第15話 「家族の肖像」
スランは居間を後にし、ソラが引きこもっている部屋の前まで来て扉を叩く。顔を見せても大丈夫かと聞き、
「エースは連れてきていません。私だけです」
少し間をおいて中からソラの声がして、「どうぞ」と言った。スランは部屋の中には入らず、廊下に立って扉の隙間から顔だけを覗かせた。座っていたところを立とうとするソラを制し、そのままでいいと言ってスランは話し始める。
「具合はどうです?」
「アー、ええ。まあ……さっきよりは落ち着きました」
「そうですか。それはよかった」
ソラは少し気まずそうな表情であった。視線は左右を行ったり来たりして、スランの目をわずかにかするばかりである。落ち着いたとは言うものの、まだエースと話をするのは難しそうだった。
「あの……エースくん、怒ってたりします?」
「どちらかというとその反対ですね。落ち込んでいますよ」
「え? あ……そう、ですか」
「ソラ様は、エースにお怒りですか?」
「いえ。そんな、全く。むしろあんなキツい言い方して悪かったな、と思ったり……しております」
礼拝堂で見せた感情はすっかり形を潜めて、ソラは申し訳なさそうに俯いた。彼女は膝の上で服の裾をきゅっと握っていた手を開き、そこでようやくスランと目が合った。
「エースも思慮に欠ける愚かな行動だったと反省していました」
「そうですか……」
この短いやり取りでソラの様子は随分と平静に戻ったように見えるが、油断は禁物である。スランは彼女にあまり負担をかけたくなくて、必要なことだけを伝えて今はさっさと退散しようと考えた。
「ソラ様がその気になったときで構わないのですが、エースの話を聞いてやってください」
「ええ……それは、そうですね。聞かなきゃいけないと思ってます」
「急かすつもりはないので。ゆっくり気持ちを整理して、ソラ様が大丈夫だと判断したらそのときに教えてください」
「それなら、少しだけ時間をもらいたいです。そうだな……明日くらいにはどうにか気持ちにケリをつけますので」
「分かりました。ですが、どうか無理はなさらないでくださいね。明日でなくとも全然構いませんから」
スランは見る者を安心させる穏やかな笑みを浮かべ、ソラの心を解きほぐす。ソラもまた似たような表情を作り、すると彼女の横に控えていたジーノが疑問を口にした。
「そうしましたら、お食事はどうしましょうか……?」
「それね。たぶんエースくんの方が気まずいだろうし……できればここで食べたいかな。わがまま言ってすみません……」
ソラはジーノの方に顔を向けながら、ちらりとスランを見る。
「大丈夫ですよ。むしろお気遣いいただいて申し訳ないくらいです」
「いえいえ、そんな……」
そこで部屋を後にしようとするスランを、ソラが引き留めた。
「あの、エースくんに……その、あまり気に病まないように伝えてください。私さっきジーノちゃんから魔女の話を聞いて、彼があんな行動に出たのも納得できたので」
「……分かりました。伝えます」
スランはしかと頷いてそう答えた。彼はそのまま静かに扉を閉め、居間への廊下をゆっくりと戻っていく。
「貴方は……本当に善き方なのですね」
昼間でも薄暗い廊下に、スランのささやきが響いて……消える。
どうして彼女に魔女の資質があるのか。それが残念でならない。
スランは無意識に胸の十字架を強く握りしめていた。ソラを憎むような気持ちはないが、生まれてこの方ずっと信仰と共に生きてきたスランはエースのように気持ちを切り替えられないでいた。
魔女は憎むべき存在。
その力は忌むべきもの。
教会の教えでも、この地方に伝わる伝承でも、魔女とは斯様に悪として扱われる。
スランにはエースとジーノという子どもがいる。そして、二人の手本となるよう、これまでずっと物事に対して公正であるように心がけてきた。
その姿勢を今回だけ崩すわけにはいかない。
スランは理想と現実と信仰の間をぐるぐると回りながら、そのうち目が回って転んでしまう気がしてため息をついた。
それから日没まで、ソラはその宣言通りほとんど部屋から出て来ずに一日を過ごした。彼女が気持ちに整理をつけるために必要とした時間はやはりエースにも必要なものだったらしく、彼は午後の作務と日課の鍛錬に黙々と打ち込んで自分の気持ちに向き合っていた。
そうして日が暮れ、夕食も済み、ソラとエースが廊下ではち合わせたりしないようジーノが時間を調節して湯浴みも終わり、あとはそれぞれ寝るだけとなった。
居間からは最初にジーノが、次にエースが出て行った。
スランは二人が自室に引っ込んだのを確かめ、氷都ペンカーデルの魔法院宛てに書簡を書き始めた。そして、頭を悩ませ普段の倍は時間をかけて書き上げたそれを院に向けて飛ばす。
その後、彼は再びソラの部屋の扉を叩いた。
「──夜分にすみません。もうお休みですか?」
「いえ……割とばっちり起きてます」
扉の向こうから聞こえた声は、昼に比べれば気力が満ちていた。
「もしよければ、少しお話ししたいのですが」
「……はい。分かりました」
「子どもたちはもう休みました。居間の方で待っていますので、頃合いのいいときに来てください」
そう言ってスランが居間に戻ってしばらくすると、寝間着姿のソラが現れた。スランは彼女に暖炉前のソファに座るよう促し、わずかでも気が安らぐように茶を淹れた。
「どうぞ。火傷しないように気をつけてください」
「ありがとうございます……」
ソラは器を両手で受け取り、口を近づけて小さく息を吹きかける。
「あの、お話とは何でしょうか?」
「そうですね……何から話したものか。ソラ様は魔女についてジーノからどのようにお聞きになりましたか?」
「ずっと雪が降ってることとか、雨が止まないこととか、地震も……他の国で流行ってる病気も、魔女がこの世界にかけた呪いみたいなものだということは聞きました」
「そしてソラ様が持つ魔力の陰りは魔女が扱ったとされる黒き力の源であるため、人々には……不吉の象徴として恐れられています」
本当は恐れるどころか憎しみの対象とすら言ってもいいのだが、ソラを責めるような言い方をするのはスランの望むところではない。
なるべく棘がないように言葉を選ぼうとしていると、先にソラが話し始めた。
「──最初は呪いとか聞いてもピンと来なかったんです。私の世界でも異常気象や地震、病気なんかはありましたし、その原因は人間の日々の営みによるものだったり、人の手の及ばない大地の活動だったり……とにかく原因は分かっても明確に誰か一人のせいと言えるような事柄じゃなかったんです」
地域や国が違うだけでも言葉、習慣、文化といったものの違いに驚かされるのだから、世界が違うとなればもっと根本的なところから異なっていても不思議ではない。そんな中でソラはついもとの世界に照らし合わせて考えていたから、今一つ分かっていなかった。
魔力の陰りというものがこの世界においてどれだけ不吉なのか。
魔女がこの世界に生きる人々にとってどんな存在なのか。
「でもそうやって起こる現象が魔女のせいだって初めから分かってて、もし自分の大切な人が災害に巻き込まれて死んでしまったら、それって魔女に殺されたも同然なんですよね……」
二十七年を過ごした世界で形成された固定概念に邪魔されつつも、ソラはそう理解した。理解すると同時に、まるで冤罪で死刑宣告をされたかのような絶望感に襲われた。
そんなソラの様子を窺いつつ、スランは少し話題を変えようと言った。
「……血はつながっていませんが、私はエースとジーノを我が子のように思っています」
彼は心の中に愛し子を思い浮かべ表情を緩めた。細めた目には慈愛の情が浮かんでいる。
「とても大切な、子どもたちです」
それはとても温かく、柔らかで、優しい声だった。
「親は子を守るものです」
「はい。私に子どもはいませんけど、もしいたとしたら同じように考えるんじゃないかと思います。親ってそういうものでしょうから」
言いながら、ソラは空っぽの胸を銃弾で撃たれたような……それでいて痛みもなければ失うものもない虚無感が全身に広がっていくのを感じていた。
ソラはスランの顔をまじまじと見つめた。スランは眉間に深々としわを刻み込んで黙り、ソラの視線に気づくと力なく笑った。彼に似合わないその表情……何か言いたいことがあるのに、言葉にできないといった様子だ。
ソラは思う。
一文字に結んだ口の中で彼は今、どんな感情を飲み込んだのだろう?
恐怖?
苛立ち?
不安?
何にせよそれらは全て我が子を案じてのことである。ジーノとエースにはこんなにも思ってくれる父親がいる……ソラはそれが羨ましいと思った。
「……うらやましい?」
ざわざわと、胸の空洞を鳴らすざわめき。それは昨日も感じた妙な違和感だった。
「ソラ様? どうかされましたか?」
「いえ、ちょっと……思い出したいことが……」
目を閉じて意識を自分の内側に向けると、そこには霧が重く立ちこめていた。霧に視線を集中させると、その向こうにぼんやりと輪郭が現れて三つの人影になる。ソラはそれが誰なのか確かめようと近づく……すると、やがて影の輪郭がはっきりとしてきて、顔が浮かび上がってきた。
そこには目も鼻も口も、何もなかった。
「──思い出せない」
「何をです?」
スランは心配そうにソラの顔をのぞき込む。ソラは自分を見る他人の父親を見つめ返して、思う。あの霧の中に浮かび上がった輪郭の一つは確かに彼と同じ形だった。
「両親……いや、家族? が思い出せないんです。他は普通に覚えてるんですけど」
三つの影は家族の数だろうか。
両親と弟妹。あるいは兄姉。
「家族はいたと思うんですよ。でも、まるで初めから一人だったような……幼い頃に死に別れて顔を覚えていない、みたいな?」
顔も、声も、自分が家族にどんな思いを抱いていたのかも、家族からどんな思いを向けられていたのかも、何も思い出せない。
だからなのかもしれない。
異世界に来て何よりも先に「帰りたい」と思わなかったのは。
「帰るなんて、そんなこと思いつきもしなかった……」
異世界召喚という一大事に巻き込まれたのにソラがあっけらかんとしていられたのは、家族に対する思い入れさえも忘れているが故なのかもしれなかった。これで思いだけが残っていたら、さしものソラもこう平然とはしていられなかったろう。
記憶がない。
帰る場所が分からない。
惜しみ嘆く過去も、心の拠り所とすべき未来も見えない。
そこまで理解しても、不思議と涙は出てこなかった。「初めから一人だった」と言う彼女の心には悲しみが一切なかった。あるのは悲しむだけの記憶がないことの虚しさだ。
「独りなのか、私……」
その声に感情らしいものはなく、ただ凍えたように震えていた。記憶の中を歩いてみても誰ともすれ違えず、誰もいない家で、街で、世界で……ソラはたった一人で立っている。辺りを見回して、己しかいないことを知って……けれどもソラはなぜ自分が一人きりなのか、その理由を特に知りたいとは思わなかった。
最初から何もないとは、そういうことだった。
「あはは……困ったな。我ながら寂しい人間になっちゃったもんです」
その横顔が儚くて、スランは彼女の手を握って安心させてやりたいと思った。だが、持ち上げた手は思いのほか重く、彼女の元まで届きそうになかった。スランは十字架と一緒に慚愧を握りしめ、小さく唸る。
「私は不安なんです。貴方があの子たちをどこか遠くへ連れて行ってしまう気がして……」
拐かそうにも、剣術と魔法を使う我が子らにソラが太刀打ちできないことは分かっていた。だが、それでも拭いきれないほどの強い不安をスランは抱いていた。
「聖霊族について、ジーノは話しましたか?」
「はい」
魔女を語るとなれば自然と話に出てくるのは、その種族のことだ。
彼らのことも聞いていたソラは、その外見的特徴が一致する兄妹と魔女の資質を持つ自分とが一緒にいたら、それは不安にもなるだろうとスランの心中を察する。
「スランさんみたいに考えるのが当たり前なんだと思います。子どものことが心配じゃない親なんて、そんなのいませんよ」
家族のことを忘れているソラだが、これは知識や常識で言っているのではなかった。記憶のずっとずっと深いところに刻まれた経験が彼女にそう言わせたのだ。
ソラは親が子どもを心配しないはずがないと信じていた。
それだけは残っていた。
だからこそスランにかけるべき言葉が見つかった。ソラは彼の名を呼び、自分の方に向いたその視線をまっすぐに見つめて言った。
「スランさん。私はあの子たちを貴方から奪おうなんてことは考えていません。傷つけたりするつもりもない。決して、絶対に、そんなことはしない。それだけは信じて下さい」
親から与えられた「思い」も、自分が親に抱いていた「思い」も何一つ残っていないのは、考えようによっては幸運なのかもしれない。愛情だけを残して大切なものを失うのは辛いことだろうから……。
それが自分の子どもであれば尚更だ。
ソラはスランにそんな思いをしてほしくなかった。
「お願いします。どうか、信じてほしい……」
「……信じています。ええ、私は貴方を信じたいと思っています」
スランは何度も頷き、そうあることを自らに言い聞かせているようだった。
それからしばしの沈黙が流れ、仕舞いの口火を切ったのはスランだった。
「いやはや、どうにも長話をしてしまいましたね」
「いえ、スランさんとこうしてお話しできてよかったです。話すと楽になるなんて嘘だと思ってたんですけど、思いのほか気持ちに整理がつくものですね」
「確かに。そうかもしれません」
「明日、ちゃんとエースくんとお話ししてみます」
「ありがとうございます。是非、そうしてやってください」
拳を握って意気込むソラを見て、スランの不安は多少だが払拭されていた。彼は茶の器をソラから受け取り、今日はもう互いに休もうと言った。片づけを手伝おうとする彼女を部屋へと帰し、台所へやってきたスランは水の流れる音を聞きながら、ふと窓の外を見た。
雪がやんでいる。
それは吉兆のように思えたが、それでもスランの心には未だ不安を覚える薄暗い雲がかかっていた。




