第20話 「逃走」
ソラはもう、立ち上がれそうになかった。手の怪我もそうだが、緊張のあまり忘れていた全身の痛みが戻ってきて、体を自由を奪っていた。彼女は震える手を見やり、その傷口周辺が血のせいではなくわずかに黒ずんでいるのを確認する。
この変色は病の進行度を示すだけではないのかもしれない。
ソラは硬直する指をそのままに、額に張り付いた髪を拭う。今は少し、肺も痛い。空咳をして胸を押さえる彼女を見て、ただならぬ異変を察知したエースが祖の身を案ずる。
「ソラ様……本当にお体は大丈夫なのですか?」
「いや、いや……だい、じょぶ。……」
「本当に?」
「……ごめ……、あちこち、痛いだけ」
「……いつからそうなんです」
「あー、っと。クラーナで、魔法使って、ちょっとして、から……」
徐々にか細くなっていくソラの声に、エースの心配は増していく。
とにかく場所を移動したいが、ユエの屋敷に戻ることはためらわれた。彼女は軸に至る者の役目をソラに強要しようとしている。その手の内に自ら落ちることはできない。
とはいえ、このままここに居るわけにもいかない。
エースは周囲を素早く見回し、人の気配を探りながら声を潜めてソラに言う。
「ソラ様、逃げましょう」
「……駄目、だよ」
「なぜです……!?」
「キミたちに、危害が及ぶことが、あっては……困るから」
「俺は──」
エースは苦しげに言葉に詰まり、
「貴方のためなら死んでも……」
ソラは彼の唇に震える指先を押しつけ、その決死の思いを飲み込ませる。彼女は困ったような悲しいような表情を浮かべ、それは言っちゃいけない……と呟く。
「駄目なんだ。私は絶対に、逃げないよ。約束、守らなきゃ……だから」
「約束?」
「私にはキミたちを、無事に……スランさんの元へ、返す義務がある。それは何があっても……果たさなきゃならない、約束だ」
ソルテ村を出るとき、我が子を連れて去るソラを睨んでいたスラン。血はつながらなくとも彼は確かに二人の父親だった。今なら彼があのとき感じた悔しさや恐怖がソラにも分かる。大切なものが奪われることへの怒りも、我が事のように。
だからこそ、ソラの頭にはもう「逃げる」という選択肢はなかった。
一つでも後悔は残したくなかった。
誰も恨みたくないし、恨まれたままでいたくなかった。
そんなソラの思いを正面から拒絶したのは、ジーノだった。
「私、ソラ様の言うことは聞けません」
「何で……」
「そんなの……ソラ様と同じですよ……」
彼女もまた、後悔をしたくないのだと言う。それを突き通しジーノに危害が加わった場合、ソラの悔いが残ることになるわけだが、そこを考えないのはいかにも彼女らしかった。案外グイグイくる性格で、押しが強い──自分の思いを強く持つジーノは、エースと顔を見合わせて頷き合う。
「分かってる。俺も同じ気持ちだよ」
「よかった……。ではお兄様、ソラ様をお願いいたします」
「ああ──」
そこに突如として天を裂く轟音が鳴り響く。同時にソラたちの足下に何かが食い込み、泥が跳ねた。
とっさにソラを庇ったエースは音をたどって屋敷の玄関の方に顔を向けた。そこにいたのは、一切の表情なく銃口を掲げるセナの姿だった。その後ろからユエも現れ、
「兄妹ケンカ、終わりましたやろか?」
そう微笑み、あらかじめ指示してあったのだろう……仕草一つで彼女の周りや屋敷の屋根の上に侍従一同が姿を現し、ソラたちを遠巻きに包囲する。数にして十五。その誰もがツヅミと同じように手足に符術布を巻き付けており、彼に相当する戦闘能力を持つことを窺わせる。距離からして問答無用で捕まえる風でないが、必要とあれば攻撃もやむなしといった気配だ。
これならば、二人もさすがに観念するはずだ。ソラはどこか安堵したような表情を浮かべてユエを見る。だが彼女は急に体を持ち上げられ、打って変わって困惑の顔つきになった。
「なっ、何するの!?」
「行ってください、お兄様!」
「すまない、ジーノ!」
「ちょ、ダメ──! 駄目だってば!」
「ソラ様! 大人しくしないと落ちますよ!!」
ソラを抱えたエースはすぐさま侍従たちの気配がない方に向かって駆け出す。それを追いかけるようにして動いたのはセナだった。
「セナはん、あんじょう気張りや」
「言われるまでもねぇ」
「行かせませんよ!」
残ったジーノは持っていた短剣を腰袋に放り込むと、自分の杖を抜いてセナに向けた──が、魔法を撃つ前にユエの符術がジーノを撃退する。その隙にセナはエースを追って竹林の中に消えていった。
「うちらかて、アンタはんの好きなようにされるつもりはあらへんよ」
「……チッ!」
「あら、綺麗な見かけによらずお行儀の悪いお嬢さんやね」
ユエは錫杖の先から垂れる長い符術布をくるくると手に巻きつけ、侍従一同を見回して言う。
「そしたら皆さん、家の方には被害を出さんようにしとくれやす。お庭は……まぁ仕方あらへんな」
ジーノはその妙に綽々とした顔が気に入らなかった。
「家の心配ですか。随分と余裕ですね……?」
「アンタはんもなぁ? お得意の火力にモノを言わせた魔法でどうにかなると思てはるのかも知らんね。さてはて勝手の違う符術相手に果たしてどんだけ張り合えるか……見物やけど、そんなことしてる暇、うちにはあらへんのよ」
ユエは袖口に隠した手を前後に振り、犬でも追い払うかのようにジーノを遠ざける。彼女はこの場を離れる直前、近くに控える老侍従に小さく耳打ちした。
「あの子、殺したらあかんよ。大陸さんと同じ徹は踏みとうない」
「心得ております」
「そらよかった。ほんならよろしゅう」
そうしてユエは優雅な足取りでセナの後を追った。もちろんジーノはその足止めをしようと魔法を放つ。だが、降りしきる雨を蒸発させながらユエを狙った炎はジーノとの間に割って入った老侍従の符術によって阻まれてしまう。屋根から降りてきた他の侍従たちもじりじりと距離を詰めてきている……一気に襲いかかって来ないのはジーノの出方を見ているからなのか。
ジーノは一度背筋をピンと伸ばして、それなら初めから最大火力で相手を圧倒するまでだと杖に膨大な魔力を送り込む。四種の属性を流し込まれ七色に光を放つ金剛石──それを頭上高く掲げるのに併せてジーノの足下から魔法の渦がわき上がる。
それは蛇のようにうねる炎であり、触れるものを凍りつかせる絶対零度の切っ先であり、目に見えぬ刃を巻き上げる風であり、悪魔が棲む海さながらに全てを地下に飲み込む地の魔法であった。
侍従たちはジーノが魔鉱石に魔力を送り込んだ段階で彼女に飛びかかろうと行動を開始していた。屋根の上の者は宙に躍り、地上に居た者はジーノの魔法が地面を走るよりも早く地を駆けた。しかしながらジーノの魔法は強大で、彼らの戦闘技術を力業でねじ伏せる威力を持っていた。ある者は吹き飛ばされ、またある者は地面へ叩きつけられ、相反する属性でも相殺しきれない灼熱に翻弄され、打ち砕くことのできない凍れる刃に血を飛ばす。
ジーノにとって、彼らを退けることはクラーナでの巨人戦に比べれば赤子の手を捻るも同然……いとも容易いことだった。だが、その結果にはどうにも違和感がある。この場を任せたユエはクラーナで天を突く巨人にたった一人で対抗したジーノの魔法を目の前で見ている。そして彼女は確かに、自分の手下を信頼してジーノの相手を命じたはずなのだ。だというのに、この拍子抜けもいい抵抗は何なのか。
まるで生ぬるい。
手応えがない。
守りに徹する必要すらない……攻撃こそが最大の防御であるという今の状況に、次々と手を変えながら敵を退けるジーノは妙な焦りをもって杖を振るっていた。あたかも意図的にその手を取らされているような感覚が続き、攻撃の合間に周囲の様子を見たジーノはあることに気づく。
驚くべきことに、ユエが命じた通り、屋敷への被害が出ていないのだ。
庭の方では樹木を裂き池の水を蒸発させ、川を潰し、石を砕き……と原型をとどめぬまでに破壊し尽くしているというのに、屋敷に至っては一切その被害が出ていない。ジーノの魔法が建物に及びそうになる度に、符術の帯が長く延びてそれを打ち返している。
ジーノは慌てて自分が敵対している相手を見る。
誰もが傷を負っているが、膝を折る者はどこにもいない。息を切らせている様子もない。
今の今まで、ジーノの攻撃は一つも決定的な一撃を与えるには至っていなかった。それを知った彼女は素早く思考を転換し、彼ら相手にこのまま攻勢を強めることが無意味であることを確信する。ならば次にどう動くべきか。ジーノはその答えを求めるようにして無意識のうちに体を反転させ、エースがソラを連れて消えていった竹林の方に顔を向ける。
その視線の遙か向こうから、雨音にかき消されるようにして銃声が聞こえた。
「お兄様!」
「おや。よそ見はいけませんよ、お嬢さん」
「──ッ!?」
瞬きをしたほんの一瞬、その隙にジーノの目の前に現れたのは老侍従だった。彼は符術の文字を左右逆さに書きつけた手の平でジーノの首を鷲掴み、その体を宙に持ち上げて一気に地面へ叩きつけた。頭への衝撃がひどく、ジーノは思わず杖を手放してしまう。
彼女はもうろうとする意識の中で必死にもがき、首を掴む老侍従の手を爪で引っかく。だが、その手は次第に力を失っていく。
「う、ぐ……! これは……。なに、を……!?」
「貴方様の首に転写しましたのは、我が国では暴徒を取り締まるのに有効とされる術の一つでして。欠点としては対象に接触せねばならぬところですが、体内の氣──貴方がたが言うところの魔力を強制的に発散させるこれは、相手の動きを封じる最も確実な手です」
老侍従は無表情のままそう説明し、ジーノの首から手を離した。ジーノはゆっくりと色彩を失っていく視界の中で、首に写された墨の文字を拭い取ろうとでたらめに皮膚をこする。だが、文字が雨に滲んで消えるよりも先にジーノの魔力は底をつき、彼女は意識を失った。




