第11話 「小さき者の願い」
朱櫻にあるユエの屋敷に泊まった翌朝。ソラは質素な作りの手狭な部屋で一人先に目を覚ました。体の痛みのせいで眠りが浅い彼女はまだ眠気の残る瞼をショボショボとさせながら、転がるようにして上体を起こした。その拍子に、肩から衿がストンと落ちる。
ユエから借りた寝間着は単衣の着物だった。ソラはずり落ちた衿を軽く整え、布団の上に掛けておいた羽織に袖を通した。そして、誰も見ていないのをいいことに裾だけはだらしなくはだけさせたまま、三つん這いになって部屋の出口に向かった。
隣で眠るジーノや衝立の向こうのエースを起こさないよう慎重に移動し──と言っても、エースに限ってはソラが起きあがった時点で既に目を覚ましていた。しかし彼はあえて静かに行動するソラには声をかげず、横になったままで頭の上を通り過ぎていく気配にのみ気を配り、彼女が障子戸の雪見窓をわずかに引き上げる音を聞いていた。
山の向こうから昇った朝日が正面の主庭を明るく照らす。
ソラは静かに戸を引き開け、そろそろと廊下に這い出た。冬はまだ先であるが、肌を撫でる空気は晩秋を思わせる冷気を含んでいた。
「結構冷えるな……」
日に当たればそれほどでもないが、ソラは羽織の衿を首元まで握り合わせて小さく身震いした。そのまま戸の内鍵を外して濡れ縁に出、大きな踏み石の上に素足を下ろす。
ひんやりとした感覚が左足だけに伝う。
はだけたままの裾から見える右足は既に膝下まで変色が進んでいた。ソラはそれを裾の下に隠すと、「そろそろ足を隠せる服に変えないとだなぁ」と呟いた。だが、ソルテ村から着ていたものだと今の季節には厚すぎる。
「……っても、ユエさんから借りるわけにもいかないし」
流石にそこまで厚かましくなれないソラは大人しく例の厚手のレギンスを穿くことを決め、揃えた膝の上に頬杖をついた。
白い朝日の中で葉を真っ赤に染め上げる紅葉を眺め、細い川を流れる水の音に耳を澄まし、鯉が跳ねる水音を聞く──と、そこにザラザラと何か細かな物が投げ入れられる音が混ざった。何だろうかと思いソラが音の聞こえた方に目をやると、庭の端にある池で鯉の餌やりをしている小さな人影を見つけた。
袂と裾に小さな模様を配した薄染めの着物に、美しい黒髪がよく映える少女……ナギはソラに気づいていないようで、恥ずかしがり屋な気質の割に大胆な動作で鯉に餌をやっていた。しまいには餌の入った升をひっくり返して中身を池にこぼし、底を叩いて世話を終える。
ソラはその仕草にクスリと笑い、するとその声が聞こえたわけではなかったが、ナギは不意にこちらを振り向いてソラの姿を発見した。
ソラは頬杖から顔を上げて小さく手を振る。ナギはそれにどう応えたものかしばらく迷い……餌の入っていた升をその場に置くと、手をパタパタと叩いてからソラの方に駆け寄ってきた。まさか向こうから近づいてくると思っていなかったソラは一瞬振っていた手を取め、焦りを露わに周囲を見回す。が、助けてくれそうな人間は誰もいなかった。
「おは……、おはようございます、です。崇子様」
「……はい。おはようございます」
「昨日は、その……失礼をいたしました。崇子様とは、知らずに。大きな声に驚いてしまって……」
「ああ、いやいや。それは大丈夫だよ。全然ね」
「ありがとうございます。崇子様は、お優しい方ですね。お母様の言う通りなのです」
「えっと、キミはナギちゃん……だよね?」
「はい。覚えていていただけて、光栄です」
「私はね、ソラって言うの。よろしくね」
「はい。崇子様」
「……うーん。駄目かぁ」
何と呼ばれようと別に構いはしないのだが、できれば名前を呼んでほしかったソラはがっくりと肩を落として力なく笑った。そんな彼女の背後に音もなくエースが立つ。
「ソラ様」
「どわ! びっくりした……。おはよう、エースくん」
「おはようございます。驚かせてしまってすみません。その子は……?」
「ユエさんの娘さん、ナギちゃんだよ。さっき鯉に餌やってるとこ見つけて、ちょっとお話ししてたんだ」
「やはりそうでしたか。おはようござます、ナギさん」
エースはソラの斜め後ろで控えるようにして膝をつくと、光にとけるような金髪の毛先を払って肩の後ろに流し、ナギに微笑んだ。
「お、おはよう、ございます……です……」
そのしどろもどろな口調は緊張ゆえであるが、人見知りのそれではなかった。美しいものを前に少女のまなざしがぼんやりとするのを見ながら、ソラは「分かる……分かる……」と一人で何度も頷いていた。
ナギの頬は次第に赤く染まっていく。エースはそれを、血色がいい子だなと見当違いな解釈をしていた。
「いつもこの時間から起きてるの?」
「朝、鯉に餌やりをするのが、ナギの日課なのです」
「そうなんだ。偉いね。俺はエースって言うんだ。よろしくね」
「ひゃ、い……」
今にも口から飛び出しそうな心臓を押さえ、ナギは舌を噛みながら何とかそう応える。その様子があまりにも可愛らしく、それと同時に同じような顔をしていた少女たちの姿を思い出して、ソラは遠い地を懐かしむようにして表情を緩めた。
だが次の瞬間、彼女の顔は突如として肩を襲った痛みに歪んだ。徐々に腰を折って前屈みになり、波のように何度も押し寄せる痛みを耐える。
「崇子様!?」
「ソラ様! 大丈夫ですか!?」
「へ、へーき。ちょっと、えっと……」
ソラは肩口を押さえながら適当に誤魔化そうとする。──と、そこにナギとエースの声で起きてしまったのか、ジーノとセナが部屋から飛び出してくる。
「お兄様! ソラ様に何かあったのですか!?」
「どうした!? 何があった!!」
「ああー。みんな起きちゃったね……」
ソラは前屈みの姿勢まま体を捻って背後を見上げ、心配そうな顔をするジーノを見た。その横で、特に何事もなかったことを確認したセナが子ギツネを頭に乗せたまま半眼になっていた。
「何なんだ、いったい」
「いや、ただの……関節痛で。少し大げさに痛がりました……」
「紛らわしいんだよ」
「スミマセン……。しっかし、風邪の引きはじめかな? 気をつけないと」
踏み石から足を引き上げたソラは濡れ縁で膝を抱える。その肩にほんのりと暖かい羽織が掛けられた。エースの気遣いだ。ソラが肩越しに振り向いて礼を言っていると、今度はナギに手を掴まれ、彼女は正面を振り返った。
「お体は大切に、なさってください。です」
「え? あ、ああ……そうだね。心配かけちゃってごめんね。ナギちゃん」
「謝るのは、ナギの方なのです。崇子様がお寒いのに、ついついお話を長引かせてしまいました」
「いいんだよ。私もナギちゃんと話せてよかったし」
「ですが、本当に……ご自愛ください。崇子様は、大変な使命を帯びていると……お聞きします」
「大変な使命──?」
おうむ返しにソラが聞くのと、遠くからユエの声が聞こえるのとは同時だった。
「ナギ~? どこに居てるん~?」
長廊下を歩く彼女はまだソラたちが寝ていると思っているのか、極力声を絞り娘を探していた。その声を聞いたナギは、「お母様! こちらです」。そう言って両手を挙げて大きく振った。ユエはその小さな姿を見つけると、小走りになって向かってきた。
「餌やりからなかなか帰って来ぉへんし、池にでも落ちてしもたんかと思ったわ」
「な、ナギは! そんなにドジではありません!」
思わず見惚れてしまったエースの前で情けないことを言われたくなかったのだろう。ナギは自分でも驚くほど大きな声を上げ、すぐさまその小さな口を自らの手で塞いだ。顔を赤く染め、ユエとエースを交互に見やる。
その様子で我が子の憧れに気づいたのか、ユエは少し意地悪な表情を浮かべてナギをつついた。
「何や、今日はえらい食ってかかるやないの」
「お母様が変なことを言うからなのです……」
「そやった? それで、ソラ様たちと何をお話してたん?」
「朝のご挨拶を。それから、崇子様の具合がよくないようでしたので、大丈夫ですかとお聞きしていました」
「あら……ソラはん、大丈夫なんです?」
「ええ。平気ですよ」
「朝食まではまだ時間がありますし、用意ができたら呼びに行きますんで、もしやったらギリギリまでお休みになっててください」
「そうですね。そしたらお言葉に甘えて……お布団でぬくぬくしてようかな」
そう言ってヘラリと笑ったソラはエースに手伝ってもらって立ち上がり、緩慢な動作で部屋へと引っ込む。
その背中に、ナギの声が届く。
「崇子様!」
「何かな……?」
「あの、きっと……。きっと、世界をお救いくださいね!」
「……」
ナギは何を思ってその言葉を言ったのか。場の空気が凍り付いたことに気づかず、皆が皆口を噤んでしまったことに少女は首を傾げる。
そんな彼女の背を押して期待の視線を逸らさせたのは、他でもないユエだった。
「──ほな、うちらは一度失礼しますわ。ナギもご挨拶しぃや」
「はい。失礼、いたします。崇子様」
「うん。じゃあね、ナギちゃん」
ソラは頭を下げる無垢な少女に微笑み、手を振る。そんなソラを見つめるユエは我が子の言葉を申し訳なく思いながら、深々と頭を下げた。




