第1話 「魂のそばに」
瞼を閉じて眠りに落ちても、ソラの精神を占めるのは痛みの感覚である。彼女はそのせいで最近めっきり眠りが浅くなっていたが、思考の大部分が痛覚にとらわれているためか、悪夢を見ないで済むのはありがたかった。そうして、彼女はひときわ鋭く肘を突き刺した痛みに顔をしかめて目を開けた。
天井から吊り下がるランタン。その中で燃えるのは油に浸した綿糸である。魔鉱石の産出が少ない東ノ国では、独自に発展した理術(大陸で言うところの魔術、ソラが居た世界では科学に類する)によって生活の利便を得ていることが多い。
元は大陸から逃れてきた聖霊族によってもたらされた学問であるが、東ノ国の人間はそれをよく理解し、長年研鑽を怠らず自らのものとしてきた。おかげで彼の国は医術大国として世にその名を響かせ……鎮痛薬を服用するソラもまたその恩恵を受けていた。
ソラは長い周期で上下左右に揺れる景色の中でしばらく肘の痛みを我慢し、それが過ぎ去った後で非常にゆっくりとした動作で体をうつ伏せにした。ユエの故郷である朱櫻からさらに南の「燕樹」を目指す彼女は今、この船室で最初の朝を迎えたところだったのだ。
畳を二枚敷いた小上がり。ソラはそこに広げた布団の上でもぞもぞと不格好に動き回り、ギシギシと文句を言う膝を曲げて腹の下に入れる。背中を丸めて団子のようになり、布団の中に作ったわずかな空間で、ここ数日で慣れた和の寝間着の襟元を直して寝起きの格好を整える。
痛みの引いた肘を張って上体を起こして、背中を滑っていく毛布をそのままに尻を着き、動きの鈍い足を手で押しながら小上がりの縁に下ろす。
「あた……あ……いたた……」
微妙に腰が痛み、思わず声が漏れる。ほんの小さな囁き程度の音量であったが、その声は少し離れたところで長椅子に腰掛けて眠るエースとジーノの耳に届き、互いにもたれ掛かって寝ていた二人は悲鳴でも聞いたかのように飛び上がった。
「ソラ様!?」
「大丈夫ですか!?」
黒いチョーカーのようなものを首に巻いた二人は慌てふためいてソラの元に駆けつけた。彼らの首にあるのは魔法の使用を封じる術式を織り込んだ符術布である。普段であれば腰に差している剣や杖もなく、二人は完全に抵抗する術を奪われていた。ソラとしてはユエの元から逃げるつもりなどなかったが、隙を見ては彼女を連れて逃げる気満々の兄妹は徹底して行動を制限されていた。
ソラは以前にも増して過保護になったエースとジーノに、脂汗を浮かべながら微笑む。
「そんなに、心配しなくても……大丈夫。ちょっと痛いやつの、強い波が来たってだけで──」
「ですが、痛いのですよね? お兄様、次のお薬はまだ……?」
「ちょっと待って」
エースは長椅子の手前にあるローテーブルの上から小さな銀の円盤を持ってくると、側面についている突起を押して蓋を開く。それは東ノ国式の時計で、大陸とは異なる様式で時間を示していた。エースは前回開いた際に見た針の位置を思い出し、次の鎮痛薬を服用できるかを確かめる。
「駄目だ。あと最低でも一時間は……」
「そんな……」
「あの、キミたち。そんなに深刻にならなくても」
まるでこの世の終わりのように表情を暗くする二人に、ソラは苦笑いを浮かべる。
「薬はちゃんと効いてるんだよ。その証拠に……まぁゆっくりとだけど、自分で動けるし」
「しかし──」
「横になってるばかりだと、ホント体力すぐに落ちちゃうから。せめて、なるべく体は起こしてたいの。この年で寝たきりとかマジ勘弁だし」
「……」
「あー無理しんど! ってなったら、すぐ横になるって」
パタパタと手を振りそう言うソラに、エースは自分の無力さを呪いながら肩を落とす。その二人を見るジーノは眉をハの字に下げ、このまま自分まで暗い顔をしていてはいけないと思い立つ。
「では、ソラ様。……気晴らしにどこか歩きますか? と言っても、車椅子なのですが」
「いいね。私もそれお願いしようかと思ってた。部屋から出るなとは言われてないし……まぁ事前にお伺いは立てた方がいいかもだけど」
「でしたら私、ユエさんにお話ししてきますね」
「うん。お願い」
ソラが頷くと、ジーノはくるりと体を翻して部屋の出口へ向かった。彼女は目の前のノブを引き上げ、そのまま横に引く。別に閉じこめられているわけではないので、戸はあっさりと……音もなくレールの上を滑り通路への道を開けた。部屋の前には見張りと思わしき人間が一人いた。ジーノは堂々とした態度で彼にユエの居場所を聞き、通路の奥に消えていく。
戸のそばまで歩いて行ってその後ろ姿を見送ったエースは、見張りの男に小さく頭を下げて部屋を閉める。彼はしばらくその戸の前に立ち尽くしていた。
「えーっと……ところでエースくん、足の怪我は大丈夫なの?」
「はい。ユエさんの家の施術士さんに治療してもらいましたから……」
「そっか。それならよかった」
明るい声でそう言ったソラに、エースは自嘲気味に笑みを浮かべる。
「……駄目ですね、俺もジーノを見習わないと」
「そうだよ~。エースくんはお医者さんの役目もできるんだし。具合が悪い患者より、先生が不安そうな顔してたら……こっちは余計に不安になっちゃうからね」
ジーノが去っていた戸の前で思い詰めた顔をするエースに対し、ソラは仕方なさそうに……決して煩わしいということではなく、小さなため息をついてその名を呼んだ。そして振り向いた彼の瞳を見つめて、妙案を思いついたかのように表情を明るくして言った。
「分かりやすい指標があるといいのかもね?」
「指標、ですか?」
「そう。たとえば……ケイ先生だったら、こうするかな? って。そう考えると、冷静になれるんじゃない?」
「師匠だったら……」
「そう。憧れる部分を真似するところから始めてみると、いいよ。そこにエースくんの優しさや気遣いを足せば、キミはケイ先生以上のいい医者になれるはずさ」
医術のいの字も知らない人間が何を偉そうにとは思うが、ソラのその思いは本心だった。エースが年を重ね、経験を積み、これからも多くのことを学び続ければ、彼はきっと師を越える立派な医者──魔術師になるはずだ。言葉が人の心を刺す痛みを知っている彼だからこそ、親身になれる場面もあるだろう。
体の傷だけではなく弱き者の心にも寄り添える……エースにはそういう医者になってほしいとソラは思っていた。
「師匠を越える……医者に……」
それは彼の未来である。
ソラに言われて初めて自らの将来を見つめたエース。その背中を押すようにして、「命の重さを知るキミだ……多くの人をその手で救うと、私は信じてるよ」。そう、心からの願いを託す。
彼女の思いを受け止めたエースは視線を足下に落とし、つられるようにして瞼も閉じて視界を黒く塗り潰すと、次に目を開いたときには別人になったかのような気持ちでソラを振り向いた。
彼は部屋の隅に置いてあった車椅子を持ってきて小上がりの横に付け、
「ソラ様。ユエさんの許しがあろうとなかろうと、外に出ましょう。閉じこもっていては気が滅入りますからね。天気もいいみたいですし、新鮮な空気を吸って、海鳥を見ましょう」
「許可取らないと、さすがに怒られるかもよ?」
「その時はその時。俺とジーノも一緒なので怖くないです」
「確かに、キミたち二人が一緒なら怖いものなしか」
ソラは濃い色の手袋をはめた右手でぎこちなく口元を覆い、クスクスと小さく笑う。その下、服との裾の間に見える肌は黒く変色してしまっている。肌の変色は既に右足だけではなく、右半身を占めるまでに拡大していた。
ユエ曰く、陰の祝福を受けた魔力を使った副作用が目に見える形で体に現れているのだろう、とのことだった。魔力の属性を量を測る「証石」と同じ能力を持つ「分けの札」での測定によれば、ソラの持つそれは格段に力を増している。白き力は既に欠片ほどしか残っておらず、近いうちに彼女は黒の聖霊族と同じ存在になるらしい。
それはつまり、病に全身を蝕まれ死ぬことを意味する。
聖霊族のように強力な治癒能力を持たないソラに待つのは、その終着しかない。
「う……、ふふふ。けほけほ……、ふふ……」
空咳を繰り返すソラはそれをごまかすように笑う。小刻みに揺れる肩がどこか泣いているようにも見え、エースは思わず彼女の体を抱き寄せた。
「エースくん……?」
彼は背中から心臓の位置を抱きしめ、ソラの心に刻まれた自分の記憶に思いを託す。
「ソラ様。私は貴方様のおそばにおります。これからもずっと。ずっと……」
「……うん」
ソラはそっと頭を傾げ、エースの肩に頬を寄せて瞼を閉じる。
「ありがとう」
その言葉は柔らかな声色で、ただただ愛しい者を思いやる心にあふれていた。




