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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
幕 間
31/153

「悪逆の正当性 1/7」

 ひどく頭が痛む。いやにひんやりとしている床から起きあがり、男は左右で行ったり来たりを繰り返す鈍い痛みに顔をしかめた。


「うう……何だよこれ。すっげぇ痛い……」


 頭蓋骨でも割れているのではないか?


 だとしたら血が出ているかもしれないと髪の毛の間に指を差し込んで頭皮をまさぐる……が、出血しているような手触りはなく、また傷口も見つからなかった。傷ができていないだけで内部が損傷している可能性もあるが、そうなると自分では手の施しようがないので考えないことにする。


 とりあえず皮膚の上から触ってみてどこかが凹んでいるとか、不自然に盛り上がっているということはなかったので、男はそれがただの頭痛であることを祈ってやり過ごすことにした。


「ちくしょう。あいつ……思いっきり殴りやがった。首も痛いし、最悪だ」


 腫れ上がっている頬をさする。すると、思い出したように口の中に血の味が広がった。舌に絡みついていた血を地面に唾と一緒に吐き捨てる。


 そうして彼は今、自分が小さな洞穴の中に立っていると気づいた。


「ここ、どこだ?」


 見渡してみて、少しでも明るく見えた方に向かって歩いていく。次第に暗闇が薄まり、手の届く範囲くらいなら景色が見えるようになってきた。


 やがて、靴底を鳴らしていた硬い石は、草と土の柔らかい地面に変わった。耳を澄ませると、フクロウの鳴く声が聞こえた。


 肌寒い風が首筋を通り抜けて、木々の葉を揺らす。


「森の中? どうして僕、こんなところにいるんだ……?」


 男はつい先ほどまでの出来事を思い出す。


 今の今まで、自分は自宅のアパートでちょっとしたケンカをしていたはずだった。帰宅し玄関を開けたところで、クソ以下の同居人に酒臭い口で金をせびられたからだ。


 口論が始まり、これまで親らしいことは何一つしてこなかったケダモノに威厳だけを振りかざされ、男はついに堪忍袋の尾が切れてしまった。彼は指を一本ずつ折り曲げて拳を握り、土足も構わず、目の前の汚いケダモノに殴りかかった。


 酔っぱらい相手に一発食らわせるくらい何てことない。と思ったが、男の懇親の一撃は空振りし、横っ面に反撃を受けた。息をする以外に何もできない役立たずと思っていたそのケダモノは、腹の立つことにケンカの腕だけは一人前だった。


 男は派手に倒れ、棚の角に側頭部を強く打ち付けた。


 ケダモノは床に転がったまま低くうなる男を跨いで、その胸ぐらを掴む。危機を察知した男は反射的に下肢を縮め、相手の腹を蹴り飛ばした。


 ケダモノが胃の中身を吐き散らす。


 その無様で汚らわしい様子に、男は顔に嫌悪を表した。


 頭が痛かった。


 こめかみから銃弾でも撃ち込まれたような頭痛……意識が遠のきかけ、指を一本動かすことさえ億劫な眠気に襲われる。


 睡魔になど、負けている場合ではない。彼は首を振る。床に尻をついたまま後退し、気力を奮い立たせて腕を動かし、何か武器になるものはないかと探す。


 そして指先に当たった物。


 細長く先の尖ったそれを握って、胸の前に構える。


 もうずっと、気が遠くなるほど前から、そうしてやろうと思っていた。


 彼は再び襲いかかってくるであろうケダモノに先制攻撃を掛けようと立ち上がり──。


「そしたら大自然のど真ん中? 何なんだよいったい……」


 男は喧嘩の結末を思い出そうとして、首を捻る。その記憶はどこかあやふやだった。彼は現状を把握しきれず、頭の痛み以外にも不快なものが増えたといった様子で表情を歪ませた。


 頭がぼんやりとする。


 何か寄りかかるものがほしい男は手近な岩に手をつき、その間から顔を出していた木の根に手を引っかけた。


「イッテ……!?」


 反射的に引っ込めた手から血が数滴、したたる。


 踏んだり蹴ったりだ。


 彼は天を仰ぎ、ため息を吐く。森の中で夜空を覆い隠すのは雲ではなく、鬱蒼と茂る木々だった。重なる葉の間からかろうじて月明かりが見える。


「とりあえず、どこか明るい場所に出ないと」


 男は当てもなく闇雲に森の中を進む。


 木の幹に代わる代わる手をついて、藪の向こうに光った獣の目に怯えながら。頭上をかすめた羽ばたきに首を縮め、暗い中でわずかに見える風景の違いを頼りに。前に進んでいるのだと言い聞かせ……そうして彼は二時間ほとんど休まずに歩いて、ようやく森を抜けた。


 そこは野原というわけではなく、ある屋敷の庭らしかった。いくつも窓がある大きな建物が遠目に見えて、そのうちの一室にだけ、明かりが灯っていた。


 男はキョロキョロと周囲を見渡し、庭の端にみずぼらしい小屋を見つけた。歩き続けてほとほと疲れ果てていた彼は、とにかく腰を下ろして休みたかった。ついでに言えば、できればそれは屋根のあるところが好ましかった。


 朝日が昇る前にこっそり抜け出せば、この家の人間に見つかることもないだろう。


 彼は身を低くして、小屋のところまでやってきた。どこからともなく、鼻を突く悪臭が漂ってくる。それから逃れるようにして鍵のかかっていない扉を開け……、


 後悔した。


 臭いの発生源はその小屋だった。


「ウッ──!?」


 家畜の臭気よりも我慢ならないそれは、糞尿と生ゴミをまぜて腐らせたような激臭であった。それを鼻の奥までしっかり吸い込んでしまった男は、我慢できずにその場で嘔吐してしまった。


 ただでさえひどい臭いに吐瀉物まで混ざって、まるで地獄の掃き溜めである。


 こんなところにいたら病気になりそうだ。男が小屋を出ようとすると、奥の方から物音が聞こえた。


 立ち止まらずにさっさとその場を去ることもできた。しかし男はなぜか足を止め……そこに何がいるのか確かめなければいけない気がして、後ろを振り返った。


 最初は小さな火の玉が一つ、暗闇の中に浮かんで見えた。もう少しすると、その明かりを反射する二つの目も見えてきて、そこにいるのが人間と同じ形をした「何か」であることが分かった。


 そこで男は不思議に思った。


「火を……手に持ってるのか?」


 彼の目に映る光景はまさしくその言葉の通りで、その生き物は手の平の上で直に火を燃やしていたのだった。だというのに、生き物は手の中の炎を熱がる様子もなく、火傷もしてないようだった。


 男は見たものを疑うようにして目を擦る。頬もつねり、何度も瞬きをして、そのたびに先ほどと変わらない炎を見つけて、これは現実の光景なのだと知った。


「すごい。手品か、魔法みたいだ」


 彼にはそれ以外に目の前の事象を説明する言葉がなかった。


「ま、ほう? うう?」


 突如として、その炎を持つ生き物が声を発した。


 男は驚いて飛び上がり、おののき、腰を抜かして扉の外に尻餅をついた。


「まほ、う。まー、ま、ほ……。うー?」


 暗闇に溶けていた生き物は炎を空中に放ち、男の前まで四つ足をついてやってきた。だが、それは扉の手前で歩みを止めた。


「むぅ~」


 その生き物は静かに地面を叩く。


 ここに来いとでも言っているのか。


 男は要求されるがまま、それのそばに近づいていった。息づかいが聞こえるところまでやってくると、泥だらけの小さな手が男の体をぺたぺたと触った。


「うーうー。あー……あうあう。まーま、ま」


 浮遊する炎に照らされて浮かび上がった生き物は、確かに人間だった。


 伸び放題の白い髪が頭の先から簾のように垂れ、その小さな体を覆い隠している。長い前髪を被って、どこぞの怨霊のようだ。


 男はのれんをくぐるようにしてその白髪(しらが)をかき分ける。


 十歳前後の体つきで、やせこけた腕はわずかに肉が付いているくらいで、力を込めたらすぐに折れてしまいそうだった。一応、体を隠すものは着ていた。しかしそれは麻袋に頭と腕が出る穴を開けただけのもので、とうてい服と呼べるものではなかった。


「やっぱり、人間だ」


「や、ぱり。にん。に、んげんだ。に……ん、げ」


 窓から差し込んだ月明かりに金色の目が輝く。ずっと風呂にも入っていないのだろう、顔は泥や埃で汚れていた。


 男はその子どもをよく見ようと、髪を後ろに流して手で梳いてやる。髪質は最悪だし、油か何かでギトギトしていて気持ちが悪いし、途中で指が結び目に引っかかってしまう始末だったが、男はその子ども──少年を不思議と「汚い」とは思わなかった。


 汚れを拭うようにして親指で頬を擦ると、少年はくすぐったそうに目を細めた。


「キミ、名前は?」


「きみ、なまえ、は。ぁ?」


「僕の名前?」


 少年は男の言葉を真似ただけで聞き返したわけではなかったが、そうされたと感じた男は、まず自分から名乗るべきかと頷く。


「僕は……」


 通常であればすぐに出てくるはずのそれを口にしたかったのだが、彼の言葉はそこで止まってしまった。


 名前が思い出せない。


 全く、何も、これっぽっちも。頭文字の見当さえつかない。


「ぼくは。ぼくは……ぼく、ぼく、くは──」


 少年が首を傾げて男の言葉を繰り返す。


「ぼぼ、ぼ。ぼくは、ぼく」


 それがどうしてか、男には「自分が自分でありさえすれば、名前なんてどうでもいい」と言っているように聞こえた。すると男は、自分の名が何であってもいいように思えてきてしまった。


 しかし、である。


 そうは言っても呼び名がないというのは不便だ。ここはひとつ、指名不明者にふさわしい名前を名乗っておこうか、と彼は考えた。


「僕は名無しの権兵衛。ナナシって呼んでくれればいい」


「ぼくはななし、のごんべい。ななし。て、よんでくれ。くれれ」


「それで、キミは?」


「き、みは?」


「……名前、ないのか?」


「なまえ、な。いの、か」


 こんな小屋で家畜同然に──いや、家畜だって食事や排泄物の世話くらいはしてもらえる。全く手を掛けられている様子のない少年はそれ以下の存在なのだろう。


 そんな彼に名前があるわけもない……。


 ナナシは少年の顔立ちを見つめ、顎に手を当てる。


「この顔で権兵衛はないよな?」


「このかおでごん、べ、べいはないよなー」


 目鼻立ちのはっきりとした顔には似合わない響きだ。


「ジョン・ドウ……が妥当なところか」


「じょんどう、がだ、だとと、うなところか」


「キミは今から、ジョンだ」


「きみは、いまか。ら、じょん。だ」


「違う違う」


「ちがうがう」


 ナナシは小さく笑みを浮かべ、しゃがみ込んで少年と視線を合わせる。彼は相手が言ったことを正確に繰り返すジョンに、根気強く教えれば言葉を話せるようになるのでは、という期待を持っていた。


 ナナシは自分を指さし、


「僕は、ナナシ」


 次にジョンを指さし、


「キミは、ジョン」


 と言った。


 対してジョンはナナシを指さして、「ぼくは、ななし」と言い、次に自身を指さして、「きみは、じょん」と言った。二人称だけが間違っている。


 そのやりとりを試行錯誤しながら繰り返していると、ジョンはついに自分を指さして、


「ぼく。は、じょん」


 と言ったのだった。


 それを聞いたナナシは両手を高く掲げて大いに喜び、ジョンの頭を優しく……とても優しく撫でた。彼の心にあったのは、我が子が初めて言葉を発した瞬間を目撃した父親のような思いだった。


 小屋に充満する悪臭のことなど、すっかりナナシの頭にはなかった。

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