの一年を過ごした。
すっかり元気をなくしてしまった私に気づいた養父(とその友人)はあれこれと手を尽くしてくれたが、私の気力は一向に元の通りにならなかった。そして、陸の上でも今死んだら溺死になるのかもしれないなどと……妙なことを考えて朝を迎えたある日。
私はいつも通り起床し、唾を吐き、顔を洗って、味のしない食事をとり、歯を磨くためにやってきた洗面台の前で、鏡に映った自分の顔を見つめていた。自分はいつ土の下に埋葬されるのだろうと、これもまた馬鹿げたことを考えて……鏡越しの背後に小さな人影を発見した。妹だった。
私は毎日、彼女の顔を見ては少しずつ元気をもらっていた。そんな私は今日も彼女から笑顔のお裾分けをもらって、少しばかりまともな表情を浮かべる。
妹はその小さな腕に、私も読んだ覚えのある人体の基礎を教える本を抱えていた。何でも、例の学者に医術の勉強を見てもらうのだと言う。私は今できる精一杯の笑みを浮かべて、頑張るようにと激励の言葉を贈った。難しいから心してかかれ……だなんて、最初から脅すようなことを言うのは野暮だと思った。
その後、私は彼女の勉強の進み具合がどうなのかと気になって、学者の部屋を窓の外からそっと覗き込んだ。
季節は寒さ和らぐ春だった。わずかに開いていた窓から、学者の声が漏れ聞こえていた。
「貴方はあの子と正反対なのね」
その言葉を聞いて、私は嫌な予感がした。
「こんなことも分からないなんて……」
覗いた窓の向こうで、妹が恥じるような表情で俯いていた。
そこで初めて分かった。
彼女の所行を客観的に見て、何もかも理解して、合点がいった。
あの学者がああなってしまうのは……あの様になってしまったのは、私のせいではなかった。
それは彼女自身の性質だった。
性癖だった。
彼女は楽しんでいたのだ。
私が傷つき悲しみ追いつめられて、
毎日が砂の中に埋まっているような息苦しさで、
悲しくもないのに突然涙がこぼれたり、
楽しいはずのことをそう感じなくなったり、
何もかもどうでもよくて、
歩くことさえ、
息をすることさえ、
生きることさえも億劫な抜け殻になるのを見て、
彼女は自らの心を満たしていた。
これは愉快だと手を叩き、手に持つ刃を優しさという布で覆い隠して私に突き刺し、痛みに悶える様を見て悦に入っていたのだ。
その凶刃が今、妹に向けられようとしている。
「……」
私は妹が大切だった。
出来損ないの私にも敬意を持って接してくれる彼女は私の宝物だった。そんな彼女に私と同じ思いはしてほしくない。傷ついてほしくない。泣いてほしくない。
いつまでも、何も知らないまま天真爛漫に笑っていてほしい……その時、私は自然と決心していた。
同日の夜、学者の部屋を訪れた。私は彼女に驚きをもって迎えられた。
「貴方とこうしてお話しするのは、何だかとっても久し振りな気がするわ」
「先生……少し聞きたいことがあるんです……」
「ええ。貴方にもできることだと良いわね?」
その嫌みな言い方。
心臓が爆発しそうになる。
私は星について教えてほしいと適当なことを言って、彼女を屋外に誘い出した。
「星のことなんて勉強してどうするのかしら?」
家から一歩外に出た瞬間、私は年の割に小さな体で彼女に抱きつき、その腰から彼女が命の次に大切にしている短剣を奪い取った。柄尻に希少な鉱物がはめ込まれたそれは、彼女がここに来てすぐ見栄を張って買い換えた物だった。
本来、彼女にこんな石は必要ない。この石に見合うだけの才能は彼女にない。同じ透明な石でも、もっと硬度の低い物で事足りる程度の才能しかない。
「何をするの? 返しなさい」
彼女はこれから私が何をしようとしているかなんて、見当も付いていないようだった。彼女は冷静に、穏やかに、冷酷な笑みを浮かべて私に近づいてくる。
私は逃げ出した。家の裏手へ回って、村人の墓が並ぶ場所へと。
彼女はなにも考えずに、ただ高価で貴重な短剣を取り返そうと追いかけてきた。私は墓場の端までやってきて立ち止まり、振り返った。息を切らした彼女が赤い月を背後に恐ろしい形相で立っていた。
「返しなさい、それを。今すぐに」
「……」
私は短剣を逆手に持ち替えると、鍛えた足のバネを生かして彼女に飛びかかった。
肩を掴んで押し倒し、馬乗りになって。
口をふさいで、喉に刃を突き刺す。
簡単だった。
私をこれまで通りの弱者と見誤った彼女に抵抗する頭はない。
「石」を取り上げられた彼女に抵抗する術はない。
私の思惑に気づかなかった彼女に抵抗する時間はない。
私は彼女の首の骨を断つまで短剣を突き立て続けた。何度も、何度も何度も。そうして──満月の下、光を反射して煌めく刀身に自分の姿が映り込んだ。
顔が真っ赤に染まって見えたのは刃が血に染まっていたからか、それとも実際に返り血でそうなっていたのか定かではない。
何にせよ私はその顔を見て、はっとした。
私は、浅ましく卑しいあの学者と同じような顔をしていた。
「──ッ!!」
妹に自分と同じような辛い思いをしてほしくなかった。その思いは本当だ。しかし、私怨が無かったかと言えば……それは嘘だ。むしろ、妹を守る名目で、私は復讐を果たしたのではないか?
自分をさんざんいじめ抜いて、この数年間で人生を地獄に変えた元凶を憎んでいないなんて、そんなことあるわけがないのだ。
そう。
長らく感情というものを失っていた私は、燃え立つ憎しみの情にのぼせ上がり、それだけを原動力に彼女を──。
彼女を……。
硬く握っていた手から短剣が落ち、事切れた学者の上に馬乗りになったまま、放心する。
これは駄目だ。
いけないことだ。
あってはならないことだ。
どんな理由があっても許されない、悪だ。
「あ、ああ……ぁ、……ッ!!」
俺はもう、この地獄を抜け出せないのだと知った。




