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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第一章 ペンカーデル
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第19話 「都に棲む獣」

 そこは暗い暗い、地面の下にある部屋だった。否、部屋と言うにはあまりにも殺風景で、空間を仕切る壁や扉もない。廊下との境界に格子がはめられているそこは、どこからどう見ても牢屋だった。


 埃まみれの床に、男がうずくまっている。


「し、し……シ。しし、……タイ」


 室内に日の光はなく、壁にかかった灯火に輝く石のせいで暗闇もなく。常にぼんやりと明るいその空間で、男は壊れた蓄音機のようにうわごとを繰り返していた。


「シ、シ……、……ニ」


「がかかかがあぁ、かみさま。かみさまぁみさまかぃさまかみぁぁ。たすけ、たすたた、た……けて、くだだだだ、さ……」


「ギ……ジ……、ィァ………」


 一人きりなのに声色は二人分だった。


 男は一人で、もう一人としゃべっていた。


 まるで穴があいているかのように真っ黒な隈を目の下に作って、髭面の彼はひび割れた唇から乾いた声を出す。それは誰かあるいは自分を呪う言葉であり、救いを求める言葉であり、彼自身はもうその意味を理解していなかった。ただ知っている単語を──今となっては肺が息をするかのように漠然と頭の中に浮かんでくる思いを、音にしているだけだった。


「……タィ。……シ、……、シニ……」


「だめ、だめだめだめ。だめです。ゆゆ、ゆゆゆる、さな。しま、ぜん! だめ、だめですだめです、ぁめぇぅぅぅ、……」


「ジ……! ィ……、ダァ……ッ!!」


「こん、ここここ。ご、こんじょう、なし。この──ッ、ぉんじょ、なじ!!」


 男は石造りの床に向かってブツブツと話し続ける。同心円状に異なる色が重なって見える石(気味の悪い目がギョロリと睨みつけているような)がはめ込まれた腕輪をつけ、口にくわえて甘噛みをする指に爪はなく、彼は爪の代わりに皮を噛んでむしる。伸び放題の髭の間から覗く歯は溝に血液が染み着いて赤くなっていた。


 そこにカツン、カツンと堅い音が降りて近づいてくる。


「久しいのう……哀れなる者や……」


 格子の向こう側に現れたのは杖をついて歩く禿頭の老人だった。


 その老人は厳めしいを通り越して見る者に恐怖しか与えないような顔をニタリとゆがませ、牢屋の正面に置かれた──場違いに派手な椅子に座った。牢屋の中に捕らわれていた男はその姿を見るや否や、格子にぶつかるのも構わずに老人に向かって猛然と突進し、骨に皮とわずかな筋肉が張り付いているだけの細い腕を突き出した。


「オ、オマ、マ゛、エェェェ!!」


「ひとでなじ! かっ、かか、かかみ、よ! てんばつを、ばば、じ、しししねジジイ、くく、くくくそくそくそそそくそがぁ!!」


「やかましい獣じゃ」


 老人は悪趣味と言ってもいいほど豪奢な装飾の施された杖を、わめいて唾をまき散らす男に向けた。そのゆっくりとした動作がぴたりと止まったかと思うと、格子にかじりついていた男は見えない拳に腹を殴り飛ばされて吹き飛び、奥の壁にぶち当たって倒れた。男は痛みに息を詰まらせ……それでも気は失わずに体を丸めた。


「人間というのは案外頑丈なものよのう。ぬしを見ていると本にそう思うわ」


「う゛……ぐ、ギぅゥ……」


「さて、ぬしを飼っておくのもそろそろ飽いたのだが……どうしてくれようか。何か希望はあるか? 儂が直々に聞いてやろう」


「ゴロ……ス、ェグ……、ア゛ァァゥ゛ゥゥ!!!」


「しねしねしししねしぃいいねしぇね!!」


 男は背中を丸めたまま肩越しに老人を睨みつけ、歯を剥いて威嚇する。その様を見た老人は何がおかしかったのか、大きな声を上げて笑った。


「ぬしが儂に啖呵を切ったときのことを思い出すのう。何だったか……そう、絶対に屈するものかと喚いておったな」


 それは牢獄の男を蔑むものであり、己の優越を確認して悦に入った……聞く者によってはひどく下劣に聞こえる笑い方だった。


 そんなところに、一人の中年男が小走りにやってきて、ある書面を差し出した。


「元老。ソルテ村で再臨が確認されたとのことです」


「そうか。こちらで把握している限りでは五年ぶりくらいになるかのう。して、どちらじゃ?」


「陰の者です」


「ふむ。時期的にはそろそろ光の加護を受けた者が再臨してもおかしくない頃合いだが、まだその時ではないか」


 元老と呼ばれた老人は白い髭を揉み、駆けつけた男に杖を向けて言う。


「その陰の者をこちらへ連れてくるよう伝えよ。くれぐれも丁重に扱えともな。逃げられてしまっては困るでの」


「承知しました」


 中年男は牢屋の方には目もくれずにきびすを返し、地上へつながる階段を駆け上っていった。


 その場に残った老人は牢屋の男に振り向いて慈悲深く微笑む。


「喜べ、ぬしの願いが叶うぞ」


「ねが、い。ねねがいがね、かなかぁう……?」


「その顔も見納めか。どれどれ、最後によく顔を見せておくれ」


「かみさま、かか、ぁぃ、さまままさまききき──ははははあーァはははッくそがくそくくくそしねねしぃね!」


「シネシネジ、シネ──ェ゛ジネ゛!!」


 男は笑い出したかと思えば急に叫びだし、格子にしがみついて赤く染まった歯を見せる。


「減らず口をたたくことだけは覚えているようじゃな。いっそ何もかも分からなくなってしまえば楽だったと言うに……ああ、そういった意味では、ぬしはまだ屈しておらぬのか。最後まで楽しませてくれるのう」


 それに対し、老人は椅子に座ったまま杖の先を向ける。その動作を見てまた吹き飛ばされると思った男は反射的に格子から離れた。だが、どんなに身構えても老人の放つ見えざる手──魔法にはあらがいようがなかった。


 男は頭を上から押さえつけられ、床に額をぶつけて屈辱的な姿をさらす。


「まったく、ぬしも元は知性ある人間であったというのに、今では見る影もないのう。まぁ、元々無知ではあったが……」


「グぞ、あア゛ァぁァ゛ぁ゛ーーー!!!!」


 男は噛みしめた歯をギリギリと鳴らし、既に組織が弱くなっていたのだろう──欠けた石灰質のかけらが口から転がった。


「頭は悪いが根性だけはあったということか。これだけ長いこと耐えたのはぬしが初めてじゃ」


 老人は今までこの牢屋に閉じこめてきた何人かを思い出す。それぞれ数日、数週、数ヶ月と保たずに気狂いして自ら死んでいった。それを考えると、老人は五年も生き続けた目の前の男にある種の感銘を覚えないでもなかった。


「儂は気分が良い。ぬしには特別に恩赦を与えよう」


「オ、おぉ、ぁア? ヲ、……しャ?」


「儂が手ずから殺してやろう。なに、苦しませはせぬ。せめてもの慈悲じゃ」


「あ、あ……し、じジ、……ね、ル……?」


「そうとも。獣に与えるにしては寛大すぎる処置であろう?」


 頭を押さえつける手がなくなり、男は顔を上げて涙に潤む目で老人を見た。


「ククッ、よい顔だ。ようやっと折れたな……」


 椅子から立ち上がった老人は杖をひときわ高く掲げる。その動作にあわせて、男は四つん這いのまま頭を垂れた。


「さらばだ、憫然の獣よ」


 老人が杖を振り下ろすと、ゴトンと重たい音がして男の頭が落ちた。


 吹き出した血が床の溝を伝い、老人の靴裏にこびりつく。


「さて……新しい獣は我らにどんな恩恵を与えてくれるのかのう?」


 そうして、老人は幾度となく血を踏んだ靴底を鳴らして地下を後にする。その後ろ姿を追いかけるように転がった男の頭部が格子に引っかかって止まる。


 見開かれた逆さまの目には、醜い獣の背中が映っていた。

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