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異世界神の黒き花嫁  作者: 未鳴 漣
第四章 東ノ国
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第19話 「弟妹 3/3」

「私は弱い人間です。そうであるがゆえに、許されない罪を犯した」


「そう。それはキミが一生、背負わなければならない……過去の過ちだ」


「はい。だから私は、妹に恨まれていてもいい。これからもそうであってくれて、かまわない」


「お兄様……貴方は……」


「ジーノ。愚かな兄の懺悔を聞いてほしい。こんなこと言う資格はないし、結局のところ自分が全部悪かったことは分かってる。けど……、それでも俺はあの日々を許せないんだ。俺を壊したあの女が許せない。今だって、思い出すだけでどうしようもなく憎悪がわき上がってくる……」


 それは自分を責めてばかりいたエースが初めて口にする、最初で最後の憎しみだった。


「あの女の言葉は実に巧妙だった。細い針をゆっくりと爪の間に刺すかのように、じわじわと……何を言えば俺が自分を責めるか、そういう苦しめ方を──痛めつけ方をよく知っていた」


 ジーノはエースの告白を聞きながら唇を噛む。彼女としては今にでも兄の言葉を遮って否定したいところであったが、目の前のソラが血に濡れた人差し指を口の前に立てている。その仕草にあらがうことはできない。


「……彼女はそれと同じことをジーノにまでしようとしていた……俺はそれを阻止しなければと思った」


「キミは、ジーノが何より大切だったものね」


「……ですが、私のやったことは間違っていました。私は結局、妹を守るためと言いながら自分の憎しみをぶつけただけだったのです」


「ああ。知ってるよ……」


「私は……、俺は。決して許されない罪を犯した。だから、これからもずっと許されてはいけないと思っている。後悔してるんだ。もっと他に、何か別の……告発する方法があったはず……」


 エースは瞼を閉じ、目尻から溢れてくる涙を耐える。


「なぜ貴方は……お父様に助けを求めなかったのです……? ケイ先生に相談すればよかったのに──」


「できなかった!! そんなことは……あの時の俺にはできなかった!」


「……」


「もう随分と気が弱っていたんだ。毎日が地獄だった。吐き気と共に目覚め、悪夢を見ながら眠る。その繰り返し……お父様や師匠の優しい言葉にさえ、何か裏があるんじゃないかと……微笑むその口でいつか俺を痛めつけようとしていると……そんなこと、ないのに……分かってるはずなのに、どうしても想像してしまうんだ。そんな自分がたまらなく嫌だった。醜いと思った……。俺は心底、自分が嫌いだった。死んでしまえと思ったよ。けれどその決心がつかない。実に無様で情けない。日々の苦しみはまるで沼の中で泥を食いながら溺れるような…………。やはり、死んだ方が楽だと思えるほどの……」


 途切れ途切れでまとまりのない彼の言葉が、雨の中に消えていく。


「……まだ引き取られたばかりで上手く打ち解けていなかったからなんていうのは言い訳にしかならない。助けての一言を言えなかった俺が弱かった。勝手に自分一人で抱え込んだ俺が悪いんだ……」


 自分でその一歩が踏み出せなかった。


 解決しようとして選んだのは最も忌むべき方法だった。


 それは全て自分が悪いのだとむせび泣くエースに、ソラは言う。


「違うよ……」


「いいえ。違うなんてこと、ありえない……」


「違う。助けてと、声にできなかったことが悪かったなんて。それは絶対に違う」


 夢の中で伝えることができなかった言葉を言い聞かせる。


 エースもジーノも、善なる子どもだった。親を失い、見知らぬ土地で知らぬ人間に引き取られ、最初のうちはちょっとした反発心もあったが、血のつながらない親子の仲は徐々に結ばれようとしていた。ぎこちないながらも愛情を注がれ、二人は良き人格を形成し成長しようとしていた。


「酷いことを言われたのも、キミに原因なんてなかった。ねぇ、ジーノ。そうでしょ? キミならよく知ってるよね。彼は……キミのお兄さんは、とても優しくて、人の悪口を言ったりなんて、しない子だった」


 そこに現れた、善人の仮面を被った悪魔のような女。母親役のいない家にやってきて、見かけだけはその立場に納まった彼女──だからこそ、なおのこと質が悪かった。


「ジーノ……キミにとって、あの教師はどんな人だった?」


 ジーノが当時を思い出しながら、ぽつりぽつりと呟く。


「先生、は……私にとって、母のような人でした。あの人が私にひどいことを言ったことは一度もな、い。いち、ど……も……」


 そうは言いつつも、ジーノはどこか引っかかるものを感じたようだった。兄の切実な訴えを聞き、それを無下に否定することもできなくなった彼女は、もしやと思う心当たりに行き当たってしまった。


 だが、それを思い出すまいと彼女は別の場面を探る。


「私はしっていました……。おにいさまの笑顔がくもるのは、必ず、先生のじゅぎょうの後だったということ……きづいていました……」


 ソラも夢の中で見た光景──無垢な少女は兄を心配し、問う。


「だから、だいじょうぶかと……ジーノは、おききしたのです……」


 その時、エースはジーノに心配をかけまいと微笑んだ。いや、もしかしたら妹さえも信用できなくなっていて嘘をついたのかもしれない。それほどまでにエースの心は壊れていた。人を信じようとは努力するものの、心の奥底では信用できない。


 言ってしまえば、スランにしろケイにしろ、過去の経験から「二人が自分を害するわけがない」と理解している(・・・・・・)だけなのだ。それは本当の意味での信頼にはほど遠い。


 エースはそんな自分が大嫌いだったという。死んでしまえと思ったと。


 自分で自分の死を望むなど、どれほどの苦しみであっただろうか。


 ジーノは自分の胸を刺す痛みに顔をしかめ、かつてそれと同じ感覚があったことをついに思い出した。


「い、一度だけ。心がチクリと痛んだことがありました。あれは……あれは……私がお兄様のように理解できなかったとき……難しい教本の内容が分からなくて先生に助けを求めたとき……」


 彼女はこう言った。


 ──こんなことも分からないなんて……。


 そう、吐き捨てるように。


 彼女はジーノを蔑む瞳で見て。


 嗤ったのだ。


「私、恥ずかしくて、自分が情けなくて。あの人を失望させたくなくて、私は……私は……」


 ジーノの記憶は雨音と共に葬列の黒に移り変わる。


「あの人が亡くなった日。顔色を失って目を閉じるその顔を見て、私の頭には一瞬、その時の視線が蘇った」


 今にも起き上がり、目をカッと開いて、青白い顔を醜く歪めて軽蔑の眼差しを向けるのではないかと。恥ずかしくて消えてしまいたくなるようなことを言われるのではないかと……ジーノは思った。


「でも、あの人はもう……」


 彼女の感じた恐怖とは裏腹に、その目は二度と開かなかった。そして、


「私は……それに心から安堵したのを覚えている……」


 ジーノは自らも把握していなかった真情を吐露し、そのとき初めて兄の苦悩を知り、地獄のようだと言ったその人生に心を痛めた。


 ソラが言うとおり、エースが彼女を刺し殺したのは事実だ。偽ることも忘れることも許されない最悪の罪だ。けれど、彼にはそれ以前に彼女から受けたひどい仕打ちがあった。それをなかったことにされては、エースが余りにも不憫だ。


 あの女は間違いなく、無垢な弱き者を蔑み苦しめ傷つけた。そうすることで快楽を得ていた最低最悪の人間だったのだ。


 短剣の錆びが剥げ落ちたのと同じように、化けの皮が剥がれていく。優しい幻想が醜悪な現実に置き換わり、ジーノは自分の目が曇りきっていたことを自覚した。


「わ、私でさえ……こんなにもうろたえて、傷ついたというのに。お兄様……貴方は──」


 彼女は自らの浅はかさを思い知ると、兄と同じようにソラの前に膝をついた。


「私は……、最後の最後で兄の期待を裏切ってやろうと思っていました。今までのいい子のふりが全部嘘だったと、何もかもひっくり返して……兄が貴方様を大切に思うなら、それを奪って一緒に果てようと……」


「そうだったんだね……」


「私は。本当に、自分勝手で愚かな人間です」


「……ああ。そうだね」


「ソラ様……申し訳ありません。私は……とても貴方に顔向けできない」


 ジーノは両手で顔を覆い静かに涙を流す。ソラはそんな彼女の前に片膝をつき、右手を使えない代わりに今はもうない左手でその体を抱きしめる。


「……いいんだ」


「ですが……」


「いいんだよ、もう。ジーノちゃん……キミがこれを、捨ててくれるのなら」


 顔を上げたジーノに、ソラが右手を差し出す。


 そこに刺さったままの刃。ジーノはそれを涙で濡れた両手で包み込み、意を決して一瞬の間に引き抜く。


 ジーノは当初、それを投げ捨てようとした。だが、どうしても手を離せなかった。それは過去への未練などではなく、「捨てる」という行為がこれまでの自分の愚行をなかったことにする無責任なものに思えたからだった。彼女は血の滴る錆びた鉄を握り込み、涙ながらに言う。


「これを、捨てることはできません……」


「どうして……?」


「愚かな私は、いつか今日のことを忘れてしまうかもしれない。そうならないために、戒めとして……持っておかねばならないのです」


「そう……。エースくんは、いいの?」


「ジーノがそう言うなら、俺はジーノに持っていてほしいと思います……」


 エースはゆっくりと立ち上がり、ジーノの隣に歩いていって膝をつく。兄は妹が握る両手に手を添え、


「俺、少し救われた気がしたんだ……」


「え……?」


「ちゃんと、恨まれてたんだね」


「お兄様……。私……本当に、ごめんなさい……」


「俺もだ。ごめん、ジーノ……。俺はお前の大切なものを、たくさん傷つけてしまった」


「そんな……」


「ソラ様も……こんなことに巻き込んでしまって、申し訳──」


「いいよ、言わなくても。君たちの気持ちは、十分に分かってるから……。もう、ここまでにしよう?」


「……」


「家族ってさ、絆が深ければ、キミたちのように……互いを許し合うものでしょ? どれだけ馬鹿なことやっても、見捨てられない。どうにかしてあげたいと思う。まるで呪いみたいだけど……そういう、良くも悪くも打算では切り捨てられない……しがらみなんだ。私は結局今も自分の家族のことを思い出せないけど、でも、そういう思いはちゃんと、私の中にある。だから──」


 導き出される、赤い月の下で自らに問うたことの答え。


 やはりというべきか、決まってしまった。


 いや、初めから決まっていた。


 それを確認するためにけしかけたとも言えるこの悶着。真に謝るべきはソラなのかもしれない。


「ごめんね……」


 そして、ありがとう。ソラは右手の傷を見、満面の笑みを浮かべる。


「私は……キミたちのことなら、全て許せるんだ」


 この二人のためなら何だってできる。


 ソラはそう確信していた。

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