第9話 「誤算」
ソラが朱櫻近郊の港に着いた頃、マキアスたちはナナシと入れ違いで北斗に入港していた。天気は生憎の曇り空だったが、船を降りた一同は久方ぶりの陸を前に明るい表情を浮かべていた。特にエクルなどは地べたにそのまま座り込んで、「やっぱり人間、地に足が着いてないと駄目だよな」などと言って地面に頬擦りをしそうな勢いで陸への愛着を語った。
「えー? 先輩、地に足着いてたことありましたっけ?」
「は? 着いてんだろ」
ほら、と言ってエクルは両足で地面を叩く。
「そういうとこっスよー」
「あン? お前なに言ってんだ??」
「いえいえ。陸に降りて元気になったようでよかったっス」
「おうよ。任せとけ」
とにかく海の上でなければエクルが使い物になることを確認したフェントリーは、その本心を柔らかい表情に隠して周囲を見回す。
見たことのない建築様式。
大陸とは全く異なる意匠の服をまとう人々。
何から何まで初めて見る風景であることに、フェントリーは少なからず胸を躍らせていた。任務がなければ今すぐにでも観光だ何だと理由を付けて街の中を走り回りたいくらいである。せめてこの珍しい光景を目に焼き付けようと、彼は小さな体を上下に弾ませて遠くまで見渡す。
その視界の端では、ケイが現地の人間を相手に大声を上げて取り乱していた。
「島間移動は原則禁止!? どういうことだ?」
「どうと言われましても……首都では未だに流行病がありますから、仕方ありませんよ」
北斗から朱櫻に移動してエースたちと合流しようと考えていたケイは、出鼻を挫かれて頭を抱えていた。彼女はユエの名前を出してどうにか特別な計らいが受けられないものかと試行錯誤したが、終いには官吏が出てきて丁重に断られることになった。
ここ第五都市「北斗」から副都「朱櫻」へ行くには、第四都市がある島群と首都「宮上」がある島を経由する船で向かうしかない。しかし首都では今もなお疫病が蔓延しており、外から新たな病原が来ることや病が他の島に広がる危険性を考え、人の出入りは必要最小限に抑えられている。
「──それは十分理解しているが、首都に寄らずに行くという方法は……」
「海流の関係上、ございません。申し訳ありませんが」
「……」
深々と頭を下げた官吏にケイはそれ以上食い下がることができず、無理を言ったことを一言謝り、しかし憮然とした足取りで船の方に戻ってきた。その一部始終を遠巻きに眺めていたマキアスは片方の眉をつり上げて彼女に声を掛けた。
「おう。お戻りか、先生」
「……よもやそちらの差し金ではあるまいな? ……いや、ありえんか」
「何だか知らんが勝手にこっちのせいにされちゃ困るぜ」
マキアスは肩をすくめ、「どうした」と聞いて先を促す。
「隊長殿には都合のいい話さ。島の移動が制限されていてな、どうにも弟子と合流できそうにない」
「そいつは……不運なこった。そしたら先生はどうするんで?」
「ここでハイそうですかと大人しく引き下がれるか。何とかして移動する手段を探すつもりだ」
「そうかい。大変だな」
彼はどこか同情的な表情を浮かべ、あっさりと引き下がる。
「その台詞、嫌味にしか聞こえないぞ……」
「悪い悪い。けどまぁ、先生の邪魔はせんよ。しなきゃならんその時まではな」
「……猶予は?」
「ロカルシュの話じゃ、奴らはここ北斗に寄港して何やら耐寒装備を積み込んで北に向かったそうじゃないか」
「らしいな。それを追うなら貴方がたも荷の積み込みやら装備の新調やらがあるんじゃないか?」
「ああ。急がせてはいるが……」
そこでマキアスは帳面を片手に荷物の在庫を確認している番頭を捕まえて聞いた。
「頼んだ物を揃えるのにどのくらいかかる?」
「あんたらの前のお客からも同じような装備の調達を依頼されてましてね。予備で用意してた分に足りないのを追加で頼んで……」
「予備? いつもそんな手厚く商売してんのか?」
「いや……いやいやまさか。今回は朱櫻のお家直々の依頼だってんで、特別ですよ。不備があったら次の取引に響きますしねぇ。いろいろと余分に見繕っといたってわけです」
「まぁ、結果的にはありがてぇが……。そしたら、どのくらいで用意できそうなんだ?」
「一日くらいですかね」
「──だそうだ」
マキアスは番頭の答えを受けてケイを振り返り、そう言って首を少し傾げた。ケイは腕を組んで少し考え込んだ後、
「……分かった」
諦め半分の態度で頷いた。彼女はマキアスの元を離れ、人の少ないところへ移動して今後の方策を思案し始める。
まず頭によぎったのは洋上で聞いたマキアスの言葉だった。
──あの日、宿借りの逃亡を幇助した騎士の末路を聞いた後、東ノ国に着いたら現地でエースと合流すると言ったケイに対しマキアスは、「弟子との合流を諦めてくれ」。心なしか申し訳なさそうな顔をしてそう言った。
ケイはもちろん、こう答えを返した。
「断る」
「そう言うと思ったぜ」
椅子から立ち上がったマキアスは船室の中を歩き、ケイと斜めに背中合わせになる場所で彼女と同じように机の端に尻を乗せた。
「そっちがそう言うなら、こっちもなりふり構ってられねぇな」
「どういうことだ?」
「騎士規則、第二十六条三項の行使が許可された」
さすがのケイも聞き慣れない言葉に表情が変わる。マキアスが口にした条項の示す文面をにわかに思い出せないケイに変わり、ルマーシォがその内容を説明する。
「有事の際に騎士の権限を強め、任務遂行に必要と判断される行動を公から個人に及ぶまで指示することができる。というものです」
「先生には何が何でもこっちにつき合ってもらうぜ」
「……すまないが、書面で確認させてくれ。でなければ承伏できん」
ケイはあくまで冷静にそう受け答えるが、マキアスたちにしてもその要求は想定済みだったのか、権限行使の許可を記した書簡を用意周到にケイに見せた。
やけに手触りの良いその紙には、鉄線の花と蔓を描く空押し加工が施されていた。流れるような文字に滲みや色ムラなどはなく、上質なインクとペンを使って書き付けられたものだと分かる。ケイは鉄線の意匠を見た時点で手を震わせ、文面最後に記されたサインを目にして鬱々としたため息をこぼした。
「王命ときたか……」
「そりゃあな」
すっかり意気消沈してしまったケイから書簡を受け取り、マキアスは丁寧な手つきでそれを折り畳んで懐に仕舞う。
「俺たちが追ってるのは大陸史上希に見ない大量殺人犯だ。あれだけの人間がたった二人の手に掛かって死んだなんて、遠い昔の統一戦争でもなかっただろうよ」
マキアスは胸くそ悪いと付け加えて唸る。対してルマーシォは感情のない声で彼の後を続ける。
「加えて南方一の大都市クラーナの破壊。物流経路まで潰された今では南方どころか大陸中で物資の調達に混乱が生じています」
「生活の細かな物から市民の健康、果てには国防に関わる物まで。何もかもだ」
「今では魔女を軽く通り越して最重要手配人ですよ。魔法院ではなく国王直々に触れを出したのですから、それも当然ですが……」
それからほんの数秒であるが、沈黙が下りる。
その間にケイは机から椅子に腰を下ろし、マキアスもまた同じように椅子を引いて腰掛けた。二人は斜めに向かい合い、顔をつき合わせて声を潜める。
「国王派閥は国政に魔法院が介入するのをよく思っていないんだったな」
「カシュニー襲撃の現場に居た先生なら知ってるだろうが、あいつらの片割れは少なからず魔法院に縁のある人間だ。王側近には優秀な諜報員がいてな、その辺はもうバレてるわけよ」
「取った背後を突かないわけがない、か」
「そういうこった。だが……どっかの誰かの手引きで肝心の宿借り連中は国外に逃げちまった」
「第三国の関与──まぁその疑いありという段階だが、それは想定外だったか」
「全くとんでもねぇボンクラだぜ、俺らがよ。結局のところ二人を取り逃したわけだからな」
マキアスはその瞳に剣呑な光を浮かべて表情を厳しくする。
「この汚名はそそがなきゃならん。何としてもだ」
「国王派閥も宿借りを捕まえ、事件の背後関係を明らかにしたいと考えています」
騎士の名誉もそうだが、これは国の威信をかけた大捕り物だ。国民をなぶり殺しにされ国土までも破壊され、挙げ句その犯人を捕まえられなかったとなれば、騎士だけではなくその上に立つ国王の不信にもつながりかねない。
同時に、魔法院を国政から追い出したい王派閥もこの好機を逃せないのだから、それはまさにマキアスが言うとおり、どんな手段を取っても成功させねばならない任務なのだった。
ケイは血気に逸る男たちを前に、冷静さを失わずに問う。
「国家間でのやり取りはないのか?」
「我が国は薬剤方面でかなり彼の国の世話になってるからな。そこはやっぱり、ただの疑いで相手の機嫌を損ねたくねぇの」
「マキアス殿も言ったが、国民の生命を他国に握られているなど、憫然そのものだな……」
「その辺にも魔法院が一枚噛んでいるという噂があるんですよねぇ」
ルマーシォは憎々しげにそう吐き捨てる。
ケイは観念したように両手を上げて前のめりだった上体を起こした。
「……そちらの都合は十分に理解した。しかし、なぜ私なんだ? 体調維持が目的か? それならエィデルを連れて行けば事足りるだろう」
「ハハッ! そいつはついでってもんだ」
「肝心なのはロカルシュくんですよ」
「そう、あの野生児。あいつは宿借りの追跡に必要不可欠だ」
「今のところフェントリーが上手く接していますが、いつまた能力を盾に駄々をこねるとも限りません」
「これまで手綱を握ってきた相棒くんが居てくれりゃあ、アンタを巻き込むことはなかったんだがな」
マキアスはケイの黄金に輝く右目を指さし、ニッと歯を見せる。
「猛獣と言うにはちょいと間抜けだが、野生動物じみたあいつを飼い慣らすにはアンタの手が必要なのさ。先生のその目──あいつと同じ獣使いとして、その特性もよく知ってんだろ?」
「まぁ、な……」
「そう嫌な顔をされないでください。失敗は許されない任務ですから、不安要素はどんなに小さなものでも取り除いておきたいんですよ」
「……もしもの話だが、そちらの指示を拒否した場合にはどうなる?」
「相応の処罰がある。とだけ言っておこうかね」
「……」
具体的な内容を言わないところが何ともいやらしい。おそらく、その処罰はケイ一人への適用だけでは済まないだろう。王命による騎士規則の行使に反発すると言うことは、つまり国家に反逆するにも等しい。下手をすると交流のある人物へも何らかの嫌疑がかけられる可能性がある。
ケイのこれまでの人生は人とのつながりによって成り立ってきた。後ろ盾はそれなりにあると自負しているが、それにしたって国家には逆らえまい。長年かかって築き上げた信頼や義理があるとは言っても、それに応えて国を敵に回してくれとは彼女も言えなかった。
何より……、旧友のスランにだけは迷惑をかけたくない。
ケイは非常に不本意といった表情で、口を尖らせる。
「指示は了解した。が、……少し待ってくれないか」
「構わんぜ。気の済むようにしてくれ」
どうなるにせよ、もう結論は出ている。いくら自由奔放に振る舞うケイでも、国家権力に睨まれればひとたまりもない──。
「……」
思い出していた洋上での出来事に、ケイは顔をしかめてうつむく。
「馬鹿か私は……待ってもらったところでどうにもならんだろうに……」
朱櫻へ向かうために手を尽くしたが努力叶わず──そう言い訳をするためにしか足掻けない。己の無力さを呪いながらケイは天を仰いだ。




