「悪逆の正当性 6/7」
腹ごしらえを終えたナナシたちは、さてこれからどうしようかと考えて、二階で椅子に座らせたままの人間が一人いることを思い出した。
「すっかり忘れてた! オッサンに諸々ご教授願う約束だった!」
「ぎょこ。ご、きょう、じゅ? オトーサン、に?」
「ああ。何か僕の使う魔法って特別らしくて? それを見せる代わりに僕ら──っていうかジョンに色んなこと教えてやってくれって約束したの」
「ふぅーん」
「何だよ。気に入らない?」
「うんにゅ。とくには。もじ、よめたらべんり。このせかいのこと、しる。ひつよう」
「頼むぜジョンさん。僕よりお前の方が理解早いと思うし」
「おっけ。まかされ、よ!」
自らの胸をトンと叩いたジョンの頭を撫で、ナナシは余る袖をそのままにしている彼女の手を取り、二階の書斎へと向かった。
部屋のドアを開けると髪を振り乱して館の主が顔を上げた。
「わ、忘れられたのかと思ったぞ……!?」
「悪い悪い。しばらく本気で忘れてた」
書斎に置いてけぼりにされていた男は、不安で顔を真っ青にして震えていた。その惨めな様子にナナシはニヤニヤと笑い、机の方まで歩いて行ってジョンをその上に座らせた。
「さて。お勉強会の開催だぜ、ジョン」
「おべんきょう!」
ナナシはまず手始めに、ジョンに文字を覚えさせようと考えていた。彼はジョンを乗せた机の横に椅子の男を引っ張ってきて、床に落ちている適当な本を音読させる。話す言葉が通じるのだから、聞きながら文字を追えばジョンはすぐに理解するだろうと踏んでのことだった。
実際、彼女はものの一時間もかからずに全くの未知であった文字を完全に理解し、見事に識字の遅れを取り戻した。
あとはこの土地の地理や政治、組織などを男に説明させ、それについてはナナシも興味深そうに耳を傾けていた。
この大陸の人間はもともと五つの地方に分かれて暮らしていたが、今では一つの国家を形成しており、一人の王がそれを束ねていること。その政治は事実上、魔法院と呼ばれる組織が裏から操っていること。
また、椅子の男はかつてその組織で魔法の研究を行っていた学者であり、この屋敷の人間も個々で優秀な魔法使いであった……など、ナナシとジョンは様々なことを聞いた。
男の講義は魔法にも及んだ。だが、ジョンは魔法について教えられずとも完璧に理解していた。仕組みも何もかも、彼女は全て直感的に分かっていたのだ。
ジョンはその手一つで、炎や氷塊、それを切り裂く疾風を作りだし、机からは小さな枝葉を生やした。
彼女の才能を目の当たりにした男は息を荒くして興奮する。
「すばらしい……この子はすばらしいぞ! 体内の魔力を外に放出して魔法の形を取るには、通常であれば魔鉱石という媒体が必要なんだが、それをなしに魔法を使うとは! まさに天が与えた比類なき才覚だ!」
「だから、そうだって言ったろ。つーか、その魔鉱石って何?」
「魔法を使うための補助的な道具だと思ってくれればいい。その石がなくとも魔法の行使は可能だが、それには膨大な魔力変換式を自前で編み上げなければならないのだ」
「その、めんどう。いしをつかうことで、しょうりゃく。できる」
「そういうことだ。非常に煩雑で複雑な構成式を、間違うことなく一から十まで正確に展開するなんてことは、私のような魔法学に秀でた者でも至難の業なのだよ」
「ジョンはその構成式? とやらを一人で体得したってことか」
「しかも、最も効率の良い方法で魔力を運用しているように見える」
体内の魔力を操作し、魔法が目に見える形で効果を現すまで、数秒の遅れもない。ジョンが持つ魔法使いとしての才能は群を抜いていた。
「魔鉱石を介すことによって生じる無駄な魔力消耗がないキミのそれは、その道の学者が求める完成された魔法と言ってもいい!」
ジョンの感覚の鋭さに、父親である男は感嘆の息を漏らす。彼は自分の足下を見つめ、後悔の言葉を呟いた。
「ああ……何てことだ。なんてことをしてきたのだ、私は! この子がいれば、私の研究はもっと早くに完成していたかもしれない。この頭脳があれば……!」
しかしそれは親の役目を放棄していたことへの羞恥ではなく、自分の利となる道具を見逃していたことへの腹立たしさを表した言葉だった。
男はジョンを見て、すがるような声で言う。
「なあ、ジョン。我が子よ。お前は私の子だ」
「……そうね?」
ジョンは男の言葉に頷くものの、その内容には全く興味がないらしく、視線は手元の書物に釘付けのままだった。文字を理解した彼女は床に散らばる歴史書や医学書、男が書いた論文の束などにも目を通し、知識を吸収することに一生懸命だった。
「これまでの償いは何でもする。お前には何でも与えよう。だから──」
「オトーサン。うる、さい」
「す、すまない。だが話を聞いてくれ。頼む……」
にべもない態度の娘に、父親は必死に言い寄る。それに対し、ジョンはため息をついて首を左右に振ると、体を反転させて背中を向けた。
彼女の隣ではナナシの目が鋭くつり上がっていた。
「おい、オッサン。なに調子のいいこと言ってんだよ」
「他人のキミは黙っていたまえ」
「お前……立場が分かってないみたいだな?」
ナナシは苛立ち乗馬鞭を強く握りしめ、打ち下ろそうと振りかぶる。しかし、さあぶつぞ……というところでジョンが読んでいた本を閉じて机から降り、ナナシの動作が止まった。
彼女は片手でナナシを制し、その手から鞭を奪い取る。ジョンのその行為は父親をかばったようにも見え、この世の終わりがやってきたにも近い絶望をナナシに与えた。
ジョンはナナシを振り向いて言う。
「なな。このひと、つぐなういった。なんでもくれる」
「お前……なに、言ってんだよ?」
「だから、つぐなってもらう」
「ジョン……?」
少女はナナシに背を向け、男の前に立つ。
彼女の目は身長差をものともせず、足下からでも相手を見下していた。その顔に浮かべる表情は──ない。
ジョンは道ばたの石ころを見るかのような目を父親に向け、鞭で机を打った。
鋭い音に男が震える。
「オトーサン、ひどいひと」
「ほ……本当にすまないと思っている。今まではそうだったが、これからは違う。ちゃんといい父親になってやるから」
「おかねとる」
「馬鹿を言うんじゃない。そんなことはしないよ」
「かけごと、つかう」
「まさか! 賭事なんてしたことがないぞ」
「たばこすう」
「お前が嫌がるならやめよう。約束する」
「おさけのむ」
「わ、分かった。酒は金輪際、飲まないから」
「はたらかない」
「何を言うんだ! た、たた、確かに魔法院からは追放──いや違う。私の研究を理解しない魔法院が悪いんだ。むしろ私の方から見限ったんだ!」
「くちばっかり」
「うるさい!!」
男の金切り声にジョンは肩をビクリとさせたが、それ以上は怯まずにもう一度、鞭を打った。
「おまえ。ぼくを、なぐる」
「なぐ、な、殴ったりなんてしてない。し、しないぞ」
「けった」
「わ、私はあの小屋に行ったことなどない!」
「くび、くるしかった」
「女中か? 世話を任せていた奴がやったのか?」
「ななし、つらい」
「は?」
「ななし」
「おい、いったい何の話だ?」
「オトーサン」
ジョンは突然、男の頬を鞭で叩いた。
血が細長い糸を引いて、宙を飛ぶ。
「きらい。ゆるさない」
それは彼女が己の父に向けるものではなく、他者の感情の代弁であった。
ナナシの記憶を経験していて、なおかつその経験しかないジョンに親への愛情はない。
「オトーサン、きらい」
ジョンは先ほど叩いたのとは反対の頬を打った。
「だいきらい」
鞭を打ち続けるジョンは、まさにナナシをかばっていた。
誰かが自分を守り、助けてくれる──その光景は長年、ナナシが思い描いた理想であり、願望であり、希望だった。以前は待ち望んでも差し伸べられなかった救いだった。
父親に鞭を打つ彼女はナナシにとって、正義の体現。天が使わした聖なる者。
その背中に純白の翼を見た。
ナナシの視界が涙で波打つ。
ジョンは頬に血をにじませ呆然とする父親を見下ろして言った。
「みじめだ。じつに、みじめ。しゅうあくで、ごみくずいか」
それはジョンの中にあるナナシの言葉。ナナシがこの地獄に落ちる前に言うことが叶わなかったその思いを、彼女は「父親」を前に心怯まず毅然と言い放った。
「ジョン、お前は。僕の……」
ナナシはジョンを見つめ、喉をせり上がってくる嗚咽を耐えた。
その間にも、ジョンは机の上にある母の肖像を手に取り男に突きつけていた。顔を裂かれ続けた男は息も絶え絶えだった。
「オカーサン、どこ?」
「都……、カ、カシュニー、に……」
「なまえは?」
「ノー、ラ……」
ジョンはその肖像を天井高く放り投げると、それに向かって鞭を勢いよく振り上げ、自分とよく似た顔を容赦なく真っ二つにした。
そうしてしまうと、ジョンはナナシを振り返った。
「ななし、いこう」
「ジョン……?」
「ぼく、ななしといっしょに、ぬけだす。ななし、ぼくといっしょに、ぬけだす」
手を差し出したジョンの背後で、夕暮れの雷光が落ちた。
窓の向こう、赤々と燃える空の下に雨が降り出し、大地を打つ轟音が遠くから灰色の雲を連れてくる。
「まって、たす……助け……これを解いて……」
男は椅子の脚をガタガタと揺らして懇願する。
「またない。たすけない。おまえに、もう、ようはない」
ジョンは顔だけを後ろに向け、
「ぼくら、くるしかったの。ぜんぶのぶん、まとめて。いま、つぐなう」
処刑の椅子に座る男に感情のない顔で、慈悲を知らぬ口で宣告した。
「しけい」
かといって、ジョンは男に何をするでもなかった。
彼女は机の上に散らばっている石を一つ掴むと、男を椅子に括り付けたままナナシを連れて書斎を出た。
あの男は手足の血流を止められて、ずっと座った状態でいったい何時間を過ごしただろうか。このまま捨て置いても、いずれ勝手に死ぬ。その死に様はさぞ惨めで、無様で、汚らしく、恥辱にまみれたものとなるだろう。
遠くに聞こえる怒号とも悲嘆ともつかない男の声を聞きながら、ジョンは小さな唇を歪ませ、笑い声を上げた。
ジョンはナナシの手を引いて廊下を歩いた。階段を下りて折り返しの踊り場で立ち止まり、不揃いの髪を翻してナナシに向かい合う。
「ななし。きもち、すっとした?」
太陽が厚い雲の中に落ちていく。
日はその際に空をひときわ赤く染め、雲の裾から上空に光の筋を放った。
「ぼくは、むねがすくおもい。だった」
胸がすく。とても気分がいい。ジョンは自分の気持ちをそう表現した。
地獄の業火の中で白い天使が微笑む。
斯様に曇りなき色を──静謐な存在を、ナナシは今までに見たことがなかった。彼はついにこぼれてしまった涙を拭いもせず、ひざまずいて、目の前の少女に恭しく頭を垂れる。
「ああ、そうだとも。僕も同じだったさ。ありがとう、ジョン」
そしてナナシはジョンの左手を取り、その薬指に口付ける。
「僕の天使。愛してる」
「うん。ぼくのかみさま。ななし、あいしてるよ」
ジョンは同じようにナナシの前に膝をつき、頭を下げ、その左薬指に己の心を捧げた。




