第27話 「深淵 2/3」
ソラが老人に杖で頭を押さえつけられうずくまっている。
その光景を見ていながら、ジーノは目の前で何が起こっているのか分からなかった。
なぜ元老ともあろう人間があんな、他者を辱めるようなことを……?
ソラの悪態を遠くに聞きながら、ジーノは視界が狭まっていくのを感じた。
だんだんと世界が小さくなっていく。まるで、もう世界にはこの部屋しか存在しないような錯覚に陥る。すると今度は、この空間の絶対支配者である元老に逆らったらどうなるのか、という恐怖が襲いかかってきた。
「おい」
老人がジーノの方を見て、何かを言っている。
何を言っているのかは、分からない。
声は聞こえているが、意味のある言葉になって頭の中に入ってこないのだ。音を発する口の動きを見ても話を推測できず、ジーノはただ曖昧に疑問を口にするしかなかった。
そうしていると老人は呆れた顔つきになって、ジーノよりもっと遠くに向かって声をかけた。そのすぐ後に扉の向こうから複数の男が駆け込んできてソラを取り押さえた。ソラが暴言を吐くと、老人が彼女の首に杖を置いた。それは木から切り出しただけの棒なのに、なぜかジーノには鋭い刃を突きつけているように見えて、彼女はいよいよ穏やかではいられなくなった。
「ふ──っざけんな!! んなことしたら死ぬわ!」
ソラが金切り声で叫んで、ジーノはハッとした。
唐突に、ソラが頬に怪我をした時の記憶がよみがえった。
赤い血と一緒にあふれてくる痛みに耐えて……恐怖に耐えて、彼女は涙をこぼした。
そのときにジーノは思った。彼女も普通の人間なのだと……。
「ソ、ラ……様……ッ」
頭の中で様々な記憶が行き交い、いつまでもその場から動けずにいたジーノと、ソラの目が合った。彼女は助けを求めているようだったが、口を開きかけてすぐに閉じた。
どうして?
なぜ彼女は自分に助けを求めない?
答えは明白だった。
ジーノを自分の逃亡に巻き込まないためだ。
ソラはその後、一度は拘束を抜け出し部屋の扉に向かって走った。だがすぐに捕まってしまい、半ば男たちに押しつぶされるような体勢で、もう二度と逃げ出せないように足を縛られてしまった。それでも諦めていないソラは床に爪を立てる。
「私は十年後も生きてるって決めたんだ! こんなところで死んでたまるか──ッ!!」
それは彼女の魂の叫びだった。
どんな願いよりも勇清いその思いはジーノの胸を抉り、彼女の本能を揺さぶった。
次の瞬間には、手が勝手に動いて杖を抜いていた。
腹の奥底から沸き上がる明確な敵意と、一連のソラへの辱めをまるで自分が受けたかのように怒り、屈辱を握りしめ、血潮に乗って流れる魔力を杖に流し込む。
ジーノはあらん限りの声で叫ぶ。
「その方に触れるなッ!!」
先端の金剛石が一際眩く光を発すると、ソラと元老との間に赤々と燃える壁が立ち上がり、彼女を押さえていた男たちを爆風がなぎ払った。ジーノは煙に紛れてソラの元に駆け寄り、足を縛る縄を切って彼女の手を引き、逃げ道を走り出す。
「くっ!? 小娘め!! 自分が何をしているのか分かっておるのか!?」
元老は炎の壁を無力化し、視界を妨げる煙を振り払ってジーノに杖を向けた。空を切り音をも裂く疾風が少女の背中に迫り、肉と骨を突き破ろうという瞬間──、
甲高い金属音がしてジーノの周辺の景色がほんのわずかに歪んだ。
それだけだった。
「何と……!? 儂の魔法をもってしても破れぬとな!?」
彼女が魔法で作り出した盾は元老の刃をまるでそよ風が吹いたかのように受け止めた。そして目をつり上げて振り返ったジーノは杖を元老に向け、
「灰となれ──」
「駄目ッ!!」
ソラがジーノの腕を掴んだことで軌道は逸れたものの、放たれた炎の刃は元老の展開した盾をかすって──かすめただけでその盾を粉々に打ち砕いて背後の壁を穿ち、天空へ消えていった。勢いに押されて後ろに倒れた元老は、驚愕と動揺の表情を浮かべていた。
「嘘でしょ……あんなん当たってたらマジで灰に……」
怖々とジーノの方を見ると、彼女はさらにもう一発ぶちかまそうという顔をしていた。
「だ、だだ、駄目だってば! 何してんの!?」
「しかし……!」
「しかしじゃない! あんなバカ相手にすんな! いいから逃げるよ!!」
鬼気迫る表情でそう言われてしまっては、ジーノに迷っている暇はなかった。
「分かりました! ソラ様! しっかり掴まって下さいまし!!」
「は? え!?」
戸惑うソラを小脇に抱え、ジーノは部屋の窓を割って勢いよく空中にその身を踊らせた。
「ヒッ!?」
一瞬だけ宙に浮いて、もしかするとそのまま飛んでいけるのではないかと思ったソラだった。が、すぐに景色が傾き始めたことでそう都合良くいかないことを思い知った。ソラは落下する恐怖に悲鳴を上げることもできず、ジーノの腰にしがみついて目をつぶることしかできなかった。
一方のジーノは落ちながら魔法を編み、地面から柱を伸ばして空中に氷の道を作り出していた。着氷するまでの間にソラを体の前で横向きに抱え直し、さらに懐から「鳩」を取り出して宙に放つ。
「お兄様の元へ!」
その名前からは想像もできない速さで飛んでいった鳩を見送り、ジーノは靴底に氷の刃を履いて氷点下の銀面に降り立つと、すぐさま風を切って景色の上を滑り始めた。ソラは垂直方向から一転して水平に風を受け始めたことを不思議に思い、恐る恐る瞼を上げた。
「と、飛んでる……?」
足下から氷を掻く音が聞こえて、実際には氷の上を滑っているのだと分かっていても、まるで空を飛んでいるようだとソラは思った。──と同時に、宙に浮かぶ肩幅ほどの道を猛烈な速度で駆け抜けるというのはなかなかに恐ろしい体験だった。ジーノはしっかりとした足運びで氷を蹴っているし、例え落ちたとしてもまた道を作ってそこに下りればいいだけなので心配はないのだが、ソラは恐怖のあまりジーノにしがみついてその肩に顔を埋めた。
そして、風に消えてしまいそうなか細い声で呟く。
「ごめん、ジーノちゃん。結局巻き込んじゃった……」
「私が自分の意志でやったことです。ソラ様が気にされることはありません」
「……っ、ごめんね……」
ソラは声を震わせ、何度かそう呟いた。ジーノはその言葉に「気にするな」と言う以外にどう返事をしたらいいのか分からず、無言のまま聞いていることしかできなかった。
ジーノは瞬く間に後方へ消えていく景色の正面だけを見つめ、城壁を越えて豪邸の庭先を横断し、やがて民家の屋根を飛び越えて市場まで戻ってきた。だんだんと高度を下げて教会の前までたどり着き、滑ってきた氷を昇華させて地面に下りる。
急いで厩舎の方へ足を向けると、馬のいななきの間に、世話係の制止を振り切ってこちらへ突き進んでくる蹄の音が聞こえた。
「ジーノ! ソラ様を!」
騎乗してもう一頭を引いてくるエースが叫んだ。ジーノは抱えていたソラを彼に預け、自らも流れるような動作で馬の背に乗り上げる。
兄妹は馬を走らせ、氷都ペンカーデルから遁走した。
どこへ行けば良いのかは分からない。だが、最後の最後に帰れる場所は一つしかない。
ソルテ村へ戻るしか選択肢はなかった。




