第4話 「祷り 1/3」
ジーノが馬の足を止め、鼻から滴った血を指で拭ったのは、ソルテ村を出たその日の夕方──北の峠を回って西麓の街道に出た時だった。
ソラはそれまで肌寒いという程度だった冷気が、急に肌に刺さるのを感じた。そうかと思うと、目の前でジーノの頭がぐらりと揺れて傾いたのだった。
「ジーノ──!?」
後ろに続いていたエースは妹の異変をいち早く察し、馬を驚かせないよう静かに、しかし素早く地面に下りて彼女の方へ駆けていった。
ジーノはまるで糸の切れた人形のように制御を失って落馬した。ぎりぎりのところで何とかエースが抱きとめたため事なきを得たが、後ろで見ていたソラは心臓が止まる思いだった。下手をすれば骨を折ったり、馬に踏まれることもある。
幸いにもジーノの馬は乗り手を失っても動揺せず、静かにその場に立ち止まっていた。
ソラもまたゆっくりと馬から下りた。ジーノを抱えて膝をつくエースに駆け寄り、
「どうしたの? 急に倒れたけど、大丈夫?」
「おそらく魔法の使いすぎではないかと思います」
「魔法の、使いすぎ……」
「ソラ様。俺はジーノを運ぶので馬をお願いできますか」
「え? ああ、うん。この子たちすごくいい子だから、私でも手綱引けると思うし。任せて」
夜間は休んでいたとはいえ、度重なる魔法の使用でジーノの疲労は限界に達していた。
魔法は瞬間的な使用であれば体への負担は少ないが、長時間の連続使用となるとかなり負荷がかかる。
それだから、吹雪の中を突っ切ることを決めた時からエースは何かにつけてジーノを労っていた。だが、魔法で手助けをするということはなかった。
なぜそうしなかったのかは分からない。
とはいえ、妹思いの彼がそれをあえて選んだとも思えなかった。
何かそうせざるを得ない理由があるのだろう。ソラはそう推測しつつ、一つ思い当たることがあった。
エースはずっと、ジーノに声を掛けるときは自分の無力さを呪い、思い詰めたような顔をしていた。今もまた、自分に殺意を向けるような表情で唇を噛んでいる。
「ジーノにばかり負担を押しつけて……、ごめん」
「謝らないでくださいまし、お兄様。私にできることはこのくらいしかないのですから。ソラ様も……すみません。私……こんなところで足手まといに──」
「いやいやいや。何言ってんの」
そんなことをジーノに言わせてしまう自分が腹立たしくて、ソラは少し強い口調で言葉を遮った。
「謝らなくていいって。この先の街はそれなりに大きいし、宿もあるだろうからどっかでお休みしよう。ね、エースくんもそうしよう?」
「そうですね。この街には教会がありますから、そこでお世話になりましょう」
「教会か。私が一緒だと危険じゃない?」
「今の我々は巡礼者一行ということになっています。そうなると、教会に寄らないのはかえって妙に思われるかもしれません」
「そっか。なら、そうするしかないね。あんまりしゃべりすぎるとボロがでちゃいそうだから、気をつけないと……」
そう言っている間に、ジーノは気を失った。もとから白い肌を青白くして目をつむる彼女の姿は、どこか心臓に悪い。
「ジーノちゃんのこと、名前じゃなく『弟くん』とか呼んだ方がいいかもね。いくら親しくても、男の子にちゃんづけはしないもんね」
「俺たちも人前ではソラ様のことを『祷り様』と呼ぶよう心がけます」
「そうしてくれると助かる。私の名前は知られちゃってるし」
ついでに言えば微妙に似ている似顔絵も出回っている。なのでソラはベールを目深にして顔を見られないように気をつけなければならなかった。
ソラは鼻の下までベールの裾を下げて馬を引く。ジーノを抱えて街に向かうエースのかかとしか見えない。
「あ、そういえば大事なことを聞くの忘れてた。祷り様って何するの?」
「礼拝堂で聖人再臨の祈りを捧げるんです」
「両手握って、神様に?」
「そうです。ですがこの祈りの時間というのが、日中ずっと続けてもらうことになっていまして。日の出ている間は飲まず食わずになります」
「お昼抜きかぁ」
「すみません、朝も水だけです……」
「マジか」
「で、でも! 日が沈んだ後の夕食は食べられるので」
「ははぁ。痩せるいい機会だと思って頑張るよ」
「ジーノも一日休めば回復すると思います。連日我慢してもらうようなことにはならないので、そこは安心してください」
「そっか。じゃあ明日は……って、ちょい待ち。ジーノちゃんの具合は明日中には何とかなっちゃうの?」
正直、もう少し寝込むものかと思っていたソラは驚きを露わにする。
「正確には明後日、でしょうか。通常であれば日中の魔力の消耗分は夜間の短い睡眠でも十分に回復できるのですが、今回ジーノは限界まで力を使ってしまっているので、丸一日は眠ったままになると思います」
「いや、それにしたって……高速チャージぱない」
ジーノは魔力の量だけではなく、その回復速度も人並み以上であるようだった。
今更ながら、彼女が一緒にいてくれてよかったとソラは思った。そして自然と、ジーノがいなかったら今頃どうなっていただろう? と考える。彼女一人だけじゃない。エースにしたって、今ここにいてくれることを心強く感じる。
ソラの逃避行についてくる決断をした昨日を思い返してみれば、まだ少し腹が立つ。それでも、ソルテ村を出てからの峠越えもそれなりに大変だったし、二人がいなければソラはきっとこの街にはたどり着けなかっただろう。
それほどまでにソラは無力だ。
魔法は使えないし、剣だって振れない。
「……」
何から何まで世話になっている。
ソラは己の足手まといっぷりに嫌気がさしていた。
西の方角に沈みゆく夕日が、教会の十字架に重なる。
街に入り、ソラたちは今日の宿に着いた。修道僧に案内され、ジーノを宿坊に運び込む。エースは彼女をベッドに横たえると、鼻から伝っていた血を湿らせた布巾で拭き取ってやった。そして体を冷やさないように布団を肩までかけてやり、ひとまず安堵の息をつく。
ジーノは寝返りさえも忘れて懇々と眠り続けた。
ソラはそんなジーノの様子が心配だった。そうでなくても、あまり他人との接触は持ちたくない。ソラは看病のためと言って部屋に引きこもり、教会関係者への挨拶はエースに頼んだ。
夜間はジーノの看病をエースと交代し、用意された個室で明日の祈りに備えて床に就いた。
翌日、ソラはまだ日が昇らないうちからエースに起こされ、礼拝堂へと向かった。
途中ですれ違う修道僧はソラに深々と頭を下げて言う。
「おはようございます、祷り様。今日はどうぞよろしくお願いいたします」
「はい。誠心誠意、祈らせていただきます」
堂までやってきたソラは祭壇の前に敷かれた絨毯に膝立ちになって、掲げられた十字架に顔を向けて目を閉じ、胸の前で両手を握った。
数分。数時間。
外の喧噪を遠くに聞きながら、ソラはひたすら祈りを捧げる。
やってみて初めて分かったことだが、この体勢を日中ずっと続けるのはかなり堪える。特に膝が痛くて仕方がない……正座でないのがせめてもの救いだが、どちらにせよ関節の具合は悪くなる。
終わったらマッサージか何かをして労った方がいいだろうと考え、ソラは手を握り続けた。
「……」
形だけとはいえ、一応「祷り様」としてここに居るのだから、何かそれらしいことを願うべきかもしれない。
ソラは自分以外の聖人がこの世界に現れて救世主になってくれることを必死に祈った。ついでだと思って、他のことも祈っておいた。
──正体がバレませんように。無事にこの街から出られますように。ジーノが早く回復しますように。明日天気になぁれ……などなど。
最後の方は投げやりになりながら、頭に浮かんだことを片っ端から祈り、日があるうちの時間をしのぐ。
今後のことは意識して考えないようにしていた。
これから先、どうなるかなんてまるで想像がつかなかった。
試しに考えてみても、魔法院に捕まる場合のことしか頭に浮かばない。
味わう絶望は毒のように心を蝕み追いつめていく。
それだったらもっと楽観的に、無責任に幸せな妄想をしてみようともした。無事に逃げ延びて、誤解も解き、ソルテ村でジーノたちと一緒に末永く異世界スローライフを送るという未来だ。
果たしてありえるだろうか……自問して出たのは「叶いそうにない」という答えだった。
他方、もちろん元の世界に帰ることも頭の片隅にはあった。
暗いトンネルを通って光の下に抜け出て、自分を迎えてくれる家族の元へ駆けていく。ソラは家族と一緒に笑っている場面を思い描こうとして……霧がかかって顔のはっきりしないその人たちは、想像の中でも笑ってくれなかった。
元の世界に帰れたとして、記憶は戻ってくるのか?
そんな不安さえも襲ってきて、ソラは胸がしくしくと辛くなったので考えるのをやめた。彼女は一度深呼吸をして気を取り直し、祷り様としての職務を全うするべく、聖人再臨の祈りに専念することにした。
窓から差し込んでいた日差しがソラの頭上を通り過ぎ、夕焼けの赤が礼拝堂の白い壁を染め上げる……。




