終 話 「魔女になる覚悟」
ソルテ村への道は、エースが危惧したとおり悪天候の中を走ることになった。
時には猛烈な吹雪を受けて馬が立ち止まることもあったが、それでも進むことができたのはひとえにジーノのおかげである。彼女は自分たちの周りに風の膜を作り出して吹雪を避け、地面に降り積もった雪も吹き飛ばしてくれていた。本人は簡単なことだと言っていたが、その魔法を移動の間一時も休まず行使しているとなると、体には相当な負担がかかる。その証拠に、泊まる場所を確保して休むとなると彼女はすぐ眠りに落ちてしまい、朝も起こされるまでずっと寝ていた。
幸運だったのは、この吹雪の中であれば例え追っ手がかかっていたとしても追いつかれる心配がないことだった。教会の置かれていない村を選んだのも功を奏したらしく、迷惑そうにされたことはあっても逃亡犯として密告されることはなかった。
そして三人は行きに荷車を用立てた麓の町を素通りして一気に峠を越え、夕暮れの頃になってやっとソルテ村へと戻ってきた。氷都を出てから八日目のことである。
「あ! お帰りなさい。思ったより早かったね~」
一番にソラたちを見つけたのはカムだった。雪がちらほらと降る中、こんな暗い時間に何をしているのかと思ったら、昼にサボった薪割りをやらされていたのだそうだ。
「カム、馬を厩舎に戻しておいてほしいんだけど、いいかな」
「え? 何で僕が──」
「頼むよ。急ぐんだ」
「う……、うん。分かった」
エースは落ち着きながらも有無を言わせぬ強い口調で迫る。カムはそんな彼を今まで一度も見たことがなかった。馬を下りた兄妹は荷物もそのままに、もたつくソラを引きずって教会の方へ走っていってしまった。
残された馬は疲労困憊といった様子で鼻息が荒かった。
「何かあったのかな……?」
手綱を掴んだカムは馬を見上げて問うが、答えてくれる者はいなかった。
カムに馬を任せた三人は教会までの坂道を走り抜け、礼拝堂の扉を開けた。祭壇の前にいたスランが音に驚いて振り向く。
「エース! ジーノ!」
彼は一目散に走ってきて兄妹を抱きしめた。
「よかった。とても心配していたんだよ。エース、お前が鳩なんて寄越すから……」
「お父様、それよりも……魔法院から鳩が回ってきていたりはしますか?」
「ああ、あったよ。世に魔女の脅威が放たれたと……ソラ様の名前が書かれていたが、本当のことなのかい?」
エースは答えず、次に視線を向けられたジーノも目をそらし、そうなるとソラ本人が答えるしかなかった。
「もしかして、指名手配とかされてたりします?」
スランは受け取った文を見せてくれた。そこには確かに文字が書かれていたが、ソラには棒がうねうねと曲がって見えるだけでまったく判読できなかった。横から覗き込んだジーノが言うには、魔女は黒髪の女で異国の顔立ちであり、目つきは悪く粗暴な言動が目立つ、という特徴が書かれているらしい。ご丁寧に似顔絵も一緒になっていて、そこに描かれたソラの姿はかなり凶悪にデフォルメされていた。髪はその一本一本が蛇のようにうねり、鼻は極端に低く、目は斜め四十五度につり上がっていて、口には邪悪な牙が生えているのだ。これで似ていないと言えないのがこの似顔絵の驚くべきところだった。
また、追っ手も出たということで、そうなるとソラは踏ん切りがついたと言って顔を上げた。
「馬を一頭、譲っていただけますか」
「ソラ様?」
ジーノがソラを振り返って首を傾げる。
「ここに長くは留まりません。夜明けには村を出ます。だから足になるものを……」
「ソラ様、何をおっしゃるんです?」
「何って、逃げるんだよ。死にたくないんだから魔法院に捕まるわけにはいかないでしょ」
ソラはできるだけ冷たく、突き放すように言ってジーノを戸惑わせた。
「捕まれば死ぬというのですか」
魔法院での顛末を知らないスランが訊ねる。
「実際、魔法院でハゲ──元老に殺されかけましたから」
「元老が……。魔法院は本当に貴方のことを魔女だと判断したのですね」
「はい。だからもう、私はここにいるわけにはいかない」
強い意思を持ってそう言うソラに、ジーノが追い縋った。
「一人で行くとおっしゃるのですか。一体どこへ? この世界のことを何も知らないと言うのに?」
「知らなくても行くしかないんだ。幸い馬には乗れるし、たぶん何とかなるよ」
「それなら私も一緒に!」
「駄目」
「ど、どうして!?」
「そりゃもちろん、私が魔女だって思われてるからだよ」
「それは違います!!」
「……ジーノちゃん、気持ちは嬉しいけど魔法院は私を魔女だって判断して追っ手まで出してるんだからさ。ついて来られたら困るって」
「そんな……」
「悪いけど、責任持てないから」
ジーノたちは知らないことだが、ソラにはスランとの約束がある。二人を彼から奪わない、どこにも連れていかないという約束だ。
兄妹は何としてもここに残していかねばならない。
「せ、責任なんて、そんなもの……」
「あるの。年下の女の子にこれ以上危険なことさせられないよ。スランさんにも申し訳ないし」
年も性別も彼女には変えてみようのないことだ。加えてスランのこと言えばジーノは引き下がってくれる。
……そのはずだった。
「お父様、ごめんなさい。私はソラ様と行きます」
「ちょっとキミ、話聞いてた? 駄目だって──」
「ソラ様は黙っててくださいまし!」
ソラに対して怒鳴ったことなんてなかった彼女が、強い口調で話を遮った。青い目に睨まれたソラはたじろいで言葉を失う。
無言になった二人の間に、スランが口を挟んだ。
「なぜ……と聞いてもいいかな。ジーノ」
「私は魔法院でソラ様と元老の面会に立ち会いました。元老はとても一方的な態度でソラ様を魔女と断じ、あまつさえ……殺そうとしました」
ジーノは魔法院での出来事を思い出し、胸がふさがる思いだった。
「私はどうしてもソラ様が魔女だとは思えないのです。元老は見て見ぬ振りをしたようでしたが、ソラ様は未だ聖人の資質も持っておいでなのです」
一緒に食事をして、他愛のない話で笑い合った。
ジーノが好きな菓子をソラも美味しいと言ってくれた。
繋いだ手は温かかった。
ジーノにとってソラが魔女でないと感じる証拠はそんな些細なものしかなかったが、彼女にとってはたったそれだけでも十分だった。
そして何より、
「私は今こそ……亡き父母に……報いたい」
その言葉に、スランは眉を顰めて咎めるような表情になった。
「そういうことだったのか……ジーノ、自分が何を言っているか分かっているのかい?」
「分かっています。私はお父様に何を言われようと、どう思われようとソラ様と一緒に行きます。もう決めたんです」
「だけど、ジーノ……」
それを聞いたスランは悲しそうに顔を歪めた。彼は実の両親の話になると強く言えないところがあった。
そんな父親の前でジーノは三つ編みの髪を掴み、見えざる刃でばっさりと切り落とした。
手入れの行き届いた美しい金の髪──大切でないわけがない、それを。
ソラは顔を青くしてジーノの腕を掴む。
「ちょッ! 何やってんの!?」
「ソラ様は私を連れていけないのは年下の女だからとおっしゃいました。ですから私は今から男になります」
「ま、待って。待ってよ。キミね、言ってることめちゃくちゃだってば……」
「もちろん本当に性別を変えることはできないので、外見だけということになりますが」
「っ、んなこた分かってる!」
「年のことには突っ込まないでください。どうしようもありませんので」
「だから人の話を聞いて──」
「服装もそれらしく変えないといけませんね。お兄様の昔の服があったと思いますので、すぐに用意してきます」
「ねえお願いだから話を聞いてくれないかな!?」
ジーノは引き留めるソラの手を振り払い、部屋の方へ走って行ってしまった。
突き放せばしおらしく諦めてくれると思っていたのに、ソラの目論見は外れ、逆に火をつけてしまう結果となったのだった。
「いやいやいや、駄目でしょ。絶対に駄目だからこんなの……」
胃がキリキリと痛んで、ソラは胸を押さえた。自分のことだけならいざ知らず、生き死にの話に他人を巻き込めるわけがない。
ジーノは髪を切ってしまったが、そのくらいならまだ引き返せる。
どうやったら彼女を諦めさせることができるか、ソラは頭を抱えて悩む。その様子をエースがじっと見つめ、端で見ていたスランは絶望の表情を浮かべた。
「まさか、お前も行ってしまうつもりかい……?」
「……鳩でお知らせしたとおりです」
「……」
先に送られてきた鳩でエースの意思を知っていたとは言え、引きとめられると思っていたスランの落胆は大きい。ジーノがああして決めてしまったとなると、兄であるエースは自分の決心がなくてもついて行くに決まっているのだ。
「ここでソラ様を一人で行かせたら、魔法院の身勝手な言い分を認めることになってしまいます」
スランの目をしっかりと見つめ、エースは自分の意志を口にする。それを聞いたソラはさらに取り乱した。
「──ちょっと待ってよ! キミまでそんなこと言うの!? やめてよもう!!」
戻ってきてからこれまで、ほんの数分の間に次々と運命を左右する決断をしていく兄妹に、ソラは翻弄されていた。何なら泣き出したいくらいだった。
「一応聞くけどさぁ、何で!?」
「言ったでしょう。魔法院の言い分を認めるわけにはいかないんです」
「そんなことのためについて来るって言うの?」
「そんなことじゃない!!」
それはいつも控えめな彼からは想像もできないほど苛烈な声で、ソラは面を食らってしまった。思わず尻込みしそうになるのを耐えて、彼女は食い下がる。
「エースくんは魔法院が嫌いみたいだよね。私を助けなかったらアイツらと一緒になっちゃうんじゃないかって思ってるんでしょ? でもそんなことないから。全然ないから」
「ソラ様」
「……何ですか」
「俺は魔法院が嫌いなんじゃない。名前を聞くだけで吐き気がするほど心底……この世の何よりも汚らわしい……」
それは嫌悪と言うには凶猛な感情で、憎しみにも近いものを感じた。それでいて彼の言葉には後悔のような、あるいは己を卑下するかのような感情が滲んでいた。自分でも制御しようのない思い……彼の気持ちは一つにまとまっているようで、その実まったくバラバラであるらしかった。その不均衡をどうにか均そうとして、結局それができずに修羅の顔を強める一方となっている。
ソラは彼の目に宿る剣呑な光にいつかと同じ恐怖を覚え、後退った。そんな彼女の怯えた様子を見て、エースは一転してい憂えた顔つきになって言った。
「俺は貴方を助けたい。それじゃあ駄目ですか?」
それを聞いて、スランは彼の決意の意味を察したようだった。
「エース……お前は……」
「ごめんなさい、お父様。でも、今ここでソラ様を見放してしまったら俺はもう……どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまう気がするんです」
「……何を言ったって、もう決めているんだね」
「はい」
「本当に、お前たちは……。勝手だよ……」
その声は弱々しく、震えていた。
親であるスランが折れてしまっては、ソラに選択肢は残されていなかった。
そこに、男の装いになったジーノが戻ってくる。シャツは自分の物だがジャケットやズボンはエースのお下がりを身につけていた。切ったままざんばらになっていた髪も鏡の前で整えてきたようである。眉をキリッとつり上げたその姿はまるで少年期のエースを見ているかのようだった。
「どうです? これであれば追っ手の目もごまかせると思いますが」
意識して声を低く出せば、彼女は誰の目にも凛とした美少年にしか見えなかった。
その変わり様を目の当たりにし、ソラはどこか観念したようだった。
「あーもうッ! ほんっと勝手なんだから!! いい? キミたち二人は私の魔女の力で操られてる。もしも捕まった時はどんなに無理な言い訳になったとしても自分の意思じゃなかったと主張すること!」
「そんな……それでは本当にソラ様が魔女になってしまうではありませんか!」
「あのねぇ、親から子どもを奪う時点で私はもう十分魔女だっての。鬼だし悪魔だよ」
ソラは呆れと怒りを込めて兄妹を睨んだ。
「ついて来るなら今言ったこと守って。私、キミたちが無事じゃないと恨むからね。悪いけど末代まで祟るよ」
睨まれた二人はひゅっと息を呑んで硬直し、首を上下に動かして何度も頷いた。
そんな三人を前に、スランは少しでも追っ手の目を欺けるよう変装することを提案する。
「そのままではすぐに捕まってしまうでしょうから、ソラ様には聖人再臨の祈りを捧げる巡礼者としてこの教会を発っていただきます。エースとジーノはその護衛ということにするよ、いいね?」
それから、翌朝の日の出前には村を出られるよう準備が始まった。
ソラは巡礼者(「祷り様」とも呼ばれるらしい)の服に着替えた。これが逃亡者であるソラにとっては都合のいい格好だった。頭を覆う頭巾のおかげで黒髪は見えないし、さらにその上に被るベールで顔をある程度隠すことができるのだ。まさか魔女が巡礼者に変装しているとは誰も考えないだろう。これで話し方にさえ気をつければ、まず疑われることはないとスランは言った。
エースは伝承記を自分の荷物に入れ、他には万一に備えて野営道具を中心に整えていた。最低限必要な身の回りの必需品はジーノの方で準備をしてくれた。その他に彼女は自室の机の中から錆びついた短剣を取り出して……腰袋の中に大切そうにしまった。
荷物をまとめたら出発までは睡眠をとり、予定通り夜明け前に村を出ることになった。
三人は出発を前に、最後の憩いとばかりにスランの入れてくれたお茶を飲んでいた。
「ってか、どこに逃げればいいんだろうね……」
「当てはないわけではありませんが、その前に訪ねたい方がいます」
「誰?」
「フラン博士という方で、魔女についての研究をされています」
「へぇ。その人ってどこにいるの?」
「西方のカシュニーです。あそこは魔法院発足の地ですし、危険かもしれませんが……いろいろと調べたいことがあるんです」
「そう……」
「そこからは南方のクラーナ地方を経由して、プラディナムに入りましょう。あそこは今も反魔法院派の人間が多い土地です。上手く行けば匿ってもらえるかもしれません」
「そっか。分かったよ」
このように、エースの提案によって行き先はすぐに決まった。北の峠を通って西側の麓に下り、当面の目的地はカシュニー地方のフラン邸とした。
そして、ついに出発の時刻となった。
外は吹雪とまではいかないが深々と雪が降っていて、またしてもジーノの魔法に頼って進むことになりそうだった。
「忘れ物はないかい? 路銀が足りなくなったら私の名前を出していいから教会から借りるんだよ」
スランはやはり最後まで心配性で、いつまでも兄妹に話しかけていた。しかし馬を連れてきてしまうとそれも潮時で、彼はもっとたくさん言いたいことがあるだろうに、それを全て飲み込んだ。
最後に、ソラはどうしても言わなければならないことがあった。
「スランさん。本当に……、本当に申し訳ありません。何があっても絶対にこの子たちだけは無事に帰します」
既にスランとの約束を破っておいて、どの口が言うのかと思った。けれど、そう言わなければソラの気が済まなかった。ここで彼に絶対を誓わなければ、いつか自分がそれを諦めてしまう気がしたのだ。
ソラの言葉にスランは何も言わなかった。ほんの一瞬、平手を上げようとして……もう片方の手でそれを制した。彼はただただ、ソラを辛辣な瞳で見つめていた。けれどいつしかその視線を外し、
「さあ、もう行きなさい……」
「……行って参ります、お父様」
「ああ。気をつけてね……」
エースとジーノは手綱を引いて馬の足を北に向ける。冷暗の稜線にいななきが響き、雪雲の中に消えていった。
もう決して戻れない一歩を踏み出し、ソラたちは西へと向かう。
その先に未来があると信じて。




