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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第一章 ペンカーデル
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第1話 「彼方より来たる者 1/7」

「残念ながら、がんです……」


 そう宣告されたのは三年前のことだった。


 治療を受けて生きながらえた現状。そこに細々(こまごま)とした不満はあったが、後ろを見ながらも、これからの将来にはただ希望だけを持って生きていこうと……女はそう決意しようとしていた。その意志を試すかのように、頭上から真夏の日差しが照りつける。景色は陽炎に焼かれ、ゆらゆらと揺れていた。彼女はその無色透明の炎に足を踏み入れ、地面から立ち上ってくる熱気をかき分けて歩いていた。


 じりじりと足の裏が焦げる。


 キャミソールにカーディガン、カプリパンツという格好の彼女は靴を履いていなかった。なぜか片足だけになってしまったサンダルを手に持って、彼女は焦げる足を引きずり歩いていく。


 どこへ行こうという目的はない。


 ただ陽炎に揺れる景色の向こうへと歩いていかねばならなかった。ぼやけた輪郭の建物を通り過ぎ、境界が曖昧になる海原と蒼穹の間を抜けて、光の先から闇の底へと。


 そうして何分、何日、何年と感じられる中を一歩進むごとに、四方八方から針で突き刺すような痛みが襲いかかる。鈍く鋭く、痛みが続く。しかし彼女は歩かなければならなかった。


 痛い、痛い。痛い。いたい、イタイ……頭の中で何度も繰り返していると、徐々に痛みという感覚は言葉に乗り移って髪の毛先から抜けていくようだった。イタイ、イタイ、イタイ……痛みを取り除く呪文のように彼女は口でも呟き始める。


 彼女はいつしか暗闇の中を歩いていた。視界には黒以外に何も見えない。カツン……と音をたてて手からサンダルが落ちていった。足の裏に感じていたはずの熱はいつの間にか冷たい湿り気に変わっていた。湿気を帯びた足裏が地面に吸い着いて歩きにくい。


 ぺたり、ぺたりと裸足の足音が耳に届く。肺に吸い込んだ空気がひどく冷たい。その冷気は歩みを進めていくとともに温度を低くしていった。何十歩と進んだ今となっては真冬の寒さだ。吐いた息が白くなって暗闇の中に消えていく。


 その白い様が見えた。


 黒以外の色が見えたことに気づき、彼女は顔を上げて目の前を見た。


 光が見える。


 それは進めば進んだだけ大きくなって近づいてくる。彼女は感覚がなくなって棒のようになった足を必死に動かして走った。その光に包まれれば、あの真夏に戻れる気がしていた。


 そしてついに光の中へ飛び込むと……、


「ここは……?」


 その女は見ず知らずの土地に一人で放り出されていた。彼女は足下で反射する光に目を細めながら辺りを見回し……やけに白い背景の中に一人の少女が立っていた。


 雪のように白い肌を持つその少女は氷塊から切り出した彫刻のように美しかった。大きな目に瞬く青い瞳は雲一つない晴れ渡った空を思わせた。女の視線は彼女の高めの鼻筋から真っ直ぐ下りていき、桜の花弁のように色づいた小さな唇へと導かれる。彼女の視界はそのまま繊細な曲線を描く輪郭をたどり、頬にかかる金色の髪を追った。その金糸は氷晶が舞うようにキラキラと輝いて風に柔らかくなびいていた。長さが腰のあたりまであるというのに、毛先までわずかな歪みもない。女は驚きのあまり口を半開きにし、そのたおやかな流れに目を奪われていた。やがて、少女の腰に差されている樫の杖に目がとまる。


 足が悪いのかとも思ったが、それだったら腰に差したままにしているのはおかしい。丈も腕の長さ程しかなく、歩行を補助するために突くには短すぎる気がした。持ち手側の先についている透明な石も柄を握るには邪魔そうだ。


 女がその用途について首を傾げる一方で、彼女の疑問を知らない少女は眉を顰めて後退った。


「貴方……村の人間ではありませんね。何者です? よもやこの聖域を荒そうなんて不届きなことを考えているのでは──!?」


 少女はあからさまに女を警戒していた。


 女は慌てて首を左右に振る。


「え? いや、ちょっと待って。いきなりそんなこと言われても……私はただ光に向かって走ってたらここに出たのであって……」


「わけの分からないことを! どこから忍び込んだのですか!?」


「ちょっと、話を聞いてよ。私はそこから出て来ただけだって」


「まさか、祠の中から……?」


 女は後ろを振り返る。そこにあったのは洞窟で、この中をさまよっていたから周りが真っ暗だったのかと納得し、彼女は少女の方に視線を戻した。


「そうだと思うけど。別にこの聖域? とやらを荒らすつもりなんてないし。ってか、ここどこだろ?」


「ほ、本当にこの奥から? いらしたのですか……?」


「いらした? ──えっと、うん。そうですよ」


「そんな、信じられない……伝承と違います……」


「あの~……お嬢さん? 誤解は解けた?」


 少女は目の前の出来事を認めたくないといった様子で首を振った。吐いた息が白く立ち上って宙に消えていく。女はそれを見て初めて周囲の景色を認識した。


 突如として、冷気が肌を刺す。


「──ックション!!」


 今の今まで自分と少女しか意識に入っていなかったために分からなかったが、季節は冬であった。空から落ちてくる雪が風に煽られて女の頬に張り付く。後方からは木の枝に降り積もった雪が重さに耐えきれず地面に落ちる音がした。


「さ、さむ……さむい……!」


 裸足で雪の上に立っていたせいもあるのだろう、女は体温が急速に下がっていくのを感じていた。震えて閉じていられない口がガタガタと音をたてる。


「あのっ、お嬢さん。も、もしよかったら、どこか暖の取れる、場所に連れて行って、もらえません? 実は、寒くてっ、凍りそうで……」


「それは……」


 少女の身になってみれば、季節はずれの格好で靴も履いていない他人をすぐに信用できるわけがない。それを分かった上で、女はなおも食い下がった。


「自分で言ってて説得力ないのは分かってるんだけど、私は怪しい者じゃないし、悪いこと企んでるとかもない、ので。本当に、歩いてたらここにたどり着いただけで……信じられないなら、手を縛るでも何でもしてくれて構わないから、とにかくもう私……寒くて……」


 吹き付ける雪の一粒一粒が着実に体温を奪っていく。膝は今にも崩れそうで立っていることさえ辛く、彼女はしゃがみ込んで体を丸めた。その様子を見て、少女はそれが演技でないことを知った。少女は自分が着ていた外套を脱ぐと、それを女にかけてやろうと近づく……が、肩に触れようとする手前で見えない何かに弾かれて手を引っ込めた。


「あっ……、自然結界の中に……!?」


 少女の言っていることが理解できず、女は顔を上げて彼女の表情を見ようとした。すると、その動作に引きずられるようにして体が傾く。もう自分で体を支えることさえできない。女は水面から顔を出すようにして少女の側へと倒れ込んだ。


「──と、とりあえず教会へご案内いたします。そこでお話を聞かせて下さい」


「あ、あた、あたたた、たまれるなら。なんでっ、も……」


 女は紫色に変色しかかっている唇を震わせながら、かろうじてそう答えた。少女は恐る恐る彼女の肩に触れる。今度は先ほどのように手を弾かれたりはしなかった。少女は女の体を自分の方に引きずり寄せて外套にくるみ、抱き上げた。


 衣服越しに伝わってくる少女の温度が太陽の日差しのように暖かい。女は遠のきかけた意識が戻ってくるように感じた。と同時に、自分を軽々と持ち上げた少女に驚きの視線を向ける。


「お、おじょう、さん。じつは……ものすごい、ちからもち?」


「いいえ、そんなことは。魔法で体を浮かせているだけですので」


「まほ……う?」


「はい」


 少女は真面目な顔でその単語を口にする。それを聞いた女は信じられないといった様子で目を丸くした。


「え……、まほうとか、まじですか?」


「まじ?」


 首を傾げる少女の疑問には答えず、女は視線だけを動かして自分を抱える腕やら手やらをきょろきょろと見回した。そして腰に差してある杖──その持ち手についている石がほんのりと発光しているのを見つけた。それは何か未知の効力が発揮されている証拠のように見えた。


「いや、い、いやいや。そんな、こと……ないって」


 少女の言葉が信じられない女は改めて真偽を確かめようと彼女を見上げる。すると美少女の美少女たるゆえんである整った容姿が間近に迫った。白い肌が彼女自身の体温で淡い桃色に染まっている。瞬きのたびに揺れる長い睫毛を見て、「こんなところまで金色なんだな」。などと見たままの感想を思っていると、その視線に気づいた少女と目が合った。


「そうでした。お名前をお聞きしてもよろしいですか?」


「なま、え?」


 少女は歩きながら女に聞いた。女はその問いに答えようとして……、


 言葉が出てこなかった。


 思い出せない……探る記憶の中には名前以外にもいくつか空洞の部分があるようだった。女は自分の顔を触ってその姿形を確かめる。目、鼻、口、顎……こんな顔だった人物の名前とは、いったい何だった? 頭文字さえ思い当たらず、女は助けを求めるように少女を見、その瞳を目に映した。


「そら……」


 冬の厚い雲の下にかいま見えたその小さな青空を見て、女は呟いた。


 途端に、頭の中に言葉が浮かび上がる。


 アオイソラ。 


「えっと……なまえは。ソラ、です」


 それは確かに自分の名前だった。


「ソラさんですね。私はジーノと申します」


 ジーノは青空の瞳を金色の睫毛に隠して微笑んだ。一歩ずつ彼女の歩く速度が上がっていって、やがて駆け足になる。その腕に揺られながら、ソラは自分の名前を思い出したことをきっかけに記憶の欠損が埋まっていくのを感じていた。


 同時に、現状を理解する。


 もしかしなくてもこれは……、


「いせかい、だ……」


 意外にも冷静にその結論を導き出したソラは、元の世界では人目を忍ぶオタクなのだった。

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