第10話 「今、別れを告げよう」
夜空に虹が舞った次の日。太陽が昇ったとすれば天に高々と輝いていたであろうその時間に、ソラたちは目的の場所へ到達した。
軸の麓は丘のように盛り上がっており、周辺よりもやや高い地形となっていた。溶けた雪は周囲に流れ下り、一行はシャーベット状になった氷の上をザクザクと音を立てながらそこまでやってきた。
「着いた……」
エースの背中に張り付きながら、ソラは顔を上げて目の前の光景を見つめる。
白く光る壁。
島から離れた場所でも白い筋として視認できるそれは、目を焼くような光度でもって視界を覆い尽くしていた。島の中心部に円を描いて広がるその光帯は直径にしてどれほどの大きさになるのだろうか。想像もできないソラは、ただ顔を左右に振って光が夜の縁に消える地点を遠くに眺めることしかできなかった。
「これが、地の軸……」
「ええ、そうです。うちら常人には未知の領域……」
思わずこぼれたソラの言葉をユエが肯定する。
「青星様がお作りになった、世界を支える柱です」
「壁の向こう側はどうなっているんですか?」
疑問を口にしたのはエースだった。
「分かりまへん。この壁は見ての通り──」
言いながらユエは手袋を外し、手を壁に近づけていく。その指先は光に触れるか触れないかの手前で、布が裂けるような音ともに弾き返された。
「地上の人間には触れることさえ敵いまへん。大陸さんの聖域にある結界、あれと同じです」
東ノ国の言い伝えでは、始まりの魔女はこの麓から落ちたという。壁の向こう側は未知であるが、そこに地面があるとは考えない方がいいのだろう。
「じゃあ、この先に行けるのは……」
エースの背中から降りたソラは自ら一歩進み出て、場違いに明るい調子で答えを口にする。
「私、一人かぁ」
その言葉に、誰一人として声をかけることはできなかった。痛々しいまでの沈黙の中、ソラは胸に手を当てて大きく息を吸い、凍える空気を肺に満たして感情を一つの形に凍りつかせる。
「初めから、分かってたことだものね」
ソラは胸の奥では寂しさを感じつつも、それを表情には出さずに兄妹を振り返った。
「何にしたって、キミたちを連れて行くことはできないよ」
「……っ」
「キミたち二人はスランさんのところへ帰るんだから」
「そ、んな……」
「いやぁ、よかった。これで私、恨まれたままでいなくて済むね」
「……」
「キミたちは、故郷に帰るんだよ。絶対に」
強い口調で言うソラに兄妹は返す言葉もなく……しかし頑固な彼らが素直に引き下がるわけもなく、エースがユエに目を向けた。
「ユエさん。俺たちの剣と杖を……」
「持ってきてはおりますが、どうなさるおつもりで?」
「ソラ様にお渡ししてください」
「え? いやいや、駄目だよ。それじゃあこの先キミたちは……特にジーノちゃんは魔法が使えなくなっちゃうじゃん」
慌てるソラに、ジーノが「いいえ」と短く答える。
「構いません。魔法など使えなくとも、生きていけます」
「俺がその生き方を知っていますからね」
「でも……」
「ソラ様」
「……」
「俺たちを連れて行けないと言うのなら、せめて──」
二人はユエから渡された杖と剣をそれぞれ交換して持ち、
「ジーノの杖と」
「お兄様の剣を」
どうか一緒に。
今にもこぼれ落ちそうな涙を浮かべ、エースとジーノはソラの腰に皮の紐を結い、幼い頃からずっとそばにあった杖と剣を差す。
「……分かった。キミたちの思いを、一緒に連れて行く」
その言葉を聞くと、ジーノは顔を覆い隠して膝を崩した。エースが彼女の肩を抱いて顔をうつむける。ソラはそんな二人の頭を順に撫で、
「私からも……さよならの前に。言っておかなきゃいけないことが、いくつかあるんだ」
彼らの前にしゃがみ込んで、その向こうにいるセナたちを見つめる。
「私ね、他の誰にも私のこと忘れてほしくない。忘れるなんて、そんなの絶対に許せない。私がいたこと、私がやり遂げること、ずっとずっと……覚えていてもらわないと気が済まない……」
ソラの視線を受けたセナは一瞬、彼女から目を逸らそうとして……そうしてはいけないと気づき、向けられた鋭い言葉を正面から受け止めた。それはホムラにしろ、随伴の二人にしろ、同じだった。
「だけど……、でもね……」
ソラは彼らの真摯な態度に少し表情を緩め、目の前の兄妹に顔を向ける。
「キミたちになら、忘れられてもいいんだ」
「そんなこと──!」
「できるわけない!!」
「うん。でもね……いいんだよ」
彼女は二人を抱きしめ、まるで本当の弟妹を慈しむ姉のように、柔和な表情を浮かべた。
「私がそう言っておきたいの。辛くなるようなら忘れてしまって構わない。私はそれを望む……」
その心穏やかな声色を耳に、ジーノとエースは堪えきれず、青い瞳を海の中に沈める。
今となっては誰よりも大切な人を失う悲しみ。
きっともう、二度と出会うことはできない。
その事実をひっくり返すことのできない悔しさ。
己の力が及ばぬことへの憤怒。
どうしようもなく、とめどなく……熱い涙がこぼれる。
兄妹は閉じた瞼を縁取る金色のまつげから、ソラにとっては宝石にも等しい清らかな雫をこぼし、彼女が望むままにあるのならば、どうしたって最後には離さなければならないその手にすがった。
ソラはそんな二人を仕方なさそうに見つめた後、
「ユエさんにも──」
肩越しに彼女を向き、自分の心を告げる。
「貴方は生きてください」
「……なん、て?」
「勘違いしないほしいんですけど、許すわけじゃ……ないですから」
「……」
「でも、死んでほしいわけでもない」
「その理由を、お聞かせ……願えますか……?」
「私には、生きてほしい人がいる。だから、私を見殺しにする貴方に死なれたら、私……困るんです」
ソラは思うのだ。エースに生きていてほしい、と。それは何より苦しいことなのかもしれないが、死んでほしくない。そう願っているのなら、ユエに望むことは決まっていた。
「それに、貴方の死を願ってしまったら、私はきっと……大切なもの以外、この世界の誰も生かしておけない……」
ソラが元いた世界で命を失ったのは自業自得だった。そしてこの世界へとやってきて、確かに自らこの道を選んだ。今の状況は、流れ流されたどり着いた先の最善の選択であったと思う。
だが、それでも考えてしまうのだ。もっと別の、違った結末があったのではないかと。死を迎えることは同じであったにしろ、温かなベッドの上で誰かに見守れられながら安らかに息を引き取ることもあったかもしれない。
そんな穏やかな人生があったかもしれない、と。
それを思うと、こんな理不尽な状況に追い込んだこの世界が憎くて、運命にあらがえず理想を掴み取れなかった自分が悔しくて、情けなくて……何もかも、全てを無茶苦茶にしてしまいたくなる。
その気持ちは、誰かの不幸を願うことによって開花する。そして最後には何も残らない──そんな道を選ぶことだけは、ソラの見栄が許さなかった。
せめて、後に置いていく者たちが自分を温かな気持ちで思い出してくれるようにと、ソラはそれこそを願う。
であればこそ……。
「私は貴方に生きてほしい」
エースのためにも。
そして何より、ソラ自身のためにも。
ユエには生きていてもらわなければならない。自ら命を絶つなど、容認するわけにはいかない。
「いつか……ナギちゃんも真実を知ると思います。その時は、気に病まないよう伝えてください」
「……はい」
ユエはその宣告をしかと受け止め、深々と頭を下げて諾意を表す。それを見ると、ソラは自分の手を掴んで離さないエースとジーノに視線を戻し、彼らの手を互いに握り合わせた。
二人とも、どうか幸せに。
そんな思いを込めて、ソラは兄妹の手の上に柔らかく指先を置き、名残を惜しむようにわずかに肌をなぞり、そっと離れていった。
不思議と、ソラは自分の足で歩いていける気がしていた。
誰の手も借りず、自分の意志で、光の壁の先へ。
この世界を救うため? ──そんなことはどうでもいい。
大切な、ただ二人のために。
彼らの幸福に世界が必要であるのなら。
「ま……、待って……!」
遠ざかっていくソラの背中に、ジーノが手を伸ばす。エースはうつむき、ソラが握らせた妹の手を──どうしてか振り解けないそれを必死に解こうとしていた。
「さようなら、だよ」
「駄目……、待って!! ソラ様!!」
まるで他人の手のように固く握られた拳。それを何とか開き、エースはジーノをその場から押し出す。
「ジーノ! 行け!!」
「ソラ様ッ!!」
行かないで、と駆け出す。
この手はきっと、届くはず。
光の泡に包まれ消えていくソラの背中を、その肩を掴んで引き留め──、
「今まで……」
ソラは振り返らず。
静かに、
声だけで笑って。
──ありがとう。
ジーノが懸命に伸ばした手は空を切る。
ソラの姿はあふれる光に一歩を踏み出すと落ちるようにしてその中に飲み込まれ、ジーノに残ったのは結界に弾かれた手の痛みだけだった。
その痛みが、胸の奥にまで刺さった気がした。
ほんの数ヶ月。半年も一緒にいなかった……それなのに、ソラの笑った顔、食事をするときの幸せそうな瞳、赤の他人の自分たちを最優先に考えてくれた優しさ、どこか逃げたそうな顔をしながらも困難に立ち向かう姿……多くの記憶が次々に胸をよぎった。
「ああ……ッ!!」
ジーノは短く悲鳴を上げ、大粒の涙をこぼして自分の無力さを呪った。




