第13話 「相対し」
ナナシは両手を肩の高さまで上げて首を傾げると、首を唇を斜めにして凶悪な表情を浮かべた。
「僕とアンタの願いは相反してる。同時には叶わない。話し合いで穏便にってわけにもいかない。それなら相手が諦めるまでボコる。そういうことでいいよな?」
広げた指を一本ずつ内側に折り曲げていき、彼は骨張った拳を作って勢いよく前方に突き出す。その隣にしとしとと歩いてきたのは始まりの魔女だった。
「お? 魔女さん味方してくれんの? ラッキー! これでねーちゃんの魔法も防げるな。この前みたいにはいかないぜ」
対して、ソラの持つ光の加護はほぼないに等しい。彼女は一縷の望みにかけて青星の方を見るが、少年は感情のない瞳で正面だけを向き、ソラのことは一切見ようとしなかった。静観を決め込むつもりのようだ。
一方の魔力しか持たないソラは明らかに不利である。しかし──。
「……望むところだ」
ソラは挑発的に口角を上げる。
「私は絶対にあの子たちを救う。そう決めたんだ」
幸いにも、ジーノから託された杖があるおかげで魔法の使用は可能だ。彼女は自由に動く右手で直接的な武器となるエースの剣を抜き、見よう見まねで刃を体の正面に構えた。
光と陰の魔力は互いに干渉することがない。つまり陰の魔力のみで編むソラの防御壁では、ナナシの光の魔力による攻撃を防ぐことはできない。だが、ソラは彼の魔法に干渉できるものを持っていた。彼女は剣に自らの魔力をまとわせて強度を高め、それによってナナシの攻撃を受け止め弾こうという算段だった。
ただ雪道を歩いているだけで足を滑らせるような運動神経の自分が、どこまでナナシに対抗できるかは分からない。しかし、今はやるしかないのだ。銀の刀身に黒より暗い炎を燃やし、ソラは切っ先をナナシに向けた。それを見たナナシは一度おどけたように怖がる仕草をし、腰の乗馬鞭を抜く。彼はそれで手の平を叩きつつ、
「腕切られたのと足刺されたのと、アンタにはちゃーんとお礼しないとな?」
ニタニタと粘着質に微笑む。ソラはその態度がなぜか、どうしようもなく気にくわなかった。
「ああそう。じゃあこっちも腕持ってかれた仕返しさせてもらうし」
「女相手だからって容赦しねぇぞ」
「上等。血が出ようがゲロ吐こうが形振り構わないから覚悟しろ」
言うが早いか、防御が役に立たないソラは攻勢に打って出た。のっけから押されたナナシはソラが突き出した剣を避けて背後の長椅子に背中から倒れ込み、体を丸くし椅子の上で二回転して彼女から距離を取る。彼は板が切れる手前で腕を伸ばして上体を跳ね上げ、白いタイルの床に華麗に着地した。勢い余って若干ふらついていたが、その身のこなしからソラはナナシの方が身体能力が上であることを理解した。
おそらくだが、能力的には全てにおいてナナシの方が上だ。であればソラが守り入るのは明らかに不利だった。彼女は自分の周囲に魔力を飽和させ、一つ一つは小さいが数だけは多い礫を作り出し、ナナシが攻撃態勢に入る前にそれらを撃ち込む。どこへ逃げても被弾するよう広範囲に降らせた礫は長椅子や床に穴をあけ、真っ白な土煙を巻き上げてナナシの姿を覆い隠した。その切れ間に、黒い盾がチリチリと燃える様を見る。
「──ッ!」
ソラはすぐさまその場を離れ、しかしその間に煙を吹き飛ばしたナナシは頭上高くに白い槍を作り出し、お返しと言わんばかりにソラに向けて投擲する。慌てたソラは飛び込むようにして椅子の陰に隠れ、板面を魔法で強化して攻撃の雨をやり過ごす。
彼女はここでも舞い上がった土煙に隠れて場所を移動しようとするが、それを逃すまいと──ナナシからしてもソラの姿が見えないのはリスクであるはずなのに、彼は魔女の盾を掲げて土煙を切り裂き襲いかかってきた。
まかり間違えば自分が背後をさらすことになる危険も考えていないのか……いや、彼の場合、ソラの身体能力の低さを考慮した上で即時の対応は不可能と推測し、間髪入れない攻撃を試みたのだろう。
ナナシにすれば幸運にも、ソラからすれば皮肉にもその奇襲は成功し、上方から落下するようにして襲いかかってきた彼の盾を受け止めることに精一杯になったソラは尻餅をついてその場に倒れ込んだ。決して細身ではないナナシが全体重をかけて押しつけてくる盾は、ソラの細腕で持つ剣一本で持ち堪えられるものではなかった。
「キヒヒ! このまま押し潰しちまおうかァ?」
「く……っそ、この……!」
「ねーちゃん女のくせに口悪いぞ~」
「う、るっさい! 黙れ!!」
「おーコワ~!」
胸の前まで盾が迫り、このままでは本当に押し潰されてしまう。肺に大きく息を吸い込み奥歯を噛んで耐えるソラはがむしゃらに足を暴れさせてナナシを蹴り飛ばそうとするが、優位な体勢を取る彼はそれを悠々と避けてさらに体重をかけてくる。
今はとにかく、この盾をどうにかしなければ……ソラは追いつめられ混乱する頭でそう考える。だが、軽くパニック状態でもあった彼女は礫をぶつけて押し返すという考えは出てこなかった。苦し紛れに左腕を突き出し、せめて両腕が使えていたのならと目をつぶって払いのける仕草をする。
その瞬間、ふっと重荷が消えてソラの腕が軽くなる。
「な、なんだぁ──ッ!?」
それと同時に、ナナシの素っ頓狂な声が遠ざかっていく。いったいどんな奇跡が起こったのかとソラが辺りを見渡していると、左腕に感覚が戻ってきているのを感じた。ソラは素早く起きあがり、物陰に隠れてその感覚を確かめる。
そこにあったのは黒い炎で形取られた左腕だった。
なるほど、魔法で特定の物体を模して形を作れるのであれば、それを腕として再現し機能させることも可能というわけだ。ソラは左手を握ったり開いたりして、かつてと同じ感触がそこにあることを確認する。続けて、唐突にひらめいたことを実践し確認しようと、離れたところにある長椅子に向けて静かに手を伸ばした。
「何だってんだクソ……。おい、出てこいよねーちゃん。勝負はまだ終わってないぜ」
少し離れた場所でナナシがそう呼びかける──と、その時。
全く思いも寄らない位置で長椅子が宙を舞った。
「そっちか!?」
飛んできた椅子を避けつつ、ナナシは一目散に駆け出してソラの姿を追う。その途中、彼は頭上を通り過ぎていく椅子に黒い糸のようなものが絡みついているのを見た。それはナナシが向かうのとは真逆の地点──つい先ほどソラと取っ組み合っていた場所から続いており、ナナシは何かが妙だと思いながらも走る足を止めることはできず、おびき寄せられるようにして長椅子が飛び上がった場所へとやってきてしまった。
彼は黒い紐を辿った先から目を離せなかった。
未だうっすらと立ちこめていた白い土煙の中から、身の丈ほどの黒い弓を構える女の姿が現れる。
彼女は既に顔の半分を黒く染め、赤い瞳を爛々とさせながら「的」を見つめていた。
「今度も外さないから……」
そう呟くと、ソラはのこのこと的場にやってきたナナシに矢先を向け、限界まで引いた弦を親指の付け根から弾く。弦は弓を支える左手を軸に円の軌道を描きながら矢筈を押し出し……放たれた矢は細く空を裂いて一直線にナナシの大腿めがけて走った。
「ヒッ!?」
赤い視線に怖じ気づいたナナシはとっさにその場を動くことができず、迫る漆黒の矢は正確に彼の足を射抜く──かのように思われた。
矢は確かにナナシの右足を貫く軌道で飛んだ。それでも彼が負傷し得なかったのは、直前で魔女の盾が阻んだからだった。盾は砕け散り、ソラが射た矢も割れて粉々になり……それでもソラは今の攻撃に手応えを感じていた。
正常な循環から外れた光陰の魔力は消費される一方……朱櫻で聞いたユエの言葉がソラの脳裏によみがえる。
ソラの頭にはある仮説があった。それとは、光の魔力が時とともに不足するのなら、魔女の魔力も同じなのではないか? ということだった。つまり、長きにわたり呪いを振りまいてきた彼女の魔力は底を突きかけている。
だからこそ、その盾はソラが軽く射た矢でいとも容易く壊れてしまった。
陰に染まる顔で薄く笑みを浮かべたソラは弓を手放し、魔力で編んだ左手を再び紐状に伸ばして手近な椅子を適当に掴む。それをナナシめがけて放り投げ、同時に無数の礫を生成して撃ち出す。
魔女はナナシの周囲に盾を作り上げ彼を守ろうとする。彼女は降ってくる椅子は防いだものの、威力を増して撃ち込まれた礫の前にことごとく破れた。頼みの綱である守りが崩れ、ナナシは為す術もなく礫の雨にさらされる。
彼は体のいたる所から血を流し、その無様に憤った。
「おいコラ魔女! テメェふざけてんのか!? 守るんならきっちり守れよ使えねぇ奴だな!!」
『……ッ』
癇癪を起こした子どものように、髪の毛を逆立てる勢いでナナシは怒鳴り散らす。
「……」
うっすらと息を切らしていたソラは彼の意識が逸れているうちに物陰へ移動し、呼吸を整える。同時に、わめくナナシの様子を窺う。
彼は怒れば怒るほどに外見の年齢からかけ離れて幼く見えた。まるで反抗期真っ盛りの十代の少年だ。その幼稚な行動と言動を見ていると、何となしに「なぜ今、彼と争っているのか」という疑問が浮かんだ。
よく考えてみると不思議なのだ。元の世界でも会ったことのない赤の他人。こちらの世界でも接点はないに等しく、偶然に出会って仕方なく対立し、その後に魔女を騙ってソラの名誉を貶めようとしたことから、放っておけなくなっただけだ。
言ってしまえば、「必ずこの手で倒さなければならない因縁の相手」というわけではない。彼の行った悪事には反吐が出るが、騎士に捕まってしかるべき場所で裁きを受けるべき……と、ソラとしてはそう考えていた。
そういった認識はナナシにしても同じだろう。だが彼の場合、「僕ら」以外の人間は死すべしという願いの元に行動している。その「僕ら」というのは「自分と同じ境遇で苦しみを味わった人間」のことで、家族の記憶は失ってもそれに対して温かな気持ちを持つソラは「僕ら」の中には含まれない。
ナナシにとって、ソラは殺しても構わない対象なのだ。
彼がどんな人生を生きてきたのか詳しくは知らない。
ナナシ側の話しか聞いていないし、父親の言い分はもう聞けない。けれど彼の父親に対する憎しみは深く、相当根の深いものだ。だからナナシの言葉を事実として受け止めるのなら、彼はきっとひどい仕打ちを受け、それに耐えてきたのだろう。そして我慢も限界に来て、父親を手にかけてしまった。ソラはそのことに関して彼を批判しようという気はない。
エースの過去を知っているソラは、彼が「あの女」に抱いた激しい憎しみと恐怖を自分のことのように理解している。自分だって同じ立場だったら何をしたか分からない。数々のむごい言葉で彼の心を傷つけ壊したのはあの女だ。彼女はその報いを受けたのだと……ソラは今でもそう思っている。
しかし、その報いは刃を握った自分にも返ってくる。
エースは罪の意識にとらわれ、己を愛せず他人を愛することもできず、きっとこれからもずっと……自分を使い捨てるような滅私の奉公を続けるだろう。
それでも生きていてほしいなんて、ひどいことを言ったものだとソラは今更ながらに思う。けれど、それでも……ソラは彼に生きていてほしいと思ったのだ。そう思ってしまったから、ソラは最後の願いとして自分勝手なその思いを彼に押しつけた。償いの一方で、自分への愛を欠片でも見つけてくれたのならと願って。
細かな状況は違えど、ナナシとエースの境遇は似ていた。彼らには救いの手が差し伸べられなかった。あるいはその手を取れなかった。それゆえに凶行に走ってしまった。
本当によく似ている。
だからこそ、ソラはナナシのことが気にくわなかった。
人に刃を向けるだけの理由はあっても人殺しは罪だ。それは悔いなければならない最悪の手段なのだ。だというのに、ナナシは後悔もせずにヘラヘラと笑って開き直っている。あんなに苦しんでいるエースと違って、悩みもせず気分一つで人を殺し、何らいつもと変わらずに飯を食い寝る。
それがどうしようもなく、堪らなく──、
「ムカつく……」
自分はこんなにも苦しんでいるのに、それなのにアイツの気楽さはいったい何なんだ……と、こちらもまた子どものように身勝手な怒りを覚える。一方で、頭の片隅にいる冷静な自分が「こんな感情は不当だ」と訴える。
この怒りは正当なものではない。
自分と他者を比べて立場の違いに憤慨するなど、見苦しい。
そんな感情を抱く資格は自分にないのだ。
許されない。
許されない。
決して許されはしない。
ソラの頭の中でエースがそう囁く。
「……」
ああ、そうだね。とソラは内心で頷いた。
「けど、私はキミじゃない。私は自分が一番大事で、自分が大切なものが一番大事で、それ以外はどうでもいい……今では誰に何を言われたって構わないとさえ思えるクズだから──」
ソラは自らを奮い立たせ、自分の思いに素直になる。
争う理由なんて、どうでもよかった。流れたどり着いた先で出会った二人が、たまたま分かりあえず対立した。お互いに目的を譲れないから戦っているのだ。
ソラはナナシの無責任な態度が気に入らないし、そんな彼に負けてエースとジーノを助けると誓った自分の覚悟を台無しにされたくない。
ナナシにしてみれば、「僕ら」と違うソラはこの世界の人間と同じく破滅を願う相手であり、立ちはだかるのならブン殴る。
考えてみれば、思いのほか単純な理由である。これは意地の張り合いだ。もとより、子どものケンカのようなものなのだ。
「ハハハ……世界の命運をかけた決戦がガキ同士の取っ組み合いとはね……」
ソラは手で視界を覆い隠しうんざりしたようにため息をつくと、サッと前髪をかき上げて精悍な顔つきになった。
彼女は物陰に隠れるのをやめ、堂々と礼拝の道に立つ。ナナシはその足音を聞いて怒りから目を覚まし、ソラの方を向いた。
「……」
二人は互いに無言で、何の示し合わせもないのに、ほぼ同時に自らの周辺に魔力をばらまき、無限の武器を作り出して相手を襲った。陰と光がぶつかり合い、闇が光を飲み込み、あるいは白い炎が陰を焼き、それら弾幕をすり抜けた一矢が互いの急所をめがけて迫る。ナナシはそれを魔女の盾で防いだ。ソラは左腕を伸ばして天井のアーチを掴み、空中に飛び上がってそれを避けた。
そうして彼女は天井に着地した瞬間に手を離し、宙に浮かぶ一瞬で標的を眼下のナナシに定め、再び腕を伸ばした。彼の立つ場所は、ちょうど礼拝堂の中心にある祭壇の前──黒いアンカーは瞬く間にナナシの横を通り抜け、その足下に突き刺さる。ソラはリールを巻くようにして一気に目標との距離を縮めた。
対するナナシも彼女をただ待ち受けるているわけはなかった。
彼は全魔力を持って守るよう魔女を怒鳴りつけ、短い時間で生成した数多の短剣を落下してくるソラに向かって集中的に撃ち放った。
ソラは落ちるさなか、右手の剣を逆手に持ち替えて刃に魔力を凝縮させると、致命傷となるであろう攻撃だけを弾き飛ばして突き進んだ。頬の肉が裂けようが腕を削られようが、構いはしない。ただこの一撃を、あのニヤついた顔にブチ込むことができればそれでいい。
短剣の嵐を抜けきったソラは、最後の最後に立ちふさがる魔女の盾を前に右手を振りかぶった。脇を締め、拳を固く握り、その手に決して揺るがぬ心をまとわせ、黒い盾を殴りつける。
何が何でも。
大切な二人のために。
ここまで来て何も成せずに終わるわけにはいかないから。
何かをやり遂げ、どんなに小さな爪痕でもいいから世界に自分が生きていた証拠を残して──、
──惜しまれて死にたいから!!
全身に暗黒の炎を纏い、血のように赤い瞳が始まりの魔女の意志を打ち砕く。
ソラの拳は砕け散った盾の結晶を彗星の尾のようにたなびかせ、一直線にナナシへと向かう。ナナシは魔女の盾にひびが入ったのを見た時点で逃げようと足を動かしたが、まさに血眼で迫るソラの気魄に圧され、回避の行動がほんのわずかに遅れた。反射的に魔法で強化した鞭を構えて凌ごうとするものの、それも間に合わない。
ナナシの横っ面をソラの拳が抉る。
「っぐ!? が──、ハ……ッッ!!?」
ナナシの口から漏れた短い苦悶。
ソラは渾身の一撃を加え……それをまともに食らったナナシはあまりの衝撃に意識を飛ばし、為す術もなく床に倒れた。彼は白目をむいて何度か痙攣を繰り返し、やがて静かになった。
「ハァッ……、ハァ……ッ!」
四肢から血の滴らせ、気力だけでその場に立ち続けるソラは、執念の赤い瞳をナナシの傍らで怯む魔女に向けた。




