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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第五章 地の軸
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第9話 「錦の衣が空に舞う」

 夜が続く南極島。


 島の中間地点にある拠点からさらに軸へと近づく無人小屋までの道のりは並大抵の苦労ではなかった。軸の付近で上昇する気温のせいで地面の雪はわずかに溶け、水たまりのようなごく浅い水深で辺り一面に広がる水原となっていた。


 しっかりと防水の備えをし、足を滑らせることがないようスパイクの付いた靴も履いていたとは言え、進むのは氷の上である。


 シャーベット状になっている部分や、いやに固くスパイクが刺さりにくいところなど、避けて通る必要のあるところが多々あった。そのたびに一行は道を変え、大小に蛇行しながら進むことになった。


 符術で地面を凍らせ、せめて水だけでも避けることも考えられたが、布術も魔法と同じで力の連続使用は肉体に大きな疲労をもたらす。徒歩により体力を削る中での符術の使用は自分の首を絞める愚行であった。


 それでも悪路にめげずにいられたのは、それもまた足下に広がる水原のおかげだった。真昼の夜空に散らばる満天の星々、そして幸運にも無風という天候のもと、広く浅く水を張る地面には上空の景色を反射する「天空の鏡」が現れていたのだ。広範囲に及ぶ高低差の少ない地形と、水面の反射像を崩すようなさざ波も立たない環境──限られた条件下でしか見ることができないその絶景は、道行く者たちの目を大いに楽しませた。


 一行は地上に居ながらにして、宇宙空間を歩いていた。


 ソラは背負ってくれているエースたちの迷惑にならない程度に息を弾ませ、周囲の景色をしきりに見渡していた。ジーノなどはその浮遊感にのめり込みすぎて足下が不安定になる場面もあったが、何とか転倒だけは避けて道を進んだ。


 一歩、踏み出すごとに自分の足下から広がる波紋が鏡に映る星を瞬かせる。先頭を行く者が掲げる明かりは小さな太陽のようにも見えた。しばらくすると、足下で平面的に広がっていた星々があたかも空中に浮き上がってきたかのようにも見え、そうなると水原はまさに銀河そのものであった。


 やがて、ソラたちは今晩を過ごす水上の小屋へと到着した。


 ようやく水のない場所に上がった一行は、それぞれに疲弊した体をいたわりつつ、夕食や寝床の準備をゆっくりと進めていく。一人だるまストーブの前に置いていかれたソラはその暖かさにうつらうつらとしていた。そして、眠気の合間を縫って意識が浮上した時、その視界の端に見えた窓の外が明るいことに気づいた。


「何か外、明るくない?」


 ソラは近くにいたエースにそう声をかける。


「ああ、錦の衣が見えているのかもしれませんね」


「錦の衣?」


 首を傾げたソラに、エースの声を聞きつけたジーノが続ける。


「空に極彩色の光を放つ薄い布が舞うのです」


「布?」


「いわゆるオーロラですね。ソラ様、もし体調がよければ見に行きませんか?」


「へぇ、オーロラか。うん、見てみたいかも」


「では……」


 エースはソラの前に膝をついて、一度脱がせた靴をもう一度履かせ直す。その間にジーノはユエに外出の確認を取りに行く。


 ユエはジーノの言葉を受けて窓から夜空を見上げ、「極光が? ああ、ほんまやね。珍しい……この辺りでも見れるなんて思わなんだわ」。そう言い、ホムラを一緒に行かせることでその申し出を了承した。ただし、夕食の準備が終わるまでの間という制限付きであったが。


 それでもソラは目一杯に表情を明るくし、声の調子を上げながらエースの手を取った。彼に抱き抱えられ、その先をジーノが歩いてドアを開ける。


「わぁ……! すごい!! キレー!」


 二重になったドアの向こう……ソラの目に飛び込んできたのは天地を舞う虹色の薄絹であった。風があるわけでもないのにヒラヒラと揺れ、裾をを翻して星々の合間で踊る。黒一色の空に映えるその色は、緑から紫、黄色、桜色と様々に移り変わり、ソラの目を楽しませる。


「ねっ、エースくん。ちょっといい?」


「何でしょう?」


「今、少しくらいなら自分で立てると、思うんだけど……」


「分かりました。そうしたら……ジーノ、手伝ってくれるかい?」


「もちろんです、お兄様」


 エースはソラの願いを聞き入れ、慎重に彼女の体を鏡の水原に下ろす。彼はそのままソラの腕を優しく掴んで支えとなり、ジーノも反対側から彼女の腰に手を回して万一の転倒に備える。それを後ろで見ていたホムラは何も言わなかった。いざとなれば自分が符術でどうにかすればいいのだし、何よりあの三人が共に過ごす最後の夜となる今日、そのやり取りに水を差すことはできなかった。


 ソラは自らの足で地上の宇宙に立ち、暗闇に消える地平まで続いて見える星空を見渡した。そして、おもむろにひざを折って姿勢を低くする。


 本来であれば手も届くはずのない、遙か彼方の光。それが……その場にしゃがみ、掌にすくうだけで自分の手に収めることができる。こんな奇跡がどこにあろうか。


 ソラは手袋を噛んで手から外すと、痛み以外がない──温度も感じなくなってしまった指先をためらうことなく水の中に突っ込んだ。その行動にエースとジーノは一瞬ぎょっとしたが、口出しはせずに見守った。


 ソラは掌にすくい上げた星を遠くに投げ、水滴一つ一つに反射する光が水面にぱらぱらと落ちていく様子を見送る。


「ソラ様……手袋を。このあたりは確かに他と比べて暖かいようですが、そのままだと冷えてしまいます」


 ジーノはソラがくわえていたそれを受け取り、こんな時でも持っていたハンカチを取り出してその濡れた手を拭いてやった。爪の先まで黒く変わってしまった彼女の手……その中心に残る傷跡。ジーノはそれから目をそらすことなく、丁寧な仕草で手袋をはめ直す。


「ありがとう。ジーノちゃん」


 ソラはニコリと笑い、鼻先を赤くして温かな白い体温を吐き出す。その横顔に憂いはなく、明日も当たり前に日々が続くかのような満ち足りた表情を浮かべていた。


 ジーノはそんな彼女に微笑みかけ、次いでエースに目を向けて言葉もなく何かを頼む。エースはジーノに向かって頷くと、「失礼します」と言ってソラの体を持ち上げた。


「わお! 力持ちじゃんエースくん!」


「ソラ様一人くらい、何てことありませんよ」


「あはは! すっごい! 星に手が届きそう!!」


 エースは少しでも高く、天に近くと彼女を抱き上げる。


 ソラが伸ばした手の先で、錦の衣が揺れる。


 それは遠く近くと場所を移り、頭上を通り過ぎてはまた向こうから波打ち寄ってくる。幾重にも重なった光の衣は世界の神秘を隠す覆いのようであった。


 ソラがこれから行くのはその衣の向こう側だ。


 明日進む道の先──日のない空をぼんやりと明るく照らし、天をつく軸。


 人の知恵が及ばぬ領域。


 誰の手も借りることはできない。


 ソラ一人でしかたどり着けない最果ての地。



 誰かと一緒に笑えるのは、今日が最後だった。



 これで最後だったのだ。

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