終 話 「悔いなき最後のために」
屋敷の敷地を出たエースは腕の中で騒ぐソラを無視し、自分の足音を追ってくるセナの気配を背後に感じながら竹林の中を駆けていた。
やがて竹林が切れ、雨に濡れた赤や黄色の広葉樹帯に入る。竹に比べれば太い木々の間に姿を隠すようにして進み、エースはどうにか麓の方へ方向転換できないかと考えていた。しかし後ろをついてくるセナに進路を邪魔され、彼は緩やかな斜面を登る方に足を向けるしかなくなっていた。
非常にまずい状況である。
一歩踏み出すごとにエースの息は上がり、ソラを抱える腕も震える。いくら体力に自信があるといっても、人を一人抱えての全力疾走はそう長く続くものではない。次第にスピードが落ちていく足は頻繁に地面のぬかるみに引っかかるようになり、エースは転ばないようバランスを取るために踏ん張って余計に体力を消耗していた。
そんな彼を見ていたソラは、いつの間にか騒ぐのをやめていた。
エースの頬に落ちる雨には涙が混ざっていた。彼は泣きながらも、ソラを逃がそうと必死になっていた。その様子を見ながらソラは思う。
これは、きっと……自分がエースを庇ったときと同じなのだ。
エースはソラを助けようとしている。彼の記憶を持つソラを。それはつまり、自分を救おうとしているのと同じなのではないか? これまで自分を責めてばかりいた彼が、初めて自分に心を痛めて、自らを救おうとしているのでは?
ならば、ソラとしてはそんな彼をこれ以上どやしつけることはできなかった。結果的に捕まるのだとしても、言い訳ができる程度には共に逃げてやらねばならないだろう。
「……」
残念ながら、ソラは逃げきれないことを確信していた。
自分にはエースを救ってやることはできない。少しでも気が楽になるよう言葉をかけたり、そばに居てやることはできるが、その心をすくい上げて日の当たる青空の下に戻してあげることはできないのだ。
ソラは己の無力さを痛感し、悔しさで泣きそうになる。だが彼女はその涙を耐えて、逃げ道を探して足を動かし続けるエースを見る。
そこに──響きわたる銃声。
直後、エースは苦痛に顔を歪めて足を止める。左足を庇うようにして近くの木に寄りかかり、そのままずるずると地面に崩れ落ちる。彼の腕から解放されたソラは、その左大腿部が赤く染まっているのを見て顔を青くする。
「エースくん!? ど、どうしよう……血が……!」
「だめ、ですね……。このまま、置いていって、ください……」
「でも──!」
「いいから!!」
「……っ」
「行ってください……! どうか……!!」
慌てるソラの肩を押し退け、エースは彼女に逃げろと言った。その声はあまりにも懸命で、願いを聞かないことには彼がまた別の重荷を背負うことになるとソラに感じさせた。
「……死んじゃ、駄目だからね」
「大丈夫……太い血管は、無事なようなので……」
エースは最後に、強がりの笑みを浮かべる。ソラはその頬に一度だけ触れると、痛みの海に沈む体に鞭を打って木々の向こうに消えていった。
それから数秒とせず、セナが姿を現す。
「よぉ。無駄な足掻きは終わりそうか?」
「貴方は……本当に容赦のない人だな」
「馬鹿野郎。容赦してなきゃアンタは今頃、脳味噌ぶちまけてるぜ」
セナはエースを見下ろし、その眉間に銃口を向ける。
二人の間に走る緊張。
しかしセナは銃を納め、エースから視線を外してソラが逃げていった方に体を向ける。
その足をエースが掴んだ。
「おい、何のつもりだ。離せよ」
「このまま行かせるわけないだろ……」
言い終わるや否や、足を蹴り上げて引き留める手を振り払ったセナと、無事な方の足で地面を蹴って一回転し立ち上がったエースとが対峙する。
互いに拳を握り込み、身を低く構える。二人とも自分の獲物を使おうという気はなかった。どちらが先に動くかはそのとき次第。遠くでパキリと枝の折れる音がして、それが合図になって彼らは拳を振りかぶった。
エースが横っ面めがけて打ち込んだ拳を、セナは一歩身を引いてかわす。セナはそのままエースの胴体に攻撃を仕掛けるが、その動きを察知したエースは彼の腕を掴み取って力任せに引き倒そうとする。
エースと比べて体が小さいセナはいとも簡単に振り回され……しかし彼もただで転ぶつもりはなかった。セナはあえて上体を折り曲げて下を向き、地面に叩きつけようとする力を逃がしながらも片足を踏み出してその一瞬を堪え、反対側の膝を振り上げてエースの左足を踏みつけた。無論、彼が先ほど銃撃した傷口を狙って、である。
エースはわずかに顔をしかめ、それでも掴んだ手を離さずにもう片方の拳でセナの顔を殴りつけた。その一撃をまともに食らったセナの視界にはわずかに星が飛ぶが、その程度の痛みでうろたえるようでは騎士は務まらない。
何なら土手っ腹を撃ち抜かれても立っていられるくらいの辛い戦闘訓練を受けているのだ。セナはなすがままに押し倒されながらも、追撃の拳を振り下ろしてくるエースの拳を瞬時に避け、足をエースの体との間に畳み入れ即座に蹴り上げる。エースもその動きに気づいて何とか飛び退こうとするが、タイミングはセナの方がほんのわずかに早かった。
衝撃は半分ほど逃がしたものの、結果として蹴り飛ばされたエースは地面を数回転がった。何とか受け身を取って体勢を立て直したのもつかの間、エースよりも先に立ち上がっていたセナがその顎を蹴り上げる。
自分の意志とは関係なく上空を向いた視界が歪む。続けざまに米神のあたりを鋭く蹴りつけられ、エースは頭蓋骨の中で脳が一回転したような蕩揺を感じた。早い話が脳震盪である。
ばたりと地面に倒れたエースを前に、セナは足下に唾を吐いて、
「クソが。手こずらせやがって……」
忌々しげに呟いた。そしてあたりを見回して叫ぶ。
「おい、巫女さん! 見てんだろ。どこにいる」
「はいはい。ここに」
どこからともなく現れたのは、胡散臭さに磨きがかかったユエである。
「魔女は山の奥に向かった。あれならすぐに追いつけるだろ。行けよ」
「言われんでもそうします。けど、アンタはんは?」
「俺はこいつをふん縛っておく」
セナはエースの肩を蹴りつけ仰向かせた。
「……まさか、死んだりしてへんやろな?」
「気を失ってるだけだ。さっさと行けよ」
「分かりました。そしたらこちらはお任せします」
「ああ……」
ユエはセナをその場に残し、彼が指さした方向へ歩いていく。
ぬかるんだ地面には足を引きずった跡が残っていた。所々で転んだ痕跡もあり、ユエはソラの体の状態が思った以上に悪いと気づく。どこぞで足を踏み外し滑落されても困る。一見すると傾斜は緩やかに見えるこの山であるが、木の陰で勾配が急になっていることがあり、中にはほとんど崖の様相を呈する場所もあるのだ。彼女は歩幅を広げて歩みを速め、木々の間を縫うように進んだ。
しばらくすると視界を埋め尽くしていた赤や黄色の葉が消え、開けた場所に出た。
ソラはそこに、待っていたと言わんばかりに立っていた。ユエはやや切れかかっていた息を整え、彼女と相対した。
「……追いかけっこもここまでや。もう腹決めとる思てましたけど、違いました?」
「まさか。気持ちは決まってますよ」
「ほな、これは最後のあがきいうことやろか。気ぃはお済みに?」
「それは……私に聞かれても、困る」
「何やて?」
「私自身は……逃げるつもりなんて、なかったということ……です」
「アンタはん、まさかあの二人の……どうにか逃がそうとした事実を作るために……?」
よもや信じられないといった様子で目を丸くするユエ。血のつながりもなく、言ってしまえば赤の他人だというのに、ソラがそこまでしてあの兄妹を気遣うのはなぜなのか。ユエには理解できなかった。
ソラを犠牲に自らの大願を成そうとする彼女には、理解できるわけがなかった。
だからユエは、どこか寂しいものを見る目でソラを見つめた。
「ほんにお優しいお方だこと……」
「別に、優しさとかじゃ……ないですよ。全部自分の──私自身が、後悔しないために、やっておくべきことを……やってるだけです」
「それでもあまりに健気で……。哀れやわ」
「やめてくださいよ」
ソラはユエの言葉をぴしゃりと遮る。
いつの間にか薄くなった雲の合間から、緩やかな日差しが差し込む。時間的にはちょうど昼過ぎの頃。天高く上った太陽はソラの頭上で輝き、それはまるで後光のようにも見えた。
「これは私の人生。その生き方を、決断を、覚悟を……他人にとやかく言われる筋合いはない」
彼女の目にあるのは、揺るぎない決意だった。
「私は私の意志で、死ぬことの意義を見つけた」
泥だらけの姿で。
今にも崩れ落ちそうな足を奮い立たせて。
ソラは痛みを耐えて奥歯を噛む。
痛いと言えば楽になるかもしれないのに、それを飲み込んで、彼女は杖もなく自分の力だけで立っている。
そうして、確固たる思いを口にする。
「悲しんでほしいとは思うけれど、哀れみはいらない。こと貴方に至っては、私を哀れと思う資格はない」
それが分からないと言うのなら、ユエは本当の人でなしだ。
「……」
ユエは何も言えなかった。もっと投げやりな気持ちで自らを捨てると決めたのかと思っていたが、ソラの言葉は意外にも力強い。
これだけの信念を定めるには若すぎる気もする。ユエは思わず「本当にそれでいいのか」と聞きそうになり、それこそ外道以下の言葉だと思いとどまる。
ソラは決して自らの生を諦めたわけではない。
どこで果てるかを、自分で定めたというだけの話なのだ。
「自分の死期を悟るのもそう悪くないですよ。気持ちにケリをつけて、やれることをやりきって終われるんだから……」
余命を宣告され、それでも悲嘆に暮れることなく自らの人生を畳む準備をする。そういう者を哀れと言う人間がどこに居ようか。
こうした決断をすることに、年齢は関係ない。年を取っても迷う者は長く迷うし、そうでない者は案外あっさりと自分の行く末を決めてしまう。
ソラは後者だった。
これまで度重なる不運に見舞われ、あいている穴には漏れなく落ちてきたような人生……そこに梯子を掛けられることは、きっともうない。それを悲しいと思う。悔しいとも思う。けれど与えられた幸運は確かにあった。
無為に、何も成し遂げられず、ただ時間を浪費しただけの終わり──そうではない終焉を迎えられるというのなら、大切なただ二人のためだけに行動しようと思ったのだ。
そう思えることこそが、最後の幸せだと心から信じて。
「私ね、知ってるんです。後悔が少なく死ねるって、思いのほか得難い……幸運なんですよ……」
だから、それを無駄にするつもりはない。
決して。
何があっても。
ソラは自らの心臓を握りしめるようにして胸の前に拳を握る。傷口から染み出した血がその手を赤く染めたが、彼女は痛みなど感じていないかのように毅然とした表情を浮かべていた。




