第20話 「鳩不知 3/3」
午後を祈りの時間に使って、日が落ちた後は用意された部屋の方で夕食をもらい、風呂も終わってしまったソラの頭は緩みに緩みきっていた。
壁際に一つずつ向かい合うようにして二段ベッドが配置されている小さな部屋には、ソラの他にはジーノとエースしかいない。窓のカーテンを引いてしまえば人目を気にする必要もなく、そうなるとソラは頭に被っていたベールを取り払った開放感に浸っていた。
何気にベールの下の頭巾が蒸れるのだ。カシュニーでこの状態だと、さらに南へ行くようなことになったら、素材を通気性のいいものに変えてもらわなければならない。
「とりあえず、次の行き先は碩学の都……碩都だっけ? そのカシュニーってことでいいのかな」
「そうなります」
「ですがお兄様、さすがに魔法院の総本山でもある場所にソラ様を連れて乗り込むというのは、あまり現実的でない気がするのですが」
「それは俺もそう思うよ。だから、ソラ様にはジーノと一緒に都の外で待機していてもらおうかと思ってるんだ」
「それが無難かもね。ところで、カシュニーってどんなところなの? 頭に『碩学』ってつくだけあって、学問が盛んなのかな?」
「はい。今は特に、絡繰りの研究を熱心に行っていますね。カシュニーは知識を追い求める者を分け隔てなく受け入れる学術都市──それが都の掲げる対外的な主義です」
何やら引っかかる言い方をして、エースは少し顔をしかめながら続ける。
「一方で都から出て行く者には厳しく、研究の成果を独占する傾向があります。そういった気質ゆえか、都の周囲には堅固な壁が巡らされているんです」
「加えて周辺は、ここみたいに深い森に覆われている。とか?」
「ええ。視界を遮るものが多いので、隠れるにはうってつけです」
「でもさ、そこを目指すのはいいんだけど、エースくんは大丈夫なの? 前の時は魔法院って聞いて具合悪くなってたでしょ?」
ペンカーデルでの動揺を目の当たりにしているソラが心配するのはそこだった。
「大丈夫じゃなくても、俺が行くしかありません」
エースは少し身構えて、けれど決意を堅くした様子で頷いた。彼はジーノを振り返って言う。
「だからジーノ、ソラ様を頼んだよ。考えたくはないけど……万一の時はすぐにその場を離れて、予定通りプラディナムを目指すんだ。いいね」
「私には、お兄様が無事に戻られるよう祈ることしかできないのですね……」
「うん。だから、しっかり祈っておいて。お願いだよ」
「はい」
敵陣に潜入するのだ。何が起こっても対処できるように想定しておかなければならなかった。
深刻な顔をして、それでも健気にソラの身を案じる兄妹を前に、いざとなれば──これはエースたちの思いとは真逆の対応になるが、ソラは自分の身柄を取引材料にしなければならないと考えていた。
彼女は俯いて唇を噛む。それは考えたくもない恐ろしい可能性だ。
自分の身が危険にさらされるから、ということではない。
そうなった時、実際に自分がその選択をできるかどうか、分からないのだ。
もしも、できなかったとしたら。
それを考えると、恐ろしくて仕方がなかった。
「……」
ソラは一人、悶々とする。
そこに突然、彼女の悩みを吹き飛ばすかのような出来事が起こった。いや、正確に言えば、さらに頭痛の種を増やすような出来事が、である。
「失礼いたします~」
入室を知らせる事前の通告──ノックもなしに、扉が開いた。
「あら? あらあら。まぁ!」
「え!? アッ、やっば!!」
驚く祠祭の目の前でソラは慌ててベールを被ったが、そんなことをしても今更である。
ソラは祠祭に素顔をしかと見られてしまったのだった。
「そんな、隠さなくても構いませんのに」
祠祭は目と口を大きく開いてそう言った。そう言っただけで、なぜか表情には危機感というものが見当たらなかった。
「祷り様は大陸の方ではないのですね。いいえ、大陸の方ではあるのでしょうが。そうですね、ご親族にどなたか東ノ国の方がいらっしゃったのですね。そういうことでしょう。ええ、本当に珍しいことですわ! 特にカシュニーでは」
本来であれば、微妙に似ている例の手配書を思い出した祠祭本人にすぐさま取り押さえられそうなものだが、彼女はただ、ソラの顔立ちに関心があるだけのようだった。
対して、三人は大いに戸惑っていた。
その中でもいち早く冷静さを取り戻していたエースが、藪蛇にならないことを祈って祠祭に問う。
「あの、祠祭様?」
「はぁい。何でしょうか~?」
「魔法院から鳩は届いていないのですか?」
「鳩ですか? そのような急を要する用件に心当たりはありませんわ」
「え?」
「ですが、ここはご存じの通り辺鄙な田舎の村、いえ田舎のさらに辺鄙な場所にある小さな村ですから、時々ですが院の方はわたくしたちの存在をお忘れになることがあるようなのです。ひどいと近隣の教会の方も忘れてしまうようで、祠祭同士の大切な寄り合いにも呼ばれないことがありますの。困ったものですわ。ええ。そうなると困ってしまいますのよ、本当に」
またしても始まった息継ぎのない一方的な会話。忘れられてしまうのは、彼女の「おしゃべり」が原因なのではと思わなくもない三人であった。
しかし、これで謎が一つ解けた。それとはつまり、憲兵が「魔女」の噂を口にしたときに、祠祭が今ひとつピンときていなかった理由だ。魔法院から魔女再来の通達を受け取っていないのなら、それも納得の反応である。
「けれど、魔法院から直々のお達しで──しかも鳩が使われたとなると心配ですわね。どんな内容かご存じでしたら教えていただけると助かりますわ。わたくし、これでもこの村の祠祭なので、もしも村の人たちに何かお知らせしなければならないようなことなら、わたくしも当然知っておかなければなりませんでしょう?」
「そう、ですね」
「そうなのです。ええ。知る必要があるのですよ。それで、どういった内容なのでしょうか?」
「えっと……」
エースは嘘をつくのがあまり得意ではない。
そんな兄に代わって、ジーノが答える。
「私たちも詳しいことは分からないのです。ですので、一度院に問い合わせてみた方がいいかもしれません」
「まあ! そうですわね。確かにそれが一番確実ですわ。鳩が出されたことは知っているのに、自分のところには来てないから知らないでは話が通りませんものね。弟さんの言うとおり、わたくし一度お手紙を書いてみますわ。都の院に宛てるとなると、どのくらいかかりますかしらね? すぐにお返事をいただけるといいのですけれど──」
祠祭はそう言って、人差し指の先でくるくると円を描きながら部屋を飛び出していった。
かと思ったらすぐに戻ってきて、またしても予告なしにドアを開けた。
「そうでした~! わたくしときたら、こちらに来た目的を忘れていましたわ。今から物忘れだなんて困ってしまいますわね」
「ハハ、ハ……。それで、本来のご用事とは?」
エースが若干顔をひきつらせながら聞く。
「明日はいつ頃お発ちになる予定でしょうか? もしでしたらわたくし、お弁当をお作りしますわ」
「いえ、そこまでしていただかなくても」
「そうおっしゃらずに! 久しぶりの外からのお客様なのです。どうか腕を振るわせてくださいな。そうと決まれば準備をしないといけませんね! お夕食と同じくお兄さんに合わせてお野菜中心でお作りしますが、よろしいでしょうか?」
「はい。それでお願いします」
三人はそれぞれ疲れをにじませた表情で頷いた。
「夜分に突然失礼いたしました。それでは、どうぞゆっくりとお休みなさいませ!」
そう言って祠祭はドアを閉めた。廊下をパタパタと駆けていく足音を聞きながら、エースがハッとしてその後を追いかける。
「あの! 祠祭様! 明日の出発時刻ですが──」
朝食をいただいた後で発ちます、という声が廊下の奥に消えていく。
「あ……焦ったわ。あの祠祭さん心臓に悪いよ」
「はい。なかなか癖のある方です」
まるで台風のような人物だ。残った二人は示し合わせたわけでもないのに、同じタイミングでため息をついた。
それにしても、今回はたまたまこの教会に鳩が届いていなかったからよかったものの、ソラの気の緩みが招いた由々しき一大事であった。ソラは申し訳程度に被っていたベールを鼻の上まで引き下ろし、薄い生地の向こうに透けて見える窓を見やった。
ペンカーデルの時のように、また窓を割って逃げることになるのは御免だ。
こうなったら、もう仮面でも被っておきたい気分だった。
翌日。
浅くなった眠りの間に聞こえてきた物音で目を覚ましたソラは、目をこすりながら起き上がった。彼女は縦横無尽に跳ね返っている髪の毛を手櫛で撫でつけ、足をベッドから下ろす。
「おはようございます」
ジーノが朝から美少年成分を振りまいて微笑む。
「おは……。やっぱ私が一番最後かぁ」
エースは既に荷造りを終えていて、部屋にはいない。食事の準備を手伝いにでも行ったのだろう。ソラはまだ眠たそうに下がってくる瞼を押し上げ、顔を洗い、着替えて髪を整える。それらが終わる頃には何とか覚醒し、ジーノと一緒に部屋を出て台所へ向かった。
そこではエースと祠祭が朝食の準備をしていて、あとはもう運ぶだけというところまで出来上がっていた。
「あら、祷り様。おはようございます。朝食でしたらお部屋までお運びいたしますよ?」
「いえ、もう顔を隠して食べる理由もないですし。それならご一緒させてもらえないかと思いまして」
「まぁ、そうなのですか? それでしたら居間の方に席をご用意しないとですわね! フフフ……ああ、申し訳ありません。変に思わないでくださいまし。普段はわたくし一人で食べるものですから、誰かと一緒というのは考えるだけで何だか楽しい気分になってしまって。ええ、わたくしとっても嬉しいですわ」
「それはよかった。私もですね、ご飯はみんなでワイワイ食べる方が好きなんですよ」
「楽しく美味しいご飯がいただけるというのは、それだけで幸せなことですものね」
「まったくもってその通りです」
感慨深そうに何度も頷くソラと祠祭に、エースとジーノは顔を見合わせて笑う。ソラがそう言うのなら、彼らに反対する理由はなかった。
四人はソルテ村のそれに比べればやはり狭い居間で、カシュニーの教会では必ずと言っていいほど出てくるベーグルが主食のテーブルを囲んだ。
ソラはこれまで幾度となく教会で世話になってきたが、仕方がないとはいえ顔を見せられず、挨拶もろくにしてこなかったことをずっと後ろめたく思っていた。そんな彼女は、今まで言えなかった感謝を胸に祠祭と言葉を交わした。
そして楽しい食事の時間は終わり、片づけを手伝って、出発の頃合いとなった。
「それでは、どうぞお気をつけて。道中の安全をお祈りしております」
「どうもお世話になりました」
「ありがとうございました」
それぞれに礼を言い、手を振って見送る祠祭を一度だけ振り返って頭を下げ、三人は新たな目的地であるカシュニーへと足を向ける。
村を抜け、人の気配もなくなった辺りでソラがエースとジーノに声をかけた。
「ごめん、二人とも。ちょっと止まってくれる?」
「はい。構いませんが……?」
ついでにフランの屋敷がある方に馬の向きを変えてもらって、ソラは目を閉じて小さく俯いた。
その仕草が何を意味するのかは、察しの悪いエースでもさすがに分かった。
兄妹は彼女に倣い、胸に手を当てて目を瞑った。
せめて、死んだ者の魂が迷うことなく軸の神の元へ昇れるよう、二人は祈る。屋敷の者に降りかかった不幸を我がことのように嘆き、思いを寄せる。
ソラはと言えば、兄妹のように相手の身になってその無念を思いやることはできなかった。彼女の黙祷は形式的で、そうするべきだからしているだけにすぎなかった。
「……」
ソラはどうしたって、かつて死が近くにあった自分をフランと重ねてしまう。
そうして、自分はまだ生きていることを実感する……。
「行こう。カシュニーへ」
今はまず、魔女についてよく知らなければならない。
無念の最期を迎えるのだけは御免だ。
これまで漠然と思い描いていた未来を確実にするため。自分こそ悔いなく死ぬために、ソラは強い意志を持って前を向いた。




