第18話 「積もる話」
結果、軍配が上がったのはミュアー側だった。それは味方にエースが付いたからというわけではなく、ミュアー自身の絶妙な制球力があってのことだった。
彼女の勝利にはセトル側にソラが付いたのも幸いした。というのも、投げた雪玉は一つも当たらず、相手方から玉が飛んでくれば必ずと言っていいほど被弾する彼女を戦力に数えることができなかったためだ。そういうわけで、実質一人少ないどころか足手まといを抱えたセトルチームは大敗を喫したのであった。
「ねーちゃんの役立たずー!!」
「ごめんなさい。ホンットすみません。申し訳ない。平にご容赦を」
涙をにじませるセトルは疲れきって地面に突っ伏すソラの背中をポカポカと叩いた。それが大して痛くないのは彼の優しさだろう。必死に謝りつつ「口は悪いが根はいい子なんだな」と感心するソラの目の前で、ミュアーは高笑いをして勝利を喜んでいた。
「ウフフフ! キャハハハ!! セトルの泣きっ面はいつ見ても面白いわね! あーいい気分。私とぉってもスッキリしたわ」
こちらは見かけと同じく内面も容赦がない。雪玉飛び交う戦場において恰好の的であったソラを執拗に攻めたのは何を隠そう、このミュアーである。
ソラはセトルの涙を拭ってあげながら彼女に問う。
「ミュアーちゃん。私、何かキミに悪いことしました?」
「特にしてはいないわね?」
「じゃあ何であんな目の敵にしたのさ」
「ヘラヘラした態度を矯正してやろうかと思って」
「……」
「態度を改める気になったかしら?」
「はい。お嬢様……」
とりあえずミュアーの前では普段のぞんさいな性格は引っ込めておいた方がいいようだ。身をもって学習したソラは襟や袖の間から入った雪をかき出しつつ、凸凹の地面に座り込んだ。まだ涙をにじませるセトルの頭をなでて、精一杯の謝罪を述べる。
「ごめんね、セトルくん」
「もういいし。次はねーちゃん、ミュアーの方に付けよな」
「おっけー。それでミュアーちゃんをボロクソに負かしてやろう」
「あら! ソラがいたって勝ってみせるわよ」
ひとまず勝敗は決した。ミュアーとセトルが互いに握手をしてわだかまりを解消すると、二人の仲は雪合戦を始める前の状態にすっかり戻っていた。
そうなると、ソラはとたんに背筋が冷えてくるのを感じた。
「ックショィ! あークッソさむ……」
「それユナも思ってた。靴の中まで雪入ってびしょびしょだし、このままじゃ風邪ひいちゃうよ」
「それはいけませんね。濡れた服も乾かさないとですし……」
「つか、もう風呂入ればいいんじゃね? どうせ今の時期客なんていないし、俺んちの風呂使っていいぜ。服乾くまで湯帷子貸してやれるし」
髪の毛の先から滴を垂らしつつベリックが言う。彼はソラと同じようなくしゃみをしながらエースの服の裾を摘む。
「エース兄ちゃんも来なよ。それ直すのは後で手伝うからさ」
勝負がついてからというものの、ぐちゃぐちゃになってしまった地面を一人でせっせと均していたエースの手を引っ張り、ベリックは坂の方に向かう。
「ハァー? おま、ベリックなに勝手に言ってんだよ」
「いや、セトル。荒らしたの僕らなんだからそこは手伝おうよ?」
盛大に顔を歪めて不満を漏らすセトルをカムが呆れたように諫めた。それでも口をとがらせる少年に、エースが手を合わせる。
「俺からも頼むよセトル。手伝ってくれないかな? お礼にお菓子作ってあげるから」
「仕方ねーなーもぉぉぉ」
目の前の人参につられたセトルはあっさりと機嫌を直し、エースの背中を押してカムと一緒にルンルンと坂を下って行く。
「姉ちゃんたちもさっさと来いよ。本当に風邪ひいちゃうぞ!」
ベリックは一度振り返りソラたちに声をかけ、セトルらを追いかけて坂を下って行った。残された四人は瞬く間に退散した男子連中の姿をぽかんとしたまま見送り……、
「っくしゅん! とにかくベリックくんについてこーよ。これ本気で寒いわ」
「そうしましたら、ベリックの宿にお世話になることをお父様に伝えておかないとですね。今はどこにいるのか……?」
「ここに来る前はユナのおうちに来てたよ。いつもならその後セトルの所を回ってベリックのお宿に行くはずだから、もしかしたらちょうどよく会えるかも」
「そうですね。それでは……私はともかく、ソラ様たちは早く温まった方がいいでしょうから、急ぎましょう」
「はーい」
シルベに乗ったミュアーを先頭に、凸凹道をそのままにして彼女らも坂道を下りた。ソラは寒さに体を震わせながらも、チラチラと村の様子を見て歩いていく。雪深いこの村はどの家も高床式で一階は物置になっており、玄関は階段を上がって二階部分にあった。外観は露出した柱と梁の間を漆喰で埋める作りになっていて、筋交いが見えるようなところもあり、ソラからすると異国の風情があふれる家並みとなっていた。
そんな村の中心部には噴水広場があり、冬のさなかでも小さなしぶきをたてて水が流れていた。薄く湯気が上がっていることから、どこからか湧いている温泉を流しているらしいことが分かった。ベリックの家が経営しているという宿はその広場の真ん前にあった。村の入り口から一直線の突き当たりで、傾斜の急な屋根のせいで妙に細長く見えるのが特徴的な佇まいだった。
宿の玄関につながる階段を上る途中、ミュアーが思い出したように手を叩く。
「シルベ用の湯おけを出してもらわなきゃね」
「へぇ。わんこも一緒に入って大丈夫なの?」
ソラが聞くと、ミュアーは眉間にしわを寄せて口調を厳しくした。
「失礼ね。シルベは犬じゃないわ。誇り高き女狼なんだから」
「ほう……?」
ソラの目にはどこからどう見てもサモエドにしか見えないシルベは、ミュアーの言葉を肯定するかのようにワンと鳴いた。
本人たちが言うのなら、それが本当なのだろう。
ソラはそう思うことにした。
「んじゃ改めて質問。ベリックくんのおうちのお風呂は狼さんも一緒に入れるの?」
「ええ。うちの家のお風呂は小さいから、シルベを洗う時はいつも貸してもらってるの。別に湯船に入るわけじゃないしね」
「そうなんだ。なら問題ないか」
ミュアーはいつも持ち歩いているというタオルでシルベの足を拭いてから宿の中に入った。四人は宿のロビーでベリックの母親と思われる人物に挨拶をし、先に入浴料の支払いを済ませ湯帷子とタオルを受け取る。この世界の通貨を持っていないソラは財布を教会に忘れたことにしてジーノに立て替えてもらった。だらしないと呆れるミュアーの視線が痛い。
そのやりとりを見ながら、宿の女将は微笑ましそうに目を細めて言った。
「ベリックから聞いてるわ。脱衣場には衣紋掛けを出しておいたから、そこに濡れたお洋服を掛けておいてね。後で私が取りに行って、貴方たちがお風呂に入ってる間に乾かしておくわ」
にっこりと笑みを浮かべる彼女にジーノが声をかける。
「あの、こちらに父が来ていませんか?」
「スラン祠祭? 彼なら奥でうちの旦那と話してるけど」
「もしだったら、教会を空けて来てしまっていることを伝えていただけませんか?」
「分かったわ。そういうことならお安いご用よ」
女将は大きな目でパチリと音がするようなウィンクをする。
「シルベ用の湯おけも出してあるから、いつも通り使ってちょうだいね」
「ありがとうございます、おば様」
よく温まるのよ、と人差し指を立てる女将に頭を下げ、ソラたちはミュアーを先頭に大浴場へ向かう。この宿は宿泊以外に村の公衆浴場的な役割もあるらしく、湯殿はロビーをまっすぐ進んで近くの所にあった。
「教会のお風呂も割に大きかったけど、みんなに開放されてはないんだ?」
「はい。教会のお風呂があの大きさなのは、巡礼の御一行様が泊まった時にも不自由しないようにと作られたからなのです」
「なるほどね~。そういえば私が泊まってるのもそのための大部屋だったっけ?」
「ええ、そうです」
などと話しながら横引きのドアを開けて入った脱衣場はソラが想像するところの温泉施設と変わらなかった。壁際の棚には衣類を入れるかごが並び、洗面台列の前と部屋の中央に籐編みの椅子が並んでいる。女将が出しておいたという衣紋掛けはかご棚の向かいに置かれていた。
そうして室内を見渡し、湯気で曇るガラスの向こうを見たところ、客はソラたちしかいないようだった。
四人は思い思いの籠を選んで湯帷子とタオルを入れ、雪に濡れてひんやりとした服を脱いで衣紋掛けに掛けていく。下着を脱いで籠の中に入れると、ソラは下からミュアーの視線を感じて目線を落とした。
「あの、ミュアーお嬢様? 何でしょうか?」
「ソラも傷があるのね」
「……私、も?」
「ええ。私はほら、腰にあるのよ」
そう言って後ろを向いたミュアーの腰には、斜めに大きな傷が走っていた。
「い、痛そうだね。どうしたのかって聞いてもいい?」
「昔ね、木に上って遊んでたら枝が折れちゃって。落ちた時にその枝がけっこうザックリと引っかいてくれたのよ」
「それ、ユナも覚えてる。血がどばーって出て大変だったんだよ。でも、ユナが叫んだ声を聞いてエースお兄ちゃんとケイ先生が来てくれて……」
「それで私は助かったってわけ。傷は残っちゃったし、今も足はあまり高く上げられないんだけど、平らなところなら歩けるのよ。魔法施術士がいなかったのにここまで回復したんだから大したものよね」
「そっかぁ。エースくんと、そのケイ先生って人はキミの命の恩人なんだね」
「そういうことよ。お兄ちゃん、普段はぽやっとしてるけどホントはすごい人なんだから」
「そうそう。セトルたちと違って全然落ち着いてて、カッコいいんだよね~」
彼の妹がいる前でも、少女たちは顔を赤くしてため息をつく。
ジーノはそんな二人を優しい目で見つめて言う。
「ですが一番すごいのはミュアーですよ。傷が治った後も一生懸命に歩く訓練を続けて、その努力があったからこそ今の状態まで回復したのだとお兄様は言っていました。ミュアーは頑張り屋さんだって褒めていましたよ」
「フフッ、ウフフ! まあね! 木から落っこちたカッコ悪いところばっかり覚えてられても困るもの。いいとこ見せるのは当たり前よ」
「ミュアーはええかっこしぃだよね~」
「ムッ……ユナだってお兄ちゃんの前じゃ可愛い子ぶりっこのくせに」
「えー!? その言い方ひっどーい!」
「どっちがよ!」
途端にミュアーとユナはキィーと声を上げ、服も着ていないのに取っ組み合いを始める勢いで睨み合った。ソラとジーノはそんな二人の肩を押さえて落ち着かせる。
「お馬さん、どうどう。ですよ」
「私は馬じゃないわよ!」「ユナ馬じゃないもん!」
「ええ、そうですね。だから落ち着きましょう。ね?」
「そうだよ二人とも。あ! ちなみにね、私のは病気の治療でついた傷なんだよ~」
ソラは二人の気を逸らすために話題を自分に向けた。
「ふぅーん。ソラもそれなりに大変な経験をしているのね? そんな風に見えないのが不思議だわ」
「ま、悲劇のヒロ……役者ぶる柄でもないし。不幸を嘆いても仕方ないっしょ」
「それには同意するわ」
「でしょ? そんなことに労力使うくらいだったら、空元気だろうがヤケクソだろうが将来は明るいんだって思ってた方がいくらか建設的だろってね」
「そういう心がけには好感が持てるわね。まぁ、だからって別に好きってわけじゃないわよ。誤解しないでよね」
「わあ~。生ツンデレだぁ。可愛い可愛い──いやでも待って。コレもしかしてデレてはいないんじゃ……?」
よくよく考えてみれば、ただツンで突き刺されただけであった。
とは言え、ソラが刺された甲斐もあって少女二人はひとまず落ち着きを取り戻し、全裸でのキャットファイトは何とか避けることができた。四人は気を取り直して大浴場のドアを開け、湯煙の中に分け入っていく。シルベはミュアーを気遣うようにして、彼女の隣をゆっくりと歩いていた。
「それにしても、狼さんはミュアーちゃんの言うことをよく聞くんだね」
「当たり前よ。番だもの」
「つがい?」
「貴方、知らないの? でも……そっか。ソラって東ノ国の人っぽい顔だし、そっちじゃ違う呼び方してるのかもしれないわね」
「そうそう。そーなんですよ」
異世界人だとバレても面倒なので、ソラは都合良くミュアーの勘違いに従っておく。
「何だか気になる言い方だけど、いいわ。せっかくだから教えてあげる。番って言うのはね、獣使いが陪臣の契約をした相手なのよ」
「獣使いか。文字通り獣──動物を操るというか、使役するような能力の持ち主なのかな?」
「概ねそうよ。私は獣使いとしての能力が弱いから近くじゃないとシルベと意志の疎通が難しいけど、私の伯父様は才能のある人でね、番の鷹を使って天気を見たり村の周りで危ないところがないか警戒して回ったりしてくれてるの」
「なに言ってんの。弱いとか関係なくすごい能力じゃん。ま、そうじゃなくても狼さんはキミのこと慕ってそうだけどね」
「……さあ? どうかしらね?」
ミュアーはシルベの湯おけに湯を流し入れながら、少し顔を赤くしてそっぽを向いた。シルベはそんな彼女の腕を濡れた鼻で構い、甘えた声を出す。
それから四人がかりでシルベの体を洗い、彼女が体を振って飛んできた飛沫に悲鳴を上げたりして、最後に自分たちの体を綺麗に洗った。その中、ジーノが長い髪を洗っていると、ソラが羨む視線と一緒に声をかけた。
「やっぱジーノちゃんの髪の毛、綺麗だよね。こんなに長いのに毛先までツルツルで真っ直ぐだし。これも若さかなぁ……」
「私としては、ソラ様のようなちょっと癖のある髪の毛にもあこがれますよ?」
「それユナも思ってた~」
「そう言えば氷都とか都会の方ではわざと毛先をうねらせる髪型が流行ってるって、この前来た行商のおじ様が言ってたわね?」
「うーん。でも天然でこれだとあんまいいことないよ? 朝は寝癖で爆発するし、絡まったり湿気でまとまり悪くなったりして扱いけっこう面倒なんだよね」
ソラは自分の毛先をくるくると指先に巻き付け、芯となる指を抜いた後も巻いたままになっている髪を恨みがましく見やった。
「私もサラツヤの直毛がよかったな」
「真っ直ぐ髪の毛のソラねぇ? どんな風になるのかしら?」
「はいはい! ユナ名案思いついたよ! 頭のてっぺんからお湯かけてみれば再現できるんじゃないかな?」
そう言ったユナが湯をたっぷりと汲んだ桶を手に近づいてくる。
「あ! いいねそれ。ユナちゃんドバッとかけちゃって~」
「いいのですか? ソラ様……」
「うん。全然おっけー」
──と言ってソラが口を開けている間にユナが後ろから湯をかけた。ソラは口に入った湯をゲホゲホと吐き出しながら、しっとりと湿った髪を少し引っ張り気味に摘んでミュアーの方に顔を向けた。
「こんなんだけど、どう?」
「あら。意外と似合うわね」
「ユナもミュアーに同意~」
「ヘヘヘッ、やったね。ジーノちゃんは? コレどう思う?」
ソラはそのままジーノの方に向き、子どものようにはしゃいで首を傾げる。ジーノはその無邪気な仕草にクスリと笑った。
「はい。落ち着いた雰囲気がソラ様の天真爛漫さを引き立てるようで、とても素敵だと思います」
ジーノは濡れた前髪をかき上げながら言う。水分を含んだ睫毛をゆっくりと上下させる目元がどこか兄に似ていて、それを目の前で見ていたミュアーとユナはそろって顔を赤くして湯船の方に逃げていった。ソラはソラで、「美人だ……」と呟きニマニマとしていた。
その後ろでバシャンと音を立てて子ども二人がお湯に飛び込む。ジーノは少し意地悪な表情になってソラの肩越しに彼女たちを見つめた。
「ジーノちゃん、分かっててやったね?」
「ふふっ。あの子たちが面白くて、ついからかってしまいました」
「悪いお姉さんだなぁ!」
彼女のそれはソラに対してぞんざいな態度を取るミュアーへのちょっとした仕返しでもあった。ユナはかわいそうだが巻き込み事故である。
ソラとジーノは互いに顔を見合わせて一度笑い合うと、ミュアーとユナの後を追って湯船に入った。一緒に入れないシルベは新たに湯を張ってもらった桶に浸かって、縁に顎を乗せてくつろいでいる。
ぴちゃん……と天井から落ちてくる滴の間に、隣の男湯から楽しげな声と湯船に飛び込むような音が聞こえてきた。
「まったく、男子って落ち着きがないんだから」
ミュアーは自分も飛び込んだことを棚に上げてため息をつく。その横で、ソラはある方向から見つめてくる一対の瞳に気づいていた。
「な、なんでしょうかユナちゃん……?」
彼女がどこにじっと目を留めているのか分かっているだけに、ソラの声は気まずそうだった。
「アハハ。みんな一緒だね~」
ユナは自分の小さな胸を押さえてそう言った。
「そう、ね……」
それに対し、ソラは自嘲気味に笑って頷いた。
「ちょっとユナ、ソラのあの顔を見なさいよ。傷ついてるじゃない」
「え?」
無神経よ、と咎めるミュアーにユナはサッと表情を変えて泣きそうな顔になった。
「ご、ごめんなさい。ジーノお姉ちゃんがそういうの気にしてないから、いつもの調子で言っちゃった……」
ジーノが気にしない態度だから、ソラにもそれを言って大丈夫だと彼女は思ったらしい。ソラは少し困ったように笑いながら、それでも首を左右に振ってユナの発言を許す。
「私が勝手に気にしてるだけだし、次から気をつけてくれれば大丈夫だから。ユナちゃんはそんな気に病まなくていいよ。──ってか、ジーノちゃんはやっぱり気にしたりしないんだ?」
ソラはジーノの方を向いてズバリ聞く。
「はい。そういったことはあまり気になりませんね。別に全くないというわけでもありませんし」
「ぐ……、私もそのくらい前向きな性格になりたい……だがなれない」
「大きいのもそれはそれで大変、という実例を知っているからかもしれませんね。年を取ると形の維持も何かと手が掛かるようですし、私などは邪魔になるだけならむしろない方がいいのではとさえ思います」
「邪魔ってキミね。少しくらいはあった方がいいと思うよ? 彼氏とか……」
ソラは何かを言いにくそうにして視線を上げ、そのまま右方向にスライドさせて隣の男湯の方を見た。そちらには他の客も入っているらしく、知らない男の声が聞こえた。
「エースのその髪はホンット紛らわしいな。後ろ姿だけだとオネーチャンと間違えちまうぜ」
「? ここ男湯ですよ?」
「そりゃ分かってるよ。そのトンチキも相変わらずだな。そんなんだからその年になっても童貞なんだよ。俺ぁ心配で仕方ねぇよ」
「えっと、うーん……。ご心配をおかけしてすみません……?」
聞いていたソラは「あー、いるいる。こういうこと言う人」と若干呆れた顔になって、湯煙でかすむ天井を見上げた。
そういう話を自分もするところだった。しかも未成年の少女が相手となると、ちょっとした事案である。
セクハラ、駄目。絶対。
「危なかったわー」
「何が危なかったのですか?」
「いや何でも。まぁ私は色々と引きずりすぎってことだね……」
ソラはずるずると浴槽の縁にもたれ、顎先まで湯に潜った。そこになぜか目を輝かせたミュアーが近づいてくる。他人を蔑む視線が印象的な彼女にそんな目で見られ、ソラは首筋のあたりがムズムズとするのを感じた。
「何かミュアーお嬢様の目つきが怖い」
「あらぁ、そんなことないわよ。私はただソラが何を引きずってるのかが気になるだけ」
「何って、そりゃ、あの……」
「もしかして恋かしら? 恋なのかしら? そうよね貴方だって大人だものね! 恋の一つや二つ、したことあるわよね!」
「恋バナ好きとか、キミってホント女の子だねぇ」
「当ったり前じゃないの」
「なぁに? ソラお姉ちゃんの恋の話? ユナも気になる!」
「ちょい、お嬢さん方。近い近いそして鼻息荒い」
「洗いざらい白状するといいわ!」
「吐け~!」
「分かった、分かったってば! 上がったらね!」
はぐらかそうとするソラに少女たちはバシャバシャと湯をかけて追いつめ、ついに言質を取る。
「そうと決まれば上がるわよ。もう十分に温まったわ」
「ほらほらお姉ちゃん! 上がろ!」
ソラは二人に腕を掴まれ強制的に湯船から引き上げられ、ジーノがその後に続いて湯船を出た。シルベも湯桶から立ち上がって体を震わせ水気を飛ばし、主人の背中を追う。
脱衣場まで戻ってきて、素肌にひんやりとした空気を受ける。
ソラはそんなに長く温まっていたつもりはないのに、頭がぼんやりとするのを感じた。
「あ──っと。ヤバ……」
視界の上の方から黒い砂がサラサラと落ちてきて、ソラは床が波打っているような気がして立っていられなくなる。どうやら湯中たりしてしまったらしい彼女は、思わず膝を付いてその場にうずくまった。




