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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第一章 ペンカーデル
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第16話 「諸刃の剣」

 薄暗い微睡みのトンネルを抜けて、私は霧の中をさまよっていた。


 辺りは一面真っ白で何も見えない。けれど周囲には人の気配があって、それらは私が向いているのとは真逆の方向に流れていた。


 頭の片隅で、これは夢だと分かっていた。


 私は後ろを振り向いて、今し方歩いてきたトンネルを見つめる。黒く塗りつぶされた空間の中心に米粒ほどの白い点が見える。霧の中に溶けている人々はその点を目指して流れているようだった。人波の中で水流を割る石のように立っている私は、人々に肩を押され意思に反して歩いてきた道を引き返すことになった。


 白い点の向こう側──夢の覚める方向へと私は体を向ける。


 トンネルは霧の中に黒くくっきりと浮かび上がって、まるで穴があいているようにも見えた。仮にそうだとしたらとても深い穴だ。落ちたら這い上がることはできないだろう。


 私は途端にその穴が恐ろしくなって後退りした。だがそのトンネルが穴だと気づいてしまった時点でそれは手遅れだった。私は為す術もなく底へと落ちていき、さっきまでいた場所がだんだんと小さな点になっていく様を見ているしかなかった。


 それからずっと、ずっと落ち続けて……、


「──痛い」


 異世界にやって来て二度目の朝が来た。


 ソラは布団ごとベッドから転げ落ち、ぶつけた頭をさすって起き上がった。もともと癖のある髪が寝癖でさらにうねり、指に絡みつく。それを丁寧に解きほぐしながらベッドの上に戻って、ぼんやりと窓の方を見る。


 雪は降っていない。空はまだ日が昇っていないのか真っ黒だった。


 ソラは服の隙間から入り込んでくる冷気に身を縮め、布団をかき寄せる。このままもう一度寝ることも考えたが、あの落ち続ける夢の続きを見るかと思うと横になる気にはなれなかった。彼女は布団の中から毛布だけを抜き取って頭から被り、隙間から出した手に火を灯したろうそくを持って部屋を出る。


 しんと静まり返った廊下にドアを閉める音が響く。暗い通路にろうそくの火が揺れ、乾いた足音があちこちの壁に反響して好き勝手に歩いて行く。ソラは何となく目に入った居間のドアを小さく開き、隙間に体を滑り込ませて中へ入った。


 暖炉には小さな炎が燃えていて、部屋の中は他よりいくぶん暖かかった。暖炉の前にある二人掛けのソファのところまで歩いて行き、背もたれに手を置いて正面に回り込む。全体をリネンで張られたそれにはパッチワークキルトのカバーがかけられていた。一定の間隔で整然と縫われたそれは職人技のようにも見える。


 ソラは手に持っていた燭台の火を消してテーブルに置くと、そのソファに腰を下ろした。それはソラの体重を受けて浅く沈み込み、程よい反発で彼女を包み込んだ。


「……」


 ソラは背もたれに寄りかかって天井を見上げ、食卓の方に目を向ける。一昨日の夜と昨日の朝……そこで食事をしたときの様子が視界に再生されるのを眺めていると、食卓に着く人物の姿を霧の人影が覆った。


 似通った光景を思い浮かべれば何か思い出せるかもと思ったのだが、


「やっぱ思い出せない、か……」


 こうもさっぱり家族に関する記憶が消えているとなると、これから先も思い出せるか怪しいものだ。ソラは顔の向きを天井に戻して目を閉じ、胸の空虚に蓋をする。耳には地面から吹き上げられて窓ガラスを打つ氷粒の音が聞こえていた。その音はさらさらと流れる水のようにソラの体に絡みつき、彼女を再びトンネルの底へと押し流して行った。




 それから数刻もしないうちに、朝食の準備のために起床したエースが居間にやって来て、狭い椅子の上で器用に眠りこけているソラを発見した。暖炉の火があるため他の部屋より暖かいとは言え、こんなところで毛布一枚にくるまって寝ているとは、いったい何を考えているのか。ため息を吐いて、エースは彼女の横へと回る。


 いつからここで寝ていたのかは知らないが、ソラはぐっすりと眠り込んでいるようだった。エースはソラを起こすべく、その肩に手を置いて軽く揺すろうとして……頬の傷を覆う綿布が目に入り、手を引っ込めた。


 彼女が起き抜けに自分の顔を見て悲鳴を上げたらどうしよう。


 ソラが怒っていないことは父から聞いていたが、昨日の行いをすっかり悔やんでいるエースは彼女の恐怖の元凶たる自分を今すぐここから消してしまいたい思いだった。


 腰に差した剣を無意識に触り……首を振る。


「……朝食の準備をしよう」


 エースは厚手の毛布をもう一枚持ってきてソラに掛けると、そのまま台所の方へ向かおうとした。その後ろで、計ったようにソラが起き上がる。掛けたばかりの毛布が肩からずり落ち、彼女は寝ぼけ眼をこすってあくびを漏らした。


「んん~、む? あ……エースくん?」


「は……はい。おはようございます」


「おはよ。キミってば早起きだね」


「今日は食事当番ですから。あの……ソラ様、少々言いにくいのですが……」


「なに?」


「口を、その、拭いた方がよいかと……思います」


「くち? 口を……、あッ!」


 ソラは端から顔をのぞかせていた涎を手で隠し、すかさずエースが差し出した薄いちり紙を受け取って、顔を背けてそれをふき取る。


「みっともないところを見せてしまった……いや、ちょっと待って。これってつまり、エースくんに大口開けて寝てるところを見られたってことだよね」


「いえ、口はさっきまでちゃんと閉まってましたよ」


「本当に? よかっ──でも寝顔は見たんだよね?」


「え? ええ……」


「うわぁ……ヤダお願い忘れて。記憶から抹消して。ここで見たこと全部」


 ソラは真っ赤に茹だった頬を両手で隠して俯いた。エースはその様子を前に驚きを隠せなかった。自分がソラと普通に話せたことにもそうだが、ソラが昨日の出来事をみじんも感じさせない顔つきなのはあまりにも意外だった。無理に明るく努めているようでもないのだ。


 もっとも、察しの悪い自分だから分かっていないだけかもしれないが……と、エースは楽観しようとする頭を冷静に制する。


「もうホント恥ずかしい……」


 ソラはぐるぐると毛布にくるまっていた。


「……別に変な顔はされてませんでしたよ?」


「そういう問題じゃないの。何て言うか、付き合ってもない子に寝顔見られるとか……ないわ。ないわぁ……」


「ない、ですか?」


 エースはソラの言葉の意味合いが分からず、眉をハの字にして首を捻る。毛布の芋虫は声の変化を敏感に察し、もぞもぞと動いて顔だけを覗かせて言葉を正した。


「何もエースくんを責めてるわけじゃないんだ。元はと言えばこんなところでアホ面さらして寝てた私が悪いんだし」


「……えっと、それは……。その……?」


「つまり私は自分の不注意を嘆いているのです」


「なる、ほど……?」


 ソラは相変わらず芋虫のままで真面目に言う。エースはしゃがみ込んで椅子の上でうずくまる彼女と目線を合わせると、瞼を伏せて少し視線をさまよわせ、やがて意を決して口を開いた。


「ソラ様……昨日は本当に怖い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」


 その態度を受け、ソラはむくりと起きあがって椅子の上に正座する。


「……うん。確かにすごく怖かった。けどね、あの後よく考えたらね、エースくんの反応も分からないではなかったんだ」


「言い訳にしかなりませんが……正直に言うと俺も怖かったです。子どもの頃からずっと魔女は悪い存在だと教えられてきて、その象徴である力がソラ様にあると知って、大切なものが全部奪われるんじゃないかと……」


「普通はそう思っちゃうよ」


「……」


「うーん。となると、怖い思いをさせちゃったのは私も一緒かな。だから──」


 ごめん……と言いかけたソラを止め、エースは笑みを浮かべずともスランのように柔らかい表情で言った。


「光と陰、どちらにせよ貴方は望んでその力を得たわけではない。そうですよね?」


「うん」


「それなら謝らないでください。ソラ様は一つも悪くない。魔女の資質だけを見て、貴方自身を見失ってしまった俺が悪いんですから」


「わ……分かった」


 膝をついてしっとりと見上げてくる美男子を前に、これを意識してやっているわけではないのだから困ったものだと、ソラは少しばかり頬を赤らめた。


 顔が熱い。


 何だかとても気恥ずかしい。


 だが、美形の上目遣いを見ないのはもったいない。


 ソラはエースを見てどぎまぎする一方で、その表情にジーノの姿が重なるように思った。


「キミたちやっぱり兄妹だね。よく似てるよ」


 そろって美しく、兄は佳麗で妹は可憐。それは何も見た目のことだけではなく、ソラは内面の性質にも同様のものを感じていた。


「そして……スランさんと親子なんだね」


 生みの親にしろ、育ての親にしろ、その存在が兄妹のこの気だてに影響したことは間違いない。そう考えてみると、ソラの胸を覆っていた霧に一筋の光明が差した。


 自分を見つめ直すことで、家族を思い出せるかもしれない。


「自分探しってやつか。この年になってすることになるとはなぁ……」


「何です?」


「あ、独り言です。気にしないでいいよ」


「そうですか?」


 気の抜けたような笑い方をしたソラは肩に掛けていた毛布を畳み、ソファから降りて立ち上がると大きく伸びをした。


「これから朝ご飯の準備なんだっけ?」


「そうです」


「手伝うよ。といっても、料理下手だから洗い物とかお皿出したりとかだけど」


「そんな、気を使わなくても……」


「まぁまぁお兄さん、そう言わずに気を使われましょうよ」


 ソラはエースの背中を押して台所へとついて行った。彼女は包丁を持てば必ずどこかに何かしらの傷を作るため、刃物には近づかなかった。野菜に付いた泥を洗い、鍋に湯を沸かし、エースが使い終わった道具を片づけ……そうした手伝いをこなす。


 いそいそと動き回る彼女の隣で、エースはてきぱきと料理を作り上げていく。彼は調理の一方で、ソラの様子を横目に観察していた。


 自分の料理慣れした手さばきに心底感心するソラという人間は、あまりにも普通だった。魔女も聖人も、教会やこの地に残る伝承の中では人知を超越した存在として書かれていた。今となってはそれらの内容を素直に信じるエースではなかったが、特別な存在であることには変わりない。それがこんなにも常人でいいのかと……そう不審に思えてしまうほど、ソラは昨日の礼拝堂で本人が言ったとおり普通の人間だった。


 伝承も長い時を経て歪んでしまっているのかもしれない。何事も変わらずに在るものはないのだ。何十年、何百年と人を介して伝わってきたそれは、伝える人間が変わる度に隅々で食い違ってきたのだろう。


 何事も「どうして」と考えることが肝心だ。分からないことだけではなく分かっていることも疑ってみれば、新しい視点を見つけられる。


 エースの師──ケイはよくそう言っていた。


 この地方の伝承を再検証するだけでは足りない。他の地域に伝わるもっと多くの過去を調べる必要がある。


 もしかしたら、各地を旅して回っている師であればそういったことにも詳しいかもしれない。


「定期の伝書が来たら聞いてみよう……」


 エースはいつもどこからともなく飛んでくる鷹の姿を思い出しつつ、そのくちばしのように鋭く曲がった奇妙な形の芋をまな板の上に置き、包丁で切り分けていった。

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