第15話 「この命、失おうとも」
ソラを殺し、勝負に勝ったナナシは両手を広げて言った。
「さぁて。絆されちまった魔女に用はない。高みの見物してた白い神様も、いい加減そこをどきな」
ステンドグラスの前──ここにそれはないが本来であれば神の像が置かれている場所に立つ青星に向かって、ナナシは親指を立てて首元を切る仕草をした。
『キミはこの世界を壊すのかい』
「ああ」
『そうか。そういう意志を持つキミがここに残ってしまったということは、もう潮時だったのかな……』
「おいおい、マジか。神様が諦めちまうのかよ?」
『僕は神なんかじゃないさ。元は地上に生きた、ただの子どもだった』
少年はふっと視線を逸らし、自分がこの軸を作ってから千年近くの記憶を振り返った。
地上の人間たちは、世界の崩壊さえも己の欲求を満たすための好機としか捉えない。他種族を蹂躙し、同族同士でも殺し合い、常に誰かを妬み続け猜疑心に満ちた生き物。
青星は人類に愛想を尽かしつつあった。それでも、そんな中にも心優しい者がいることを知っていた。慎ましやかに、誠実に生きる者が在ると。
そんな者たちのために、これまで必死に頑張ってきた。元はただの子どもであった彼が、必死に星を回して現状をどうにか打開できないかと考え続け、その願いが叶う機会を待ち続けてきた。世界の平定を託された種族として誇り高く、後に生きる者たちのためにこの身を費やそうと決め、軸の仕組みを作り上げたその時から、ずっと、ずっと……疲れ切って諦めがついてしまうほどに長く、彼は待っていたのだ。
そこにやってきたのがナナシのような人間だったのだから、これはきっとそういうことなのだと──この世界はもう滅びる頃合いなのだと、青星はそう結論づけようとしていた。
『僕も思うんだ。十分に役目は果たしたんじゃないかって』
「ああ、そういうことか。アンタ、神様の役やってるのにも疲れちまったんだな」
『……もう休みたいんだ、僕は』
ナナシの甘い言葉に青星は頷く。ナナシはその少年を優しく抱き寄せ、その耳元で破滅の言葉を口にする。
「かわいそうになァ。いいぜ、僕がその役目から解放してやる。救って──」
そこに物音が響いた。カランと音を立てて終幕の演技を邪魔したのは細身の剣だった。刀身を赤黒く染めたそれがナナシの足下まで転がってきて……止まる。
青星を抱きしめるナナシの後ろには黒い霧が立ちこめていた。霧は床に転がっていた無惨な死体を飲み込み、その体を起こし、まるでまだ生きているかのように立ち上がらせた。
『本当に、諦めないのだね……キミは……』
青星はどこか残念そうに呟くと、ナナシから離れて彼の背後を指さした。
ナナシは妙な焦燥感を覚えながら、少年の人差し指が示す方を振り返る。
黒い霧に覆われた死体はやや不自由そうに四肢を動かし、緩慢な動作でナナシの足下に転がっていった剣を手に取った。ナナシは脊髄反射の体でその場から飛び退き、冷や汗を垂らしながら周囲に武器を生成する。霧の塊は彼の行動に構わず、拾った剣を腰の鞘に収めると、下からのぞき込むようにしてナナシに顔を向けた。
丸い、小さな、
緋色の目が二つ。
ナナシを見ている。
「ど、どういうことだ! この女、死んだはずじゃ──!?」
『彼女は自力で、自らの魔力に精神を焼き付けたんだ』
「お前らと同じになってことか!?」
『まだ肉体への執着があるようだけれどね』
「この……っ! 死に損ないの亡霊が!!」
ナナシは身を低く構え、生成した武器を一斉に放って先制攻撃を仕掛けた。その土手っ腹に大穴を開けてやると意気込んだそれらは迷いなく彼女の胴体に向かい、その中に覆い隠された体を無惨に引き裂く──はずだった。
ナナシは我が目を疑った。
ほんの瞬き一度の間。一秒もないその瞬間に、黒い霧はその場から消え失せていた。ナナシの攻撃は空振りのまま正面の壁に当たって砕ける。人影があったはずの場所には灰のように黒い霧が点々と舞い……それは彼女が動いた軌道の残滓でもあり、ナナシはその霧が続く方向に顔を向ける。
そこにはもう、赤い目が目前に迫っていた。
「なん……ッ!?」
彼女が横凪にした──およそ人の手の大きさではない拳。ナナシはそれをまともに食らって吹き飛ぶが、持ち前の運動神経で受け身の体勢をとって床に転がり、魔法で衝撃を逃したこともあって即座に立ち上がることができた。彼は骨などに異常がないことを確認し、相手の攻撃の威力はそれほどでもないことを知る。痛いのはそのとおりだが、せいぜい非力な女一人に殴られたくらいのものだ。
そんな痛みはナナシにとって痛い内に入らない。
やっかいなのはその素早さだ。人の体では耐えられないであろうそのスピード。さすがは死体と言わざるを得ない。あの霧の中で彼女の体はどうなっている? 考えてみて、ナナシは背中に悪寒が走るのを感じた。
「化け物め……っ」
ナナシの悪態が聞こえたのか、彼女は異を唱えるようにして甲高く──それでいて低く地を這うような低音で、まるで獣のように吠えた。離れた場所にいても耳が痛くなるほどの大声。それに顔をしかめた一瞬で、また彼女は距離を詰めてくる。ナナシは慌ててその場に突っ伏し、丸めた背中すれすれに後方へ突進していく霧の塊を見送った。彼は即座に体勢を整え直し、これらの異常な状況を見守る青星に向かって叫ぶ。
「おい神様! あいつどうにかしろよ!」
『残念だが、僕にはどうにもできない』
「ハァ!? ふざっけんなッッ!!」
『ふざけてなんかいないさ。僕は言ったじゃないか。こちらからは何も強要しない。全てはキミたちが決めることなのだから』
「くっ……!! あんなん僕一人でどうにかなるもんじゃ──」
そうして無駄口を叩いていると、礼拝堂の端から唸る声が聞こえた。
あの赤い目が、またナナシを見ている。
見られている。
まるで幽霊のように気配なく佇む黒い霧。その中に浮かび上がる小さな炎。あるいは闇夜で狂ったように警鐘を鳴らす赤色灯のように、それは不気味な色をたたえてナナシを見ていた。
彼女はそうして視線を寄越すだけで、今度は一向に動こうとしない。体から放出される霧はじわじわとにじみ出ては消え、その輪郭で鼓動を打っている。まるで皮膚を裏返して脈拍を着ているかのようだ。
「──、ウ……ッ」
生理的な嫌悪。
怖気。
あまりの恐怖に吐き気を催す。
自分では制御できない手足の震え。
その戦慄はやがて体の中心まで浸食すると、ナナシの呼吸を乱し、視界を狭く暗く追いつめていった。
光にあふれる白い礼拝堂はいつの間にか黒一色に染まり、ナナシは膝が折れたかのようにその場に崩れ落ちる。それを視認し、赤い瞳が近づいてくる。
遅々として。
姿勢を保つのもやっと、といった様相で。
長く垂れた左腕を床に落としては根本から再生し……それがあまりにもリアルで、本物の腕が腐り落ちたかのように錯覚したナナシはついに尻餅をついてしまう。彼はじりじりと後退しながら、苦し紛れに編んだ魔法を霧の死体に向けて放つ。またきっと避けられてしまうだろうと予測して。
それは裏切られた。
避けることなく斬撃を食らった彼女は、千切れた自分の右腕が霧を抜け出し後方に飛んでいったのをぼんやりと見ていた。
そして、このとき初めて言葉らしいものを口にした。
『コ、ォ……ス』
「な……何だよ。何なんだよ……!?」
『コン、ド……ァ、……コロ……、ス……』
「──ッ!!」
今度は殺す。
確かにそう言った彼女はなくなってしまった両腕を黒の霧で再現し、ナナシを振り返ってゆっくりと行動を再開する。一歩を踏みだし、後ろの足を前に蹴り上げて地面におろし、次第にその動作は速度を上げていく。ナナシは動揺を露わに辺りを見回し、整列を失っている長椅子の間を縫うようにして走り逃げていく。
彼にはもう、あの黒い物体をどうすればいいのか分からなかった。あの霧は肉体にすがってはいるが、既に命を失っている。攻撃を加えても効果がない。
対して、自分はまだ生きている。
傷つけられる痛みにもだえる肉体が残っている。
殴られようが蹴られようが差ほど痛くないとは言っても、繰り返されればそれなりにダメージだ。彼女の攻撃は今のナナシに防ぎようがない。
どうする、どうする……と雑音が多い思考の中で打開策を考え、ナナシはそれに集中するあまり、彼女が散乱する長椅子ごと自分を吹き飛ばそうとしていることに気づかなかった。
悲鳴を上げる間もなく、彼は礼拝堂の祭壇の前へと押し戻される。まともに思考もできず、魔法での衝撃の緩和や受け身を取るのも忘れ、床に叩きつけられてそのまま転がり、ナナシが体を丸めてうずくまったのは赤く塗れる血の絨毯の上だった。
他人の血のにおい。
存分に人を殺してかぎ慣れたはずのそれが、いやに鼻をつく。
気持ちが悪い。
殺してしまえば──殺されてしまえば、それとなり果てる。腐って悪臭を放つただの肉塊に。
「あ、ああ゛……いやだ……嫌だ! 嫌だ!! 僕はこんな……何で僕がこんな目に──ッ!!」
赤い沼から必死に逃げようとするナナシの絶叫は堂の至る所に反響し、隅から隅まで響きわたった。
その声を止めたのは、彼の頭上から降ってきた霧の塊である。
彼女は床を這うナナシに馬乗りになって動きを封じ、彼の手をひねり上げて拘束した。そして異様に丸めた背中からもう二本の腕を生やして、ナナシの首に指を絡みつける。
緩やかに力を入れて、首を掴んだ手の平を握り込んでいく。
『コロス……ころす……』
「……ぁ、ぐ……。か、は……っ」
『オマエ……オまえ、は……、シヌべき……』
「ぅ……っ、ぁ……」
『しヌべきだ……! しネ!! しでしまえ!!』
ナナシの首が絞まっていく。それを限界まで握りしめて、彼の全てをねじ切って押し潰して、灰も残さず燃やし尽くせば……なかったことになる。
そうして邪魔がなくなれば、今度こそ願いを叶えられる。
──ふと。
何かがひび割れる音がして。
半分に欠けた透明な石が彼女の腰から転がり落ち、ナナシの首を絞める黒い手に小さく当たる。
澄んだ水のように、陰に濁ることもなく、光を放つそれ。
凶行に走る獣を諫めるかのように、優しく寄り添う少女の手を見た気がした。
『死……、んで……』
その純粋無垢な石の輝きは赤い目の炎をゆっくりと鎮め、獣のごとき殺意をやんわりと撫でてなだめすかした。やがて、血とともに流れ出てしまった彼女本来の優しさと理性をその胸に戻す。
『どうして、貴方は……こんな……』
ソラはナナシの首から手を離し、瞼の下から一粒の涙をこぼす。
その黒い滴を頬に受け、ナナシは忌々しいといった口調で言った。
「お前なんかには……一生、分からねぇさ……」
『……』
「ここで、僕を殺すのを……やめちまう。お前に、は。僕らの、苦しみは……」
ソラは分かりたくもないと思ったが、それを口に出すことはできず……気を失うようにして自らの肉体を手放した。




